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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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「ランキングの嘘」と王子製紙の謝罪と

2008-01-19 11:24:03 oyazの投稿



悪いけど、このアメーッバブログが営業を伸ばさんがためなのか

うそ臭いランキング操作をしているってことを最近直感っしている。


ミートボールのシャチョーは逮捕された。

赤福は営業停止。

船場吉兆は嘘に嘘を重ねに重ねてババの囁き会見で終焉。

最近は王子製紙が古紙の割合をごまかしたことがわかり陳謝。

今度は、初のブログ運営会社の「申し訳ございませんでした」会見か?


ブログも色々な運営会社が星の数ほどあるのでしょうが

そんなにランキングを伸ばさせて、何のメリットがあるって言うのっ?


小中学校で競わされ、高校受験、大学受験、社会人になれば

また競わされ、「勝ち組」が優等生というこの日本社会の狭隘さ。

度量が狭すぎないかッ!?競争の連続かいっ死ぬまでキミたちっ!?


もっと目を覚ませやっ!ブログ運営会社諸君!

恥ずかしいとは思わないか?第一線でそんなランキング操作をして

ブログ筆者をランキングノウハウGIVE&TAKEのような価値観に

引きずり込んでいこうとする「市場主義経済」じみたやり方に。


賢明な読者の皆さん、こんなアメーバッ某の記事は読まない

ほうがいい、残念ながら。



不幸であり幸せ

2008-01-17 06:57:40 oyazの投稿

ウチの末娘は小学5年で中退し

以来、学校にも、いわゆるその辺のありふれた社会にも

行かなくなったし、人前には出られなくなり、はや16歳になる。


この子のおかげで

私たち夫婦も、二人の姉たちも

人生観、人間観、生き方、人を見る目をガラッと変えさせられた。


それまでは、いわゆる「中流」のサラリーマン家庭で

親も二人の姉も、中くらいかその上のほどほどの頭と学歴を

持っていた。「不登校児童」そんな言葉は聞いてはいたが

まったくよそごとの、我が家にはありえない「非常識」だった。


それが、この末娘によって、突然世界ヒロシという中で

我が一家だけが台風に狙い打ちされてしまったように

それまで平穏無事だった家庭に非常識の不登校が

突然、始まったのである。


本人は頑として学校に行かない。

ナニがあったのかも、言わない。

誰かにいじめられたのかも、言わない。

モチロン、理屈で理論的に言える年齢でもなかった。

生来の強情さもかたくなさに拍車をかけたかもしれない。

高校を中退するのとはワケが違う。義務教育の、それも

また小学校だというのに、「ドロップアウト」「中退」人生の

長い過程の助走段階で、この子はいきなりその道から

降りた、自分の意思で。常識的固定観念に知らず知らずに

しばられていた我々から見て、自分のしていることの重大性を

彼女はわかっていない、という思いにとらわれ我々大人のほうが

気が狂わんばかりだった。


それから5年も6年も経った。

私たちは依然として「ひきこもる」末娘に根気よく

付きあい続けている。彼女は体だけはその辺の

高校生のように大きくなり食欲旺盛な食べ盛りだが

精神は幼稚園児か小学校低学年並み。同じ言葉を

断片的に繰り返したり、母親に異常なしつこさで何かを

漠然と要求し続けたりして、時々母親の精神こそ変調を

きたすほどである。そんな時、東京で暮らす姉が帰ってくれば

とっても心から嬉しいらしく、末娘の気持ちはいつになく和む。

母親であるワタシのつれあいの、気持ちも実に穏やかに和む。


はたから見ていたら、我が家は精神障害者の子供がいて、

いっつも母親がつきっきりで面倒を見ていて、そして

オヤジは会社を辞め百姓を始めたが食っていけず、毎晩

どっかに夜勤に出ているらしい、白猫2匹のいる怪しい家庭

にしか見えないことだろう。いちいち近所に説明するのも煩わしいし

第一、この状況は当事者でなければきっと決して理解できない。

そうしてハタから見れば、そんな末娘を抱えてさぞかし不幸に

見えることだろう。が、それも当事者にしかわからないことだが

存外楽しく幸せなのである。

