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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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ナショナリズム

Dec.21,2005

昭和39年10月10日東京オリンピックが日本で開催された。その十日前に「夢の新幹線」ひかり号は東海道新幹線として初お目見えしている。
以来、超特急ひかりの如く、あるいは「奇跡のニッポン経済」と世界が驚嘆する、右肩上がりの急成長を、バブル崩壊まで、日本はとげることになる。
おなじくおとなりの韓国。1988年(昭和63年)開催のソウルオリンピック以来、経済の急成長と民主化が勢いづき、オリンピック同様日本より20年遅れていた感のあったその国が、今や日本を技術分野で、世界貿易で、ITで、GNPで、追い抜こうとしている。
そうして「眠れる獅子」巨大な才たける中国。2008年の北京オリンピックを前に、鄧小平いらい推し進められてきた市場経済開放により、人民服一色だった赤の時代をかなぐり捨てて、13億人が立ち上がってきた、世界に胎動してきた、巨神兵のごとくに。

香港で行われていたサミット会場前で、韓国人デモ隊が警官隊と衝突したニュースを読み、驚いた。よその国でである。それも世界のグローバル化に反対してである。韓国人も感じているんだなぁと思った。グローバル化なんて決してよろしいことではないのだと。昔、フランスでもあった。農民がトラクターで道路を封鎖した。パリ郊外にパリディズニーランドを建設しようとしたが、それに反対する地区の農民たちがトラクターにまたがりデモをしたのだ。(仏人のこういう頑固さは好きである。)

ボクもつねづね考えている。日本は(そもそもがとどのつまりはアメリカのゴリ押しからこの国の近代化は始まっているのだが)ペルーの黒船来航以来グローバル化にどっぷりと漬かってきたし、技術産業立国として、資源の無い国が世界に伍するまでに成長を遂げてきたわけではあるが。
が、しかし、である。本当に、鎖国時代と今日のグロバリゼーションの中で産業が空洞化していく日本と、どっちがしあわせなのだっ、て。立ち止まって考えてしまうのである。幕末の坂本竜馬も勝海舟も西郷隆盛も時代を駆け抜けたその躍動に感動はしたが、しかし今は、やっぱり江戸時代のまんま鎖国してたほうが日本は幸せだったんじゃぁなかったのかって。そのほうが現代日本の、金髪ニーチャン顔ぐろねーちゃんたちを見ずにすんだだろうと。いまやみどりの黒髪の乙女も和服も姿を消し、日本情緒あふるるしきたりや楚々とした振る舞いも歳時記も、男子の本懐も・気概も・根性も、「朝日ににおふ山ザクラバナ」とともに消滅しようとしている。「日本と呼べないニッポン」になってきている、今の姿は。

自動車社会と大型ショッピングセンターが、昔銀座をシャッター街と呼ばせ、規模のちがいこそあれ、完全なアメリカ型自動車優先・郊外巨大モール型社会を実現してしまっている。この日本という国の国民の考え方と嗜好、そして文化って一体なんなんだって疑問に思う。今日の姿が進歩や進化だとはワタシには全然思えない。これはただのアメリカの猿マネだ。どのもかしこもアメリカの言いなりだ、追随だ、小姓だ、太鼓もちだ、おべっか使いのコンコンチキだ!

韓国も同様だろう。20年前の韓の国は、まだまだ貧しかったかも知れないが、もっと素朴で慇懃で礼儀正しく、行いも立ち居振舞いも凛として立派だった。儒教の良さを思わせる民族固有の雰囲気を持っていた。だが今はそうじゃない。日本人と変わらぬ髪形をして、スーツを着て、ビジネス万能、お金万能主義だ。若者は髪を染めラップする。女子高生がもう日本人さえはかないルーズソックスをはき、なま足をむきだし、平気で腰掛の背もたれに、土足で腰掛ける。どこにすっとんだんだ儒教。なんというテイタラクだ。