金も地位も学歴も常識も、何もかもなくしても

人にはわからない「非常識な幸せ」ってあるのである。



適応能力

2008-01-15 11:07:18 oyazの投稿

南米ブラジルのサンルイスという町から300km離れた海岸に

この世のものとは思えない純白の砂丘レンソイス・マラニェンセス

国立公園というものがあることをBS1で偶然見て、知った。

11月から1月中頃までが乾季で、何万年もかけて海辺に堆積した

石英の膨大な砂が、海風で陸に吹き上げられ鳥取砂丘の何十倍もの

世界一広大な、それも純白の砂丘が現出していた。

石英はダイヤモンドに似た透明な硬い石でそれが波によって細かく

ま~るい砂に変えられたため、さらさらとまるで水が流れるように

砂丘の表面をすべり下りるのだった。その辺りの様子は

宇宙から衛星で見ても、くっきりと白く映し出されていた。

たとえば私たちが宇宙人だとして、この地球のたまたまこの

レンソイスの砂丘に不時着してしまっていたら、ここを緑豊かな

水の星:地球、などとは決して信じないであろう。それくらいそこは

地球とは言いがたい不思議な景色なのである。


そして1月後半から雨が降り始める雨季になると更に驚くべき現象が

現れた。なんとあの純白の砂に雨がたまり、大砂丘のあちこちに

青い池が出現するのである。そればかりか不毛の砂丘のはずなのに

池の中に水草が生え、魚が泳ぎ、1cmの世界最小カエルまでいた

し、どこからともなく大型の亀まで歩いてきて池の魚を食べ始めた。


そしてまた乾季は来て、水は干上がり、真っ白な砂丘へと変貌する。

という、繰り返しを何万年も続けてきたらしい。研究者はブラジルの

学者が一人きりで、詳しいことはまだまだわかっていないという。


何故砂丘に水溜りができたからって、いきなり魚が泳げるようになるのか

目が点になって、クエッションマークだけが頭の中で点滅する。

しかもまた干上がってその魚たちは死んでしまうはずなのに、???

亀もまた魚がいるうちだけ夜も寝ないで食べ続け、乾季が来ると

砂丘のどっかに埋もれて「まとめ寝」して生きているのだそうな???


この魚、カエル、亀、水草たちの「適応能力」を、はたして

自分に置き換えても可能なのだろうか???

可能なのではないのか???

可能のはずだ!?

と、だんだん寝なくともあとで「まとめ寝」すれば大丈夫なのでは

ないかと、シダイしだいに、本気で思い出すじぶんは

昔、魚だったし、カエルの時もあったかもしれない、、、、、、と

摩訶不思議な想像世界にカンタンに入ってしまうほど

不思議この上もないレンソイス魔界である。





高尚な喜劇 vs 爆笑お笑い

2008-01-15 10:12:15 oyazの投稿


シェークスピアの劇を長年味わいつつ、真顔でうなづく人。

井上ひさしの「肩こり(片頭痛、シニクエン、くしゃみに)樋口一葉」だったかの

理屈をこねくり形にした、七面倒くさい劇などに感じいり見入る人。

そういう類の笑いや劇は、ソッチョク、ハッキリ言って、全然ピンとこない。


実際理解でき、納得顔するインテリジェンスな高学歴な方々、

その一方、くだらない低俗M1のような卑笑に腹を抱えるワタシ。

古典や新劇を額面どおり受け止めてわからないコトはないが

感覚的に、直感的に、筋や台詞を難しくしたうそっぽい三文芝居に見える。

それって、わかんねーだろ~な~っ、おまえたちなんかにゃ~って

シタリガオする、常識的でウイットを充分理解していると思い込んで

大人がガキを見下げるような、そんな嫌味と無礼ささえ感じる。


ガキのワタクスなんぞに言わせリャ、ウイットの本質は

チャップリンやMr.ビーンのように、言葉がなくても

ピーンとくるおかしみや笑い、だと思う。


何故今、林家三平が昭和の爆笑噺家として懐かしがられたり

何故、ハナ肇や植木等が懐かく思い出し笑いされるのか?

谷啓の「ガチョ~ン」って台詞が何故「意味があって面白い!」なんては

誰も考えないか?直感的に面白く愉快なだけだからだ。


その時代、ピアスをつけた性悪反逆作家であっただろう

シェ-クスピア。その彼の作品は今や世界の劇の古典として

仏教界に伝えられた何万冊もの経典のようにありがたがれている。

ワタシの著述も遠い将来『新釈:百姓一揆日和』全集などという

ことで、日の目が当たる日が来ないとも限らない。

(いやっ、当たらないっ!)(や。。やっぱり~。。)




金持ちの風景

2008-01-14 07:20:50 oyazの投稿 

自分は(さいわい)金持ちではないので

「自分が金持ちだったら」っていう想像ができる、悪いけど。

実際のお金持ちはこういう想像は決してできないだろう、かわいそうに。

で、代わりに、ワタシは彼らにその想像できた内容を教えようと思う。


自分が金持ちだったら、最初は豪邸を建て、高級車を買って

数寄屋橋次郎のお店に入り浸るかもしれない。

でもそのうち飽きて、郊外の一軒家を借りて、自転車しかない

暮らしを始めるだろう。庭は畑にしてしまい、自家用に野菜を育てる。

財布には、2~3日買い物できるほどの2000~8000円があるだけ。

つれあいと箱入り娘と3人で買い物に行き、たまに公共の温泉につかり

なんということのない、でもおいしい家庭料理でワイワイと楽しい。



つまり、金持ちだろうがそうでなかろうが

結局、財布に買い物できるほどの2000~8000円があるだけ、の

生活に戻るのだ。金持ち貧乏を問わず、毎日の所持金こそが

ワタシというニンゲンの本当に必要な「お金の額」なのであって

ほかに何百万、何千万、何億円お金があったとしても、自分には

目下、関係がないのである。あっても仕方のない額なのである。


フィリピン大統領だったマルコスのイメルダ夫人が

追い出された宮殿に残されてあった靴が優に2000足はあったとのこと。

足は2つしかないのに、靴を日に、2000回も履き替えていたのだろうか。

ネクタイを何十本も持っている人がいるが、首は一つだというのに

一つの首に何十本のネクタイをぶら下げるて歩く気だ?って笑ってしまう。


ニンゲン、欲に先導されて、モノを次々買いあさるが

必要なのは「首には一本のネクタイ」

「足には一足の靴」「下着は一枚のパンツ」、、、そんなことは

誰でも百も承知のくせに、皆散財しまくっている。

ニンゲンとはそんな「強欲が歩いている」ような

「死ななきゃ治らない」性悪を抱えたシロモノなのであろう。


「笑い」とvitaminC

2008-01-13 07:58:01 oyazの投稿 
ノーマンカズンズというアメリカのジャーナリストは

難病に侵された時、妻に家を出られ、家族からも見放された。

突然の死の宣告と、なおかつ家族を失う壮絶な孤独に

彼の生は一度に見舞われる。

こうなれば絶望し、自殺するくらい、むしろ自然だと思う。

なのに、彼はそうしなかった。「どうせいつかは誰でも死ぬ。

家族とも別れがくる。最期はひとりだ。だったらこの難病人と

いう大役に果敢にチャレンジしてみて、逆転劇に変えてみせたい」

そう考えたのか、彼の著書にそんなセリフがあるワケではないが

おそらく追い詰められた断崖絶壁に立たせられた人間の、

それが行き着く先に観念した覚悟だったのではなかったか。


しかしその不治の病といわれる難病には有効な手術も特効薬もなかった。

何人もの医者に、彼は「お手上げ」される。はやり「自殺」するほうが

ずっと楽なふうに見える。「人の心なんて実に弱い」はずなのに

彼はなぜか死ななかった。それが「覚悟」だけでできるものなのか

「開き直り」の強いニンゲンだったのか、むしろそこがワタシには

興味がある部分である。


結論から言えば、細胞を活性化し、悪い因子に細胞が立ち向かえる

vitaminCを欠かさず摂り、これたま細胞を活性化し元気付ける

「笑い」を常に心がけ、周りの人々をも巻き込みながら明るく振舞う

独自の対処法を日常的に彼は続けた。そしていつの間にか

その難病を克服し、以前の通常の体に帰還するという奇跡をおこした。

だから我々ニンゲンには「笑いとvitaminC」が根本必須栄養素

として必要なのである、というのがこの著作の教訓じみた結論である。


モチロン!かっなり、有効なのである、この「笑いとvitaminC」

病んだ体にも心にも。だからレモンの20倍もvitaminCが含まれる

パセリをかじりながら面白おかしく生きていれば人間病気知らずになるし

第一、精神も体も常に億兆の細胞たちが常に活性化している状態に

保たれているから、いっつも「活き活き」とその人が輝いて見えるのである。


栄養学的なvitaminnCは置いといても、「笑い」は確かに病を癒し

いつの間にか家族をも巻き込んで精神を健全にし元気付ける

大きな作用を持っていることは確かである。それがニンゲン独特な

固有の特徴だとしたら、なおさら「笑い」はもっと研究され

推奨されて然るべき他の動物に見られない不思議なのである。


しかしそれにしても、である、そんな難病でなくても

たとえば「癌」に侵されたニンゲンが「決して死なずに生きてやる」

と思える原動力は、一体どこから沸き起こり、覚悟するのだろう。




鎌田実は「がんばらない」とは言うけれど

2008-01-12 15:11:21 oyazの投稿


老い先短いジーサンバーサンたちは

頭と体ではそう悟ってはいても、

実際に体があちこち弱り、病気がちになり、癌がみつかり、

歩くこともおぼつかなくなり、骨がもろくなり、記憶も定かでなくなり

目は白内障になり、連れや同級生を失い、食への関心も薄らいでくれば

「ワタシも本当にまもなく死ぬのだ」という恐怖と不安と絶望と諦めが

感情を蝕み、ますます何の力も湧き上がらなくなってしまうのだろう、

毎回老人ホームの夜勤を勤めながら、入居中の皆さんと

2コト3コト交わす会話の中で、そんな雰囲気を感じている。


そこにはもはや「そんなに落ち込まないでガンバッテ!」などとは

軽々しくは言えない、実際に目の前に切羽詰った死の順番が

誰に訪れてもおかしくないリアルな緊張感が間近にある。


だから誰かが風邪をひいても「お大事にナ~」とか

「あったかくして無理しないでヨ!」とは言うが

「ガンバッテ」とは決して言わない。


何か「がんばんべ~!!」みたいなエールを贈りたいのは

山々なのだが、それはとっても嘘臭い気がしてしまうのだ。

人生の最終章にいる人々とはもっと偽らざる魂の会話を

最期になるかもしれない一言二言のなかで交わしたいのである。

いつか自分にもつれあいにも必ずやってくる死という順番だが

「体は萎えても、輝くように魂をいきいきと燃えたぎらせて

明るく元気に死んでいく」なんてことの、なんと難しいことか、って

最長老たちと間近に接することのできる職場を得てはや2年、

しみじみと感じ入るこの頃である。

人の心は、弱い

2008-01-11 06:54:22 oyazの投稿

あんなに仲良くしていたのに、と見えていた

男女が、、、友達同士が。。。。親子が、、、、、

心をすれ違わせ、互いに傷つき、精神を病み、分かれていく。


イジメの言葉の繰り返しや執拗なストーカー的攻撃で

人の心なんてカンタンに萎えていく。心は暴力に弱い。


では、強くなるにはどうしたらいいのか?