中国も遅かれ早かれ、だろう。
民主化とはアメリカのものまねをするってことじゃあないはずなのに、なんかみんな、勘違いしてるみたい。
「どこもかしこもアメリカアメリカ、か?」
「郷に行っては郷に従え、か?」
「長いものには巻かれろ、か?」
「マフィアやヤクザのサンピンも、ボスや親分の真似をしたがるって、か?」

どんなに自動車や機械ができがよくても、アシモ君が二足走りを始めても、人間のつくりほど精巧なものはできないだろうし、ましてや蟻やノミを人間は作れないだろう。勿論、人間を含めた動植物万物が生々滅死して循環する、微生物から始まる自然の循環システムなど作りようがない。むしろ逆行して「進んで」きたんですから。この自然を、コンクリートで固め、アスファルトで覆い、川には垂れ流し、空にはばい煙を放出し、家庭では自動車をアイドリングし、暑いと言ってはエアコンを回し外気をあっため、寒いといって石油を燃やし、工場では重油を燃やし、世界中でガソリンを燃焼し、チカカクジッケンだと核爆弾を地球のマントルに向け発射し、その一方で化石燃料があと何十年で無くなりますって憂える世界会議を催す。・・・進歩ですか、これが人類の。

化けの皮を、あのNHKが剥いだ時

Dec.20,2005

今の米大統領ブッシュが選挙でかろうじて勝利した時から時代は変わっていたと今は振り返ることができる。前大統領クリントンの後継者ゴアとガップリ四つに組み、前半はゴアが優勢に見えたが最後までわからず、カリフォルニア州の開票が待たれたがパンチ式投票用紙に右往左往させられ、すぐに結果が出ない「異常事態」だった。この異常がその後の9.11も含めたアメリカブッシュ政権の異常時代を象徴していたのかも知れない。票のかぞえなおしの結果、ようやくブッシュの辛勝が判明したのだった。なぜ、こんなに僅差だったのかを思えば、もう米国民はブッシュでもゴアでもどっちでもよかったのではなかったか。圧倒的勝利で国民に支持された大統領ではなかった。米国民の半数が反対した大統領が今のブッシュなのである。そういう意味では小泉自民党も同様である。先の参議院選で圧勝したかに見える自民党だったが、票数のつまりは、反対票の野党合計得票が与党合計得票を上回っていた、というを朝日新聞の天声人語がふれていたとおりである。日本もアメリカも今の政権に半数の人々が「ダメ」を出していることを忘れないでほしいものだが、ブッシュはそんなことまったくおかまいなく、ますます堂々と演じ、ずるく、狡猾で、ペテン師保安官になった。ウソまででっちあげて、あろうことか人の国に軍靴で土足で踏み込み、学校では「人殺しは絶対やってはいけません」って教わったはずの人としてのギリギリの戒律を間単に無視して戦争を始めたのだ。「なぜ世界各国がアメリカを止められないっ!!!」か不思議でならない。民主主義を世界にひろめた宣教師のはずが、いつの間にか、自分だけ核兵器をもって世界最高の最新鋭の軍事力でおどしをかけながら、利己主義とディベートで鍛え上げた堂々たる詭弁で世界の各地でアメリカに都合のいい取引をゴリ押しし、鉄面皮づらして日本を含めた世界の軍事基地で「おまえたちを守ってやっている恩人だ」とでも言いたげに、無償基地でのさばり、レイプし、占拠しつづける「世界の保安官だと?」アメリカ。もう世界の大衆はわかっているぞ、おまえたちの化けの皮は。