いや、そういう短絡的な対処法にすぐに頭がいくことは

愚考だろう。「心は弱いもの」をまずは認めてしまおうと思う。

その上で、ではどういう現状打破の方法があるのだろうか、を

考えてみるほうが、遠回りみたいだがいろいろ深く考えられるだろうし

自分も、相手を、周りの人たちをも広く見る視点を磨けるはず。


そう、「磨く」ものかもしれない「心は」。

窓や眼鏡のレンズが強い力の作用で曇ってしまったら、

そのガラスをまずは磨いて曇を晴らすことが先決。

心を強くして、強い作用に対して反抗しても、そこには

「イスラエルとパレスチナ、アルカイダとアメリカ」のように

終わらない地獄の暴力の応酬、疲弊と滅亡があるだけなのでは。


人の心は弱いのだ、実に。

ひ弱な体を鍛えるのも難しいが、心を鍛えるのはもっと難しいし

何十年もかかるし、ご老体になっても達観できない人だって

ゴマンといらっしゃる、それが人間世界の現実である。

「愛さない」ならば「憎む」が残る。

それは、平和がいやなら、戦争か、に似ている。

自然界ではもっと厳しい、肉体の弱いものは強いものに

食い殺される。


ニンゲンは自然界の中ではもっとも弱い動物の一種だと思う。

それが、自然界にないPCBを創り出し、蔓延させ、力のあるもの

だけが我が物顔に世界をのし歩く。バカが武器と大金をもって

裸でのし歩くように。人間はいつの間にか自分がこの世で一番

強くて賢いんだと勘違いし、傲慢になって、今、自ら招いた

環境破壊の急速な進行の中で、核爆弾も使うことなく滅びようと

しているかのようだ。


人は弱い、みんな。

「愛さなけらば」生きていけない、やがて人類はこの星と共に滅びる

そう、カミサマは人間の心の条件として、鉄則を設定してから

止まらない時間という、物理的鉄則のスイッチを押した。




ワタシャ会社のために自分をなんぞ捧げない

2008-01-09 10:50:44 oyazの投稿

「会社人間」「24時間、働けますか」「ファイト一ッ発っ~!!」

「正社員」になったとたんニンゲンって「会社人間」に変身できる

のかもしれない。私も随分残業代もゼロで、休みの日まで働いた。


それは逆にお客さまのため、に個人的に献身していたのであって

会社のためではない、という割り切りをどこかでしておきたかったから。

それと「いつまでもあると思うな親と金」で、残業代を生活基本資金に

組み入れ、生活設計すること自体間違いだと強く思う持論のためだった。


いづれにしても、正社員がためのコバクサイ自己犠牲、滅私奉公に似た

まねごとを20年近くやってきた。


今は食えない自営の百姓であり、だからこそ夜勤を掛け持つフリーターだ。

だが、実に気分は会社人間であった当時には想像もできぬほど「気楽」だ。

はっきり言って「何の責任もない」「何のノルマもない」

誠実にお客様に接し、不快にさせず、楽しく、明るく、快活に

就業規則で決められた以上に、自主的に仕事をやれば

それで良いだけの話だから。


ニンゲンは食っていくために、どんな形態で働いても構わないのである。

中には毎日パソコンに向かって株や先物の売買で生計を立てる人も

いるだろう。ハチプロもいるだろう。路上生活者だっている。

彼らには最も深いライフスタイルへの洞察があるのかもしれない。

自分をこの世で最も「自由な」自分として生かしてやる

それが「路上生活」だったのかもしれない。

家族も、会社も、地位も名誉も学歴も素性も捨てた

彼らの「何の、誰からも束縛されない自由」

の代償はされど、現実生活的には、この上なく厳しいが。




気持ち良さそうな表情はしても、笑わない目

2008-01-08 13:00:30 oyazの投稿



我が家の猫は「笑わない」

と言うか、笑う猫がもしいたなら是非ワタクスにもご紹介いただきたい


笑う犬はいると思う、のだが、猫は思い浮かばないのである、過去にも

モチロン我が家の「銀ちゃん」「丸ちゃん」とも今や大股おっぴろげて

人間以上にくつろいでは、その上グルーミングなんぞをしてあげれば

この世の極楽とばかりにうっとりした恍惚の声で甘える

のではありますが、いわゆる犬が目をクリクリピカピカして微笑むように

あるいは馬が涙を潤ませたような大きなつぶらで頬を寄せて笑う、のに

どんな至福のとき至悦の状態でも猫君たちの目はどっか極めて

クールである。、、、、、、そ~じゃあ~りませんか?皆さんのとこ?