2005年12月18日NHKテレビ「なぜアメリカは戦うのか;軍産複合体の巨大化・翻ろうされる国民」というドキュメンタリーを放映し、ブッシュとラムズフェルトとペンタゴンによるイラク戦争のウソッパチといまも続けられている報道操作・自己正当化する報道コントロールの実態をあばいて見せた。あのNHKが。受信料を払う気はもうまったく無いワタシだが、この番組を作って放映したNHKに今回ばかりは敬意を表し、賛辞を惜しまない。米大統領、ラムズフェルト、軍、「悪の枢軸」や「大量破壊兵器を持っている」などの嘘っぱちをでっち上げる取り巻きの民間シンクタンク。それら真実を番組の中で赤裸々に語ったのはその渦中にいた元アメリカ軍少佐の女性であった。彼女の勇気と正義感に強く感銘を覚える。アメリカ人はみんなが悪い訳じゃない。中国だって韓国だって、しかりである。時の権力者、為政者が時と場合に狼やキツネや狸になって吠えるのだ。それをリモコンスイッチひとつで目の前で見るからさも真実であるかのように大衆は洗脳されていくのだ。気をつけよう。そしていつも真実を見抜く、明鏡止水の心をもとう。

平凡

Dec.19.2005

「ひとは一体なにが大事なのかねぇ~?」
「やっぱり、お金でしょっ!!」
「ほぉ~?・・・
んじゃあ~、お金があれば一体なにに使うんかねぇ?」
「まず豪邸建てて、成金らしく黒のクラウン買って、世界中のおいしいもん食って、世界旅行して、各国に別荘も買って、白いクルーザー買ってこ~んなでっかいカジキマグロをPapaヘミングウェイみたいに釣りあげてビールをプッハーッて飲んで、世界の名だたるダイビングスポットにもぐって、スカイダイブも制覇し、朝日町の凡字川から日本人クレージー馬鹿ばんじーでジャンプして、ホリエモンの宇宙旅行に1番乗りで参加しィ~、よわい楽天イーグルスを買収して・マツイヒデキを70億円で日本に買い戻す・・・ってが・・なんて・・んまぁ~・・・そんなもんかい・・せいぜい・・な」
「そんなもん?」
「・・・あぁ、ハイー・・・。ケッコーないもんだね、金があっても・・したいことって」

ひとはあと1年しか生きられないって宣言されたら、なにをするもんかね?
もう365日しかこの世に居ることが許されないとシタラ?
おいしいホッカホッカの胚芽めしがあと残り995回しか食べられない?
きつい仕事もあと365日しかしなくてもいいし、
嫌いな客や上司にもう会うこともないし、
高い税金も住宅ローンももう納めなくていい。
学生なら勉強はもうしなくていいし、嫌いなセンコーともお別れ、イジッメッコともさよならだ、
病をかかえるひとなら、もう病院生活ともお別れ、注射もX線照射も看護婦からのシモの世話も無くなる。
もうすぐ肉体を離れホントーの宇宙旅行だ。
よかったねみんな、この世の苦しみから開放されて。

カミさんとしみじみ話しながら笑いながら怒りながら、愉快に酒をのむゆうげもなくなり、
こどもたちと海にキャンプに行って、波に乗ったり、タコ捕りに挑戦したりすることもない。カミさんとたまの日曜、町の温泉に行くことも。スーパーで鍋の材料やらあれこれと買い物することも。弁当のおかずもこさえなくていい。ゴミ出しもない。ネコも犬も鳥もミミズも花も野菜もダイコンももう必要ない。神様ほとけさまさえもういらない。朝刊もニュースも・・・せいぜいシチハチュジュウネンの平凡な人生。でもそれが、普段の日常の平凡な日々を送れることが、一番のしあわせなのかも知れない。それにみんな気がつかないまま「もっと金もっと金」と言いつづけて死んでいく人もゴマンといるのかも知れないが。

46億年、そして地球という平原に立っている

Dec.18,2005

ビーる琥珀の満月は西の空、
角度目線15度で、鈍く輝く、
夜明け前。

われがゆく、地上は雪。
この星にブツカリ、
そこまで去った物語を月にきく。

46億年前の暗黒に生まれ、
46億年後のこんにち、星の平原にワタシは立って、
宙に浮かぶ月を見ている、不可思議。

夜が明ける。
灼熱の太陽は刻々とこの星を暑くも暗くもない、ちょうどいい明るさに照らしだす、
その計算は誰がシタ?