それは「目の形によるんじゃない?」って言うひとがあれば

ワタクスはそのご意見には素直に頷きたい気はしてますですが

、、ワタクスも五木ヒロシ目なので「笑ってるのか泣いてるのか」

計り知れずにとっつきにくいと、本人の本意とはまるで違う印象を

持たれ続けて数十年、、、外見的偏見意見には諸手をあげますがネ


極論すれば「笑わない」のかもしれない、ニンゲン以外の動物は。

オス同士がメスを巡って争い、エサを力の強いものが独占し

良い居場所も強いものが我が物にするのが自然の動物たちだし

本物の自然の中で生きる者たちはいつ強者に食われてしまうかと

絶えずビクビク目を光らせているもの。その血を受け継いだ家猫

君たちだって、だからちょっとした物音にもぴょ~んと牛若の

ように後ッ飛びして身構えるし、用心深そうに目を吊り上げるんだ。

「ライオンの末裔」の我が家の猫君たち、どっちも真っ白なので

ジャングル大帝の「ミニチュア版」とも見えなくないし、

蛙のほかモグラ、時には木の枝に止まる現役の鳥さえ捕獲する

能力を持つ、、やっぱしアフリカのライオンは吼え、唸り、満腹後

だらしなくくつろぐこそする姿はTVで見るが笑ったりはしないしね

@@@@@@やっぱ、猫は元来「笑わない」「笑えない」のかも。




創造をビジネスにできる名脇役

2008-01-07 10:52:34 oyazの投稿



創造性豊かな才能の持ち主が「ビジネス」を単独で成功させる例は

あんまり多くはないのではなかろうか。

たとえばコシノヒロコやジュンコは数少ない成功者かもしれないが

彼女らにだって推進役やお手本となる母がいたワケである。


成功者の内実は知る由もないが

成功者にはきっと「彼女彼らの才能を開花させ、ビジネスを推進する」

名パートナーが必ずやいたに違いない、と実はひそかに思っている。


三代将軍徳川家光が二条城の改修デザイナーに小堀遠州を

任命して、後世に残る見事な建築と庭園を完成させたように、

あるいは岡本太郎にはのちに養女になる岡本トシ子がいて

彼のいっさいのビジネス管理をしていたように、

『でん六』豆の社長鈴木伝六の懐刀に山口某という専務がいて

日本全国に販売営業をかけて回ったという猛牛がいたように、

名パートナーとの巡り合いの如何によってある人の才能が

満開に開花し、成功するかどうかが、決まってくるように思える。




裸一貫、徒手空拳で生きる

2008-01-06 10:39:31 oyazの投稿

23、24の頃までのワタクスには、

自分がホントーに社会人として働けて、月給をもらえて、

人間として食べて、結婚して、一人前に暮らせていけるのか

まったくもって、「一寸先は闇」のごとく、先が見えなかった。

一條の希望の光が見えない生の漠たる不安は、幼いころから

あった。が、だんだんと体も顔つきも年齢も一丁前になってくれば

「大人らしく」しっかりせねば、というプレッシャーや自覚と、

それとは全く裏腹な、「私」という生存する意味を捜し求める不安と

両方のはざまで、若きウエイテルは「不条理」を感じて生きていた。

今やM1グランプリにアッハアッハ笑い転げながら、ムスメと自ら

漫才コンビを演じる、大酒のみ大声脱線オヤジに変身してしまったが

繊細で、不安で、アンニュイなファンダメンタル精神構造は

物心ついた幼年期からずっ~と心の一番根底に今でもあるのだ。



不思議なのは

人は「一瞬」しか生きられないことである。

今の今が一瞬にして過去となり忘れ去られ、あすが

一瞬にしてやってきては過ぎ去り、忘却のかなたへと去っていく。

だからこそ、その刹那を、いとおしくも大事に生きなさいと

先人は「一期一会」と言い、芭蕉は「百代の過客にして、、」と

詠んだ。明日はもう自分はいないかもしれないし

いつかは、み~んな、いなくなる。

私を知っている人も、そうでない人も

私が愛した鳥や猫や犬や蛙たちも、やがて皆いなくなる。


何故そうカミサマは創ったのか?