46億年もかかって誰かに用意された星で
ひとは金儲けに偽装したり、殺したり、騙したり、垂れ流したり。
たかだかシチハチジュウネンのTIME LIMITEDの中で。

陽は昇り、雪原に光、
海には幸を、土には力を、
そして人には愛が与えれているはずなのに。





Waltzing Matilda

Dec.17,2005

「オーストラリアの第二の国歌」と言われ豪国民に親しみ歌われてきた曲がこのWaltzingMatildaです。翻訳の歌詞をご紹介します。

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昔々、男がひとり
いつも陽気な風来坊
池のほとりでキャンプのしたく
ウォルシング・マチルダ歌いながら
ウォルシング・マチルダ ウォルシング・マチルダ
こいつが俺の相棒さ

そこへのこのこ羊が一匹
こいつぁしめたと風来坊
ふんづかまえて袋に押し込む
ウォルシング・マチルダ歌いながら

あれに見えるは地主じゃないか
警官も一緒だ 一人二人三人!
その袋の中の立派な羊
いったいどこで手に入れた!

言うが早いかつかまるもんか
ザンブと飛び込む池の中

それから奴を見たものはない
誰も知らない風来坊

ウォルシング・マチルダ ウォルシング・マチルダ
こいつがおれの相棒さ
だからここでは今も聞こえる
ウォルシング・マチルダのあの歌が
----------------------------------------------------------------------

あれから21年。ワタシが最初に行った国がこのオーストラリアで、君が代以外で歌えるよその国歌が唯一この『ウォルシング・マチルダ』なんです。27歳の若者は、日本の22倍の国土に人口は2000万人しかなく人間の数より羊の数のほうが多いというその大陸に渡り、ホームステイとキャンプをして過ごしました、14日間。その時の恩人Billおじちゃん一家とは今でもChristmasカードのやり取りをしております。家族でも10回くらいホームステイかたがたブリスベンに住むBill家に遊びに行きました。

グリーティングカードを書くそんなシーズンがまたやってきたんですね。今やPCメールで、豪と日本の時空を越えた、一瞬にしてコミュニケーションのできる時代とはなりましが、だからこそますます、クリスマスカードや年賀状はその人のぬくもりこもる心の贈り物として、手書きの郵便が何よりだなぁと感じています。

そんなボクにとっては若い頃から歌い、慣れ親しんだ曲が『ウォルシング・マチルダ』であり、ポパイとアーノルドパーマーを足して2で割ったような陽気で愉快で飾らずたくましいBillおじちゃんのような豪人がいかにも自然で大好きで、NPO法人MatildaClubに入ったのもそんなご縁があったからなんです。ホームステイでワタシがはじめてお世話になった外国人、それは飾らず構えず質素な日常のままに受け入れてもらい、そのことが何よりうれしかったし、気取らず肩のこらない自然体がいいもんだなぁって感じた最初の国際交流だったのです。だからウチで外人を受け入れる時もそうしてあげます。普段の生活、普段の食事、普段の会話そのままに受け入れ、ただ一緒に日本ライフをしてもらうだけなんです。特別な観光地にも無理をしてならいきません。

Matildaは現在パースにすむダウン症というちょっとしたハンディをもって生まれた女の子。産まれは山形県の西川町。おとーさんのジャスティンもおかーさんのイナも、やっぱり飾らず気取らぬいいオージー。おとーさんのジャスティンはもと日本の英語教師であり、Matildaの誕生を機にふるさとパースに帰ったのですが、日本とパースを結ぶインターネットを使い、直接ジャスティンから英語をおそわる生きた英会話カフェみたいなのを開設できないものかと、もっか仲間が山形大学のスケットまで動員しながら奮闘中です。興味のある方はよろしかったら『Matilda Club』のサイトへも遊びに行ってみてください。

ちーむサラミ

Dec.16,2005

サラミ工場に日雇いに出て、13日が経過。
すっかり全身真っ白人間もどき工員姿も板につき、雪降りナニスルモノゾって感じで毎日自転車をこぎながら、土方弁当ホットジャーをぶらさげて通勤しています。
といってもその実、工場に売った両腕はこん棒のように筋肉パンパン状に無残に腫れ、左の親指にいたっては軽い脱臼ぎみにカクンカクンと音を立て、伸ばせなくなってはおりますが。

そんな両の手だけ創痍の中、いろんなことを感じています。

まずその1は
*食品製造工場では一人では仕事ができない。チームが一つの作業をこなす。8人なり9人なりで一本のラインが形成されており、各人がその中でそれぞれの役割を担っている。これを、名づけて「ちーむサラミ」とOyazは呼ぶ(まるでHONDAやTOYOTAのサーキットチーム名みたいっ~、って!?)

その2
*仕事にも自動車のエンジン同様、生産効率が一番上がる「適正速度」ってのがある。たとえば、サラミの袋にサラミを入れる人、それを封する人、それをならす人がベルトコンベアーに横並びに居るとする。温熱圧でサラミの入ったビニール袋をシールドする人が真ん中にいて、その人がいくら技量がすぐれて手早いからと言っても「猛スピード」で一人とびぬけたスピードで仕事を始めたとする。すると次にそれをならす人の目の前に次々とこなしきれないサラミ袋が山と築かれることとなり、ラインはストップするはめになる。これは一人の人がテメー勝手に、いくら腕があるからって、まわりの速度を無視して、飛ばし過ぎた、もっとも悪い例である。結局、ライン前後のリズミカルな適正速度をみなが感じ守りつつ合わせつつ、途中でつかえたり、渋滞しない作業の進め方が一等能率がいいのだということを知った。
ライオンキングのミュージカル集団劇団四季を率いる代表の浅利慶太曰く
「ミュージカルには一人のスターなんていらない。その役をこなせる人間がふたり3人と、同レベルでいればいい。ミュージカルとは一人のスター役者が見せるものではなく、ストーリーの、脚本のもつオモシロさが観客を魅了するのである」
なんにでも通ずる、けだし、名言である。

その3
*しかり方のヘタなヒステリーおばさんを上司にもつと、仕事の効率も、部下のやる気もなえてしまうということ。
どこにでも居ますよね?コーユー無能な上司って?
かえって部下の痛い箇所をさわったり、感情をさかなでるような一言を無神経に吐いて、「ナンダ~コノヤロー!!」って思う馬鹿上司って!?
「工夫してんだから、こっちはこっちで!むしろ、その努力を鋭く見抜き、ひとことでいい、ホメロよぉっ!ベテランなら」って感じですごんでしまいたくなりますね、こういう上司の受け持ちに当たったりするとまったくやなっちゃう。
(最後はただの愚痴でおわったりして・・・オソマツっ!)

サラリーマンから農業経営者へ半歩踏み出して

Dec.15,2005

2005年5月よりブドウ畑と野菜畑にとりついて丸7ヶ月が過ぎた。
その間すこしづつ、いろんなことがわかってきた。

まず第一
*これだけ日本に耕作放棄地があちこちにあるというのに、私有地であるその放棄している農地をいざ他人に貸すとなるとなかなか貸してくれる百姓はいない、という誠にケチなしみったれ根性がまーだまーだあるんだという現実。

そして第二
*たとえ運良く農地が借りられたとしても、今時誰も鋤鍬だけで耕作する人などおらず、必ず農機具を購入しなければならない。そういう機械万能礼賛農業になってしまっている。それも半端じゃない値段がするのである農業用機械って。トラクター400万円、コンバイン700万円・・・この時点で、脱サラ新規就農者は、よっぽどの金持ちでないと脱落せざるを得ない、のである。