大金を貯めても、権力を握っても、いなくなる明日は

もう何にもならないようにするためである。

人は金塊を背負ってあの世には誰一人いけないのである。

肩書きも、名誉も、教養さえも、あの世では通用しない。


たまたま現世に生を受け、生きるハメになった不思議に

驚きつつも、巡り合いに感謝し、この世の一瞬の舞台に

立てていることを心から嬉しがって花を咲かせろ、

次の種を備えよ、、、、ただそれだけで良いのかも知れない。


「何を食べようか

何を着ようかと心配するな

野の雀でさえあんなに着飾り、食べることができているではないか」

昔読んだフレーズはただの昔語りではなく

一瞬を生きる刹那のこの世の生物たちへの真実なのかも知れない。



気楽な生き方のススメ

2008-01-05 08:06:24 oyazの投稿


ワーキングプア時代が定着してしまった、USAでも日本でもアジアでも。

そんな日本の片田舎の街で、ワタクスは夜勤を2箇所でやりながら

生活している。2つの仕事を合わせても15万円にしかならないワタクスは

間違いなく、今日の身分制度のワーキングプア階層のニンゲンだ。


でも、それが何が悪い?って「居直り」ではなく「真顔で」ワタクスは思う。

日中は自分の好きに使える時間があり、夜は月の10日を老人ホームに

寝泊りし、ジーさんバーさんたちと世間話や昔話に興じて楽しいし、

後の10日は、ビジネスホテルの夜間フロントマンとして時には外人さんに

得意の英語で案内したりして、緊張もあり、語学的刺激や以前やっていた

旅行会社の教養も生かされ、なかなか自己実現できる良い仕事だ。

夜勤という肉体的苦労はついてまわるが、家で仮眠をすれば

解消できる問題である。



夜勤2つで年収200万にもならない「趣味的百姓」であるこのワタクスだが

ケッコー、この気楽で、ストレスをほとんど感じない今の仕事と生活

スタイルが気に入っている。

以前の会社勤めと違ってストレスがないので髪の毛さえ

この頃、部分的に生え始めた。精神的に健全な何よりの証で

ある。かくのごとくな不安定なワーキングプアをやりながらも

正社員に採用され、時間も拘束され、ノルマを課せられ、それで

同じ15~20万円程度の会社員よっかヨッポド気楽で楽に金が

稼げる今の自分のほうがイイよねって思う。30万、40万あれば

もっといいものを食べれ、いい服や新車が買えるのかもしれないが

所詮「ニンゲンンやったり、食ったりすることってタカが知れている」

のだから、15万も30万も、あんまり変わり映えしない瑣末な差だ。

「何に生きる価値を見ているか?」それこそ生きている人間の問題

なのであろう。



不思議な人生体験

2008-01-04 13:42:12 oyazの投稿


VALUESTARのLANカード(イーサネットアダプター)を

挿入する入口をウチの末ムスメが、出したり引いたりしているうちに

とうとう、壊してしまった。いままでも、コードの止め部分のプラスチックが

なくなり「パチン」とハマラナクナッタリ、挿入部入口のカードがすんなり

入るための小さな金具がビヨ~ンと伸びきってしまったりして、

紐やガムテープのみっともない応急処置で、それでもなんとか

子どものいたずらには対応できていた。しかし、

今度ばかりは、にわかプロPC付け焼刃大工には、手に追いかねる

事態のようで、VALUESTARはまったくインターネットやメールに

ウントモスントモ、オンライン作動しなくなった。


で、今は、棄てずに取ってあった我が家の初代PCダイナブックノート型に

急遽接続して、ウインドーズ98を駆使してかくブログをものしている。

このこと自体も、不思議っちゃ~かなりへんてこな体験である。



が、もっと不思議な体験は、ワタクスが19で女性とめぐり合い

その後結婚して、三人の娘に遭遇し、長女には今年初めて

3万円ものお年玉をちょうだいし、出雲の彼氏ができたという

次女とも笑いあいながら、いわゆる「ひきこもり」の末ムスメと

M1グランプリか、大介花子みたいな、かけあいをできる、

~って~ことが、実にジツニ、不思議この上ないのである。