そして第三
*とにかく儲からない。農業機械、肥料代、農薬代、噴霧器から一輪車、ビニールハウスなどの設備費・資材費、光熱費、種苗代、人件費、地代、水管理費などかかる経費を計算すると、野菜や米をまともに作って売っても、手元には年間50万も残らないだろう。へたするが赤字に陥る。農業なんてすべきではない、新聞配達でも日雇い人夫でもしながら、一円でも安い激安スーパーで中国野菜を買って食べてたほうがよっぽどマシな生活ができる、というホントーに厳しい現実がある。もともとの農家がそんな現実でも食べていけてるのは、先祖代代の農地の一部をアパートに換え、安定した不動産収入を得、その一方で息子娘は工場へサラリーもらいに月給取りをやっているから。ここにも脱サラ新規就農者ではやっていけない超えられない壁を見る思い。

そして第四
*無農薬や有機農業では、見た目に美しい均一な作物なんてできないし、手間ひまかかりすぎて金を取るつもりならやってられないのだ、ということ。「その見てくれも悪い不揃いな作物をそうでないものの2倍も3倍もの高値で一般消費者が買うのか?答はノー。絶対に、買わないっ!断言してもいい!」という現実。健康ブーム、体にいいオーガニックなんぞと騒ぐが、ブームやムードやファションに過ぎないんでしょう、日本人のお得意な。有機農業の大家の奥様の言葉「××さん、有機農法は、農薬栽培できっちりお金がとれるようになってから始めなさいね。その後じゃないと食べていけないわよ。最初からやっちゃダメよっ!」・・・て、わかりますか?この意味

もっとベンキョウさんなねよ、消費者諸君っ!
*減農薬ならそうでないものよりも安全・安心で体にいいはず、とでも消費者は思ってしまうのだろう。山形では果樹なら年10回まで農薬散布が許されている。それから1回でも2回でも農薬散布回数を減らした商品は「減農薬」とうたっていい、って知ってますか?おいしいおいしい山形名産ラフランスなんぞは、シャワーか、にわか雨のごとくに、農薬をザブザブザップリかけている現実を知っていますか?きれいなナスをたくさん収穫するために、その葉っぱには使ってはいけない農薬をつい最近まで使っていたのを聞いたことはありませんか?
無農薬で、キャベツ、ネギ、ブドウなんて作れない現実を知っていますか?!サツマイモくらいですよ、ほったらかしでもりっぱに成るのは。
ほんとーに安心安全なものがほしいなら家庭菜園か市民農園で自分で作るほかはないです。金を稼ごうとする、労働時間を減らそうとする農家なら、無農薬栽培なんて決してしません。それが現実です。それをめざして「農業を志す」一人であったこのワタクシが言うんだから、マチガイナイ・・・農業で食っていくなんて不可能への挑戦にも思えてきた今日このごろです・・・(ガックリ)








風景:夢のつづき

Dec.14,2005

大きな通りから折れると、緩やかな上り坂になっている。
朽ちた城垣あった大きくない山があり、
そのふもとがこの上り坂の参道になっている。
両側は、密集していない杉木立が丁度いい間隔でつづく。
新しくこさえられた『神明神社』という石彫りの大きな石版が左手の山の則面に埋め込まれてある。
道も舗装されたばかりのアスファルトでおおわれ、側溝のU字溝の淵も蓋もまだ白っぽく、情緒も風情もへったくれも何もない。
そんな現代の土木工事の施された味気ない道路と神明神社のレリーフの埋まった赤土の小山の間に、土の道の小路が切れており、そこだけ場違いな昭和初期か大正時代を思わせる古い木造の平屋の民家が数軒つづいている。
きょうはその中の一軒を「110万円で買いたいので調べてほしい」という依頼を受けてやってきたのだ。
「わざわざすまないなぁ、遠い所の話で」と依頼人が言っていた。
そう、この『神明神社』は山形でも、京都でもなく、はるか遠い伊勢にあるの思い至る。

さて、これは昨晩見た夢であり、全くのフィクションなのだが、
この杉木立のある上り坂の道を、実は過去にも見ている。
しかし舞台シチュエーションが一緒なのに、全く違うストーリーの中に、この神明神社の風景は登場してきた。こういう夢をボクにはかつて経験していない。

何かあるから入ってみろ、ということかも知れない。
その近くに宝くじ売り場があったら買ってみろ、ということかも知れない(そんなんまいはなしはぁ~無い)
とにもかくにもそれなので、今度、山形の神明様にジックリとお参りに行ってみようと思った次第。


Eine kleine nachtmusik

Dec.13,2005

Wolfgang Amadeus Mozart

音楽は好きなのだが音符が外国語を読むのと同じくらいにがてである。
コンピューター言語も♪も絵も、本当は、いわゆる言語の一種くらいに考えればいい。
なぜなら、たとえば画家を自称するワタクシは絵ならすらすらと理解できるし、英語も毎日バイブルを音読しているので大概わかる。

けれど、ドイツ語やハングル、中国語、クロアチア語、スペイン語なんてチンプンカンプンでわからない。
音符にしても、覚えたての小学1年生が本をつかえつかえ読んでいくようになら少しは読めるが、音符を読みながら知らない曲をいきなり歌えと言われたら歌えない。結局、こういう輩はろくすっぽ楽器もできないまま大きくなってしまった。
しかし音楽のおもしろいなぁって感じていることは、音符の読めないと言われていた美空ひばり同様、Oyazも音符なんて全然読めなくても楽しく歌がうたえるし、独自の作曲さえできる点にある。Oyazなんぞは祭囃子に血が騒ぐ血統なもんだから、太鼓をたたくのなんてぇでぇ~好きだし、下手でもない。

昭和40年代は日本を東京オリンピックとビートルズが席捲した。その後にグループサウンズがキラボシのごとくに台頭し、一方でフォークの世界が岡林信康、高石ともや、高田渡、吉田拓郎、井上陽水などの御大たちによって切り開かれて、ロック・フュージョン・ジャズ・ニューミュージック、そして日本音楽界を更に変えた桑田圭祐の洗礼を経て、今日の日本ポップスは至っている。

もちろん世界の小澤に象徴されるクラシックはもっともっと前から日本には入ってきて居たはずだし、クラッシックファンなる層から愛好されつづけてきたのだろう。がしかし、Oyazのような、そば屋のサブちゃんや大工の熊さん連には高値の花だった。ももしき履いた長屋の連中には聴き慣れない調べにケツがムズムズする座りの悪さを覚えていた。マリーアントワネットの出てきそうな伯爵公爵・夫人好みの雰囲気がかったるくって、癒されるどころかかえって落ち着かないような感があった。若かりしOyazには。

でもいつかクラッシックを本格的に聴きたい。そう思って逆に気ぜわしいロックもフュージョンも修行と思って聴いてもきた。世界に何台もないオーディオにも手を出した。
それもこれも、熊さん八っつぁんも、いつかはクラッシックを落ち着いて聴ける人間になりたいと大志を抱いていたからである。

営業マン時代はNHKラジオの黒田キョウイチさんのDJで毎週クラッシックを気軽に聴いていた。それでその道もだいぶ明るくなっていた。

先日、ゆうげの席で、カミさんがめずらしく「タラタラタ~タラタラタ~・・・♪」って曲なんて言うんだっけ?って訊いてきた。
ほろ酔い気分で、すっかり記憶力の低下した二人に思い出す気力も知力もその時はなかったのだ。「マハトマ・・ナンタラジーク・・・」

それで今日ちゃ~んと調べてみたわけなのである。勉強、ベンキョウ。

決して死なずに生きてみる

Dec.12,2005

ワタシには、今でもそうなのだが、小さい頃から、強烈な「自我意識」がある。

「ワタシは誰?」「何故この時代の、この場所に居るの?」「どうして、この人の子どもなの?どうしてこんな家に生まれなきゃならなかったの?」「どうしてこんな顔つきで体なの?」「なんでこんな名前なの?どうして西郷とか輝彦とか、もっとカッコイイ名前じゃなかったの?」「どうしてボクのことを人はわかってくれないの?」「呼んでも答えない、見ようとしても見えない、この世に神様はいないの?」「人は死んだらどこへ行くの?」「オレはいつ死ぬの?」・・・