こんな体験はなかなかできることでないし、子どもたちと

もう一度、親子仲良し時代をすごせているような、なんとも奇妙で

愉快な、「二度美味しい」子と親を演じ、興じているワケだ。


まっ、ズサマらしく教訓じみて理屈を語ればっ、だっ

かくのごとく子どもたちは画一的でなくていいし、

「変わり者」でいいし「ひきこもりもの」で大いに結構なのである

そのほうが親は、特に母親は苦労こそ二重三重にあるが

素直な心を垣間見せる子どもと、二度三度一緒に楽しめる

人生を送れることになるのである。それって素敵である。 



天使猫「丸ちゃん」

2008-01-04 03:11:32 oyazの投稿

前回ご紹介した渡世「人」ならぬ「猫」銀次に次いで、

今回紹介しますはその兄弟のオカマの「丸」。


と言ってもモチロン自分から志願したわけでも

生来のお好みでオカマ入りしたわけではございませんで

世のためシトのため、泣く泣く、タマタマ、取ったしだいです。


ところで、ウチにはペットと呼べる仲間は幼稚園でもらった金魚や

沼で釣り人にもらったタナゴしかおりませんでした。

末のムスメのために犬でも飼ってあげようか、と家人と話をしていた

まさにその矢先、この「丸」ちゃんは、まるで人の心を察したか

のように突然「捨て猫」として我が家に登場します。

それはまさにビックリ仰天、青天の霹靂、馬の耳に念仏、豚に真珠、、、

ボキャーブラリーの限りを尽くしても言い表せないほど

それほど、バッチグーの絶妙さでした。まるで天上のカミサマが

我が家をお見通しで、使いとして我が家に白猫を使わしてくれた

かのような、かぐや姫の物語でも見ているような按配でした。


その子猫はとってもちっちゃくってかわいくて真っ白でした。

プラス、右目がブルー、左目がブラウンの世に言う「オッドアイ」

だったのですが、後に我が家に合流することになる先の銀ちゃんの目は

丸とちょうど左右逆色の同じくオッドアイだったんですから、再驚した

こと、モチロンです。


そんな感じで我が家の一員となった2匹のオッドアイズは

ちっちゃくってかっわい~赤ちゃん猫時代を無事すごし

今日の大の字になって人間顔まけで寝ほろける、

すっかり一家になじんだリラックス猫に成長するまで、

ず~とわたしたちと一緒に暮らしているんです。






猫のヒギンちゃんの紹介

2008-01-02 08:43:09 oyazの投稿


猫年ってないのはかわいそ~だな

と思って、ワタクスの中では今年はねずみを追う猫年って

ことでいいんではないかい、って考えている。


さて、我が家の2匹の白猫君の一匹はメスなのに「銀次」

って言う、仁侠映画に出てきそうなヤクザな

男名を付けられ、ウチにやってきた渡世モンだ。


その猫は、ムスメには「ヒギンちゃん」と呼ばれている。

「髭ちゃん」と呼んでいるらしいのだが、ワタクスの耳が

難聴なのか、彼女の発音がフランス語なまりなのか、

ワタクスにはどうしても「ヒギンちゃん」としか聞こえない。


その猫は渡世の荒波、人間関係ならぬ猫間関係の

むずかしさを乗り越えてきた猫だけあって、「強い」。

同年輩で同宿の兄弟オス猫を、喧嘩をしたらねじ伏せる。

エサがほしいとなったら2階にまだ寝ている家人を起こしに行って

起きるまで鳴き止まない。部屋から出たければドアをこじ開ける。

外に飛び出したと思ったらサンシュユの木にリスのように

駆け上がる。人に変に媚びることがない。サバサバと実に

実務的な猫なのだ。ワタクスがエサをあげることはほとんど

ないので、特にワタクスには寄っても来ない。近づいても

避けて通っていく。

彼女を見ていると

白黒のつけかたとはカクアルベキって

思わされることが多々ある。そういう猫ヒギンちゃんである。



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このたび、水のより合う里を求めて

引っ越してきた「新米、忍びのモノ」でゴザル。

何かと好き勝手なことばかり申し上げるムキが難点ですが

どうかひとつ、大都会が苦手な者、という同郷の好で勘弁していただき

よろしゅうお願い申し上げますダッ~、オダイカンサマ~!!