小さいころから、ぼんやりとした時間は、いっつもそんな問いばかりを繰り返していた。
だから、野球をしていても、肉弾鬼をしていても、パッタをしても、横笛が吹けるようになっても、25mをクロールで泳げるようになっても、蹴上がりしても、バク宙をきれるようになっても、どこかで、いつも冷めている自分が意識された。

一般的に言う、自意識過剰、自己中心的、すごく内向的な、人見知りの激しい少年だった、ということだったろう、表面上は。
しかし、ボクの中ではそうではなかった。
そうではなく、人間存在の根源的な意味を手探りし、それを明確に知りたい、実感したいと思い、しかし答えも体感も得られず、孤独の殻の中で、哲学的・宗教的テーゼを彷徨い、行き悩み、煮えたぎった若くも、しかし真っ暗な闇の中で呻吟する精神の塊そのものだった。

19歳までは「自殺」ばかりを考えていた。
自分が何のためにこの世に生まれてきたのかもわからないのに、ただ勉強だ、受験だ、クラブだ、と現世的な実務に追い立てられ、根本的な存在意義に答えをくれる人はいなかった。ただ生きていることは苦しいだけのことだった。こんなオレは生きていてもしようがないし、価値もないんだ、喜んでくれる人がいるわけでもなし、はやく死のう、さっさとこんな人間やめよう・・・そう考えるようになっていた。

物心ついた4歳あたりから19歳までのOyazの自意識とは、表現方法こそ幼稚かそうでないか、理論的かそうでないかにかかわらず、一貫して同じだったのである。19歳で小林秀雄という人の対談集を読んだ。あぁこんな偉い難しげな作家でさえいまだにわからないんだ。生の意味や神や仏を明確にできないでいるんだ。とにかくこの世に一度だけ与えられた命なんだから、そしていつかは皆死ぬんだから、自殺なんかして死に急がないで、一生とやらを経験してみろ。経験をつめば文学や芸術がもっとおもしろく受け止められ、感動できるようになるから、最期まで生きてみたらいんんだ、と言った。
本屋で延々立ち読みをつづけた。夕暮れて、暗闇に包まれる頃、「ソレモソウダナ」とオレは妙に合点して、帰宅の途についた。
その時からボクは翻意したのだ。死のう死のうと思っていたところから、「どうせ死ぬんだから、死ぬまで生きてみるかっ!」って。
「みる」という消極的で、1歩引いた構えながら、しかし死に向う姿勢が180度方向転換した瞬間だった。
そしてその時の思いを忘れぬよう自分なりの座右の銘をしたためた。
「決して死なずに生きてみること」

『無常ということ』を書いた文芸評論家であることを、高校の現代国語の時間に知ってはいたが、むずかしい文を書く人位にしか思っていなかった。この時の、妹高見澤潤子との対談集を立ち読みしていなければ、すでにオレはこの世には居なかったかも知れない。
それほどまでに19年間のワタシの命は詭弱で、精神的に枯渇し、未知への渇望や咆哮、伸吟が連綿とした、なんとも不安と混沌が打ちひしがれた、ピリピリした鋭敏過ぎる自我が絶えずスパークしているような、そんな幼少期をかかえこんでは懊悩し、うなだれていた。

大空からゼウスが神として現れれば、簡単だった。
雲間から太陽の光線が幾条にも差し込み、進軍ラッパやホルンを手にした天使群が雲に乗ってやってくるのが見えたら、楽だった。
海が割れて紅海を横切りエジプトからシナイ半島へ渡っていたら、明快だった。
夢枕に大日如来様や観音様が立ってお告げでもいただけていれば、そりゃぁ、申し分なかった。
だが、奇跡も、夢も、幻も、ボクにはついぞ与えられはしなかったのである。

【しかしそれがボクだけでなかったことに、その若さではまだ気が付かなかった。この世に生を与えられた人間には、平等に、すべかならく、それは与えられてはいなかった。 だから人間は全て暗く愚かな存在なのである。それを知ったのは、それからまた何十年もたったころである】


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