なんか、こちらのNINJAの里に引っ越してきたら実に

気が楽で、せっつかれることも、世間を気にすることもなく

自然体でいられる。こんな気分になれるんだったら

もっと早く田舎暮らしを始めるんだったなぁ。

やっぱ実際の東京や大阪の都会暮らしが向かないのとおんなじ

ように、ブログだって、自分にあった居心地や町の大きさ、雰囲気って

あるんだな~ってつくづく実感しているところです。

Family Blog
きむらちゃんと3びきの猫723b5f5bjpeg

Oyazarには、きむらちゃんという肝っ玉ヅマと2匹のオッドアイ白猫そしてスーパーヒョーキンムスメがいる。

2008年1月26日imadoki編


還ってきたヒョーキンムスメ!
 

Oyazは人称型の語尾er、or、arを付してきょうから呼び名を一新し、Oyazarと言うこと

にした。
いつものことながら、まったく深い意味はナイ。ブリーフあらためボクサー、程度

のことである。


さて、ワレラガ3人ムスメの末っ子“よしこ”(最近そー呼ばれている)

彼女は小学校5年中退という履歴をもつ。今時の学校システムに疑問を抱き、ある教

師に不信を抱き、結果、我が国の義務教育課程から早々に自主離脱し、家で2匹の

白猫と共に寝転び、瞑想し、時に食いまくり、自らをメタボの実験台として腹回りを研

究し、このOyazarを相手にお笑いやペーソスの何たるカを独学している16歳である。


さてここまでモノしたら、おかずがストーブの上でグツグツッと煮えたぎってきたので

突然ですが「マタライシュ~!」(ソンナンカイ??タイトルノナイヨーハ?・・・)

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きむらちゃんと3びきの猫

Oyazarには、Oyazarより絵のうまいほぼプロイラストレーターのチョージョと、何故いまだにTRMのバックダンサーに引っ張られないのって不思議なほど切れの良いダンスをするジジョがいる。

2008年1月28日imadoki編


ふたりのムスメの生き方


うちの上のムスメふたりは、小学校5年中退の三番目とは違い、今時の学校

システムに疑問や不信を抱きつつも、いわゆる周囲の大人たちが望むような

「良い子」を少なくとも中学か高校までは辛抱強く演じ続けていた。


考えてみると、自分がそのくらいの年齢の時は、まさにニッポンは「受験戦争

または地獄」と言われた真っ盛りにいたわけで、そう言う意味ではOyazarが

中学の時に家出をして警察の厄介になったなんてことは今考えれば実に自然

な行動で、できごとだったなと、振り返れる。


今時は切れれば自殺するか、他人を傷つけるか、極めて極悪事件にすぐに直

結して全国ニュースになって、本人も家族も、そこで人生が終わってしまうよう

な事態にいたってしまいがちだが、昔だって社会への憤懣や周りの大人たち

への反発や漠然とした不条理感は今以上に若者たちはいっぱい抱いていた

のである。


そのふたりの姉たちは今はTOKYOの空の下で、1000万の人混みに埋もれ

るように生きていることだろう。Oyazarときむらちゃん夫婦も大学時代の若かり

し4年間をその「花の都トーキョー」で過ごしたので、今はこの東北の片田舎に

身を置いていても、かの地の雰囲気や人いきれ、喧騒、関東平野の富士山丹

沢以外、山らしい山のない緩やかな丘陵地帯の360度の広がりは手に取るよ

うにわかるのである。もう、東京に住みたいたいなどとはミジンも思わないが。


ふたりのムスメもはや20を超え、大人になった。昔からほとんどほぼ放任で

生き方に注文や文句をツケてこなかったが、彼女たちはマスマス自身で自分

の生き方の左右を選択したり、停滞したり、悩み苦悩しながら、世間ごともこ

なしながら、生活しながら、バーさんになっていくワケである。


150億年前にビッグバンが起き、この地球はできたという。

ホーキンス博士の言うことにゃ~「地球の歴史が11kmだと

すればニンゲンの歴史はたったの7cmである」そ~な。

だから、大抵の事に、そ~クヨクヨせず、明るく楽しく死ぬまで彼女たちには

絶望することなく、この現世を生きていってほしいものであると

19までに何度も死のうと苦悩してきたOyazarだが、言いたいのである。



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