ノーマンカズンズというアメリカのジャーナリストは
難病に侵された時、妻に家を出られ、家族からも見放された。
突然の死の宣告と、なおかつ家族を失う壮絶な孤独に
彼の生は一度に見舞われる。
こうなれば絶望し、自殺するくらい、むしろ自然だと思う。
なのに、彼はそうしなかった。「どうせいつかは誰でも死ぬ。
家族とも別れがくる。最期はひとりだ。だったらこの難病人と
いう大役に果敢にチャレンジしてみて、逆転劇に変えてみせたい」
そう考えたのか、彼の著書にそんなセリフがあるワケではないが
おそらく追い詰められた断崖絶壁に立たせられた人間の、
それが行き着く先に観念した覚悟だったのではなかったか。
しかしその不治の病といわれる難病には有効な手術も特効薬もなかった。
何人もの医者に、彼は「お手上げ」される。はやり「自殺」するほうが
ずっと楽なふうに見える。「人の心なんて実に弱い」はずなのに
彼はなぜか死ななかった。それが「覚悟」だけでできるものなのか
「開き直り」の強いニンゲンだったのか、むしろそこがワタシには
興味がある部分である。
結論から言えば、細胞を活性化し、悪い因子に細胞が立ち向かえる
vitaminCを欠かさず摂り、これたま細胞を活性化し元気付ける
「笑い」を常に心がけ、周りの人々をも巻き込みながら明るく振舞う
独自の対処法を日常的に彼は続けた。そしていつの間にか
その難病を克服し、以前の通常の体に帰還するという奇跡をおこした。
だから我々ニンゲンには「笑いとvitaminC」が根本必須栄養素
として必要なのである、というのがこの著作の教訓じみた結論である。
モチロン!かっなり、有効なのである、この「笑いとvitaminC」
病んだ体にも心にも。だからレモンの20倍もvitaminCが含まれる
パセリをかじりながら面白おかしく生きていれば人間病気知らずになるし
第一、精神も体も常に億兆の細胞たちが常に活性化している状態に
保たれているから、いっつも「活き活き」とその人が輝いて見えるのである。
栄養学的なvitaminnCは置いといても、「笑い」は確かに病を癒し
いつの間にか家族をも巻き込んで精神を健全にし元気付ける
大きな作用を持っていることは確かである。それがニンゲン独特な
固有の特徴だとしたら、なおさら「笑い」はもっと研究され
推奨されて然るべき他の動物に見られない不思議なのである。
しかしそれにしても、である、そんな難病でなくても
たとえば「癌」に侵されたニンゲンが「決して死なずに生きてやる」
と思える原動力は、一体どこから沸き起こり、覚悟するのだろう。
鎌田実は「がんばらない」とは言うけれど
2008-01-12 15:11:21 oyazの投稿
老い先短いジーサンバーサンたちは
頭と体ではそう悟ってはいても、
実際に体があちこち弱り、病気がちになり、癌がみつかり、
歩くこともおぼつかなくなり、骨がもろくなり、記憶も定かでなくなり
目は白内障になり、連れや同級生を失い、食への関心も薄らいでくれば
「ワタシも本当にまもなく死ぬのだ」という恐怖と不安と絶望と諦めが
感情を蝕み、ますます何の力も湧き上がらなくなってしまうのだろう、
毎回老人ホームの夜勤を勤めながら、入居中の皆さんと
2コト3コト交わす会話の中で、そんな雰囲気を感じている。
そこにはもはや「そんなに落ち込まないでガンバッテ!」などとは
軽々しくは言えない、実際に目の前に切羽詰った死の順番が
誰に訪れてもおかしくないリアルな緊張感が間近にある。
だから誰かが風邪をひいても「お大事にナ~」とか
「あったかくして無理しないでヨ!」とは言うが
「ガンバッテ」とは決して言わない。
何か「がんばんべ~!!」みたいなエールを贈りたいのは
山々なのだが、それはとっても嘘臭い気がしてしまうのだ。
人生の最終章にいる人々とはもっと偽らざる魂の会話を
最期になるかもしれない一言二言のなかで交わしたいのである。
いつか自分にもつれあいにも必ずやってくる死という順番だが
「体は萎えても、輝くように魂をいきいきと燃えたぎらせて
明るく元気に死んでいく」なんてことの、なんと難しいことか、って
最長老たちと間近に接することのできる職場を得てはや2年、
しみじみと感じ入るこの頃である。
人の心は、弱い
2008-01-11 06:54:22 oyazの投稿
あんなに仲良くしていたのに、と見えていた
男女が、、、友達同士が。。。。親子が、、、、、
心をすれ違わせ、互いに傷つき、精神を病み、分かれていく。
イジメの言葉の繰り返しや執拗なストーカー的攻撃で
人の心なんてカンタンに萎えていく。心は暴力に弱い。
では、強くなるにはどうしたらいいのか?
いや、そういう短絡的な対処法にすぐに頭がいくことは
愚考だろう。「心は弱いもの」をまずは認めてしまおうと思う。
その上で、ではどういう現状打破の方法があるのだろうか、を
考えてみるほうが、遠回りみたいだがいろいろ深く考えられるだろうし
自分も、相手を、周りの人たちをも広く見る視点を磨けるはず。
そう、「磨く」ものかもしれない「心は」。
窓や眼鏡のレンズが強い力の作用で曇ってしまったら、
そのガラスをまずは磨いて曇を晴らすことが先決。
心を強くして、強い作用に対して反抗しても、そこには
「イスラエルとパレスチナ、アルカイダとアメリカ」のように
終わらない地獄の暴力の応酬、疲弊と滅亡があるだけなのでは。
人の心は弱いのだ、実に。
ひ弱な体を鍛えるのも難しいが、心を鍛えるのはもっと難しいし
何十年もかかるし、ご老体になっても達観できない人だって
ゴマンといらっしゃる、それが人間世界の現実である。
「愛さない」ならば「憎む」が残る。
それは、平和がいやなら、戦争か、に似ている。
自然界ではもっと厳しい、肉体の弱いものは強いものに
食い殺される。
ニンゲンは自然界の中ではもっとも弱い動物の一種だと思う。
それが、自然界にないPCBを創り出し、蔓延させ、力のあるもの
だけが我が物顔に世界をのし歩く。バカが武器と大金をもって
裸でのし歩くように。人間はいつの間にか自分がこの世で一番
強くて賢いんだと勘違いし、傲慢になって、今、自ら招いた
環境破壊の急速な進行の中で、核爆弾も使うことなく滅びようと
しているかのようだ。
人は弱い、みんな。
「愛さなけらば」生きていけない、やがて人類はこの星と共に滅びる
そう、カミサマは人間の心の条件として、鉄則を設定してから
止まらない時間という、物理的鉄則のスイッチを押した。
ワタシャ会社のために自分をなんぞ捧げない
2008-01-09 10:50:44 oyazの投稿
「会社人間」「24時間、働けますか」「ファイト一ッ発っ~!!」
「正社員」になったとたんニンゲンって「会社人間」に変身できる
のかもしれない。私も随分残業代もゼロで、休みの日まで働いた。
それは逆にお客さまのため、に個人的に献身していたのであって
会社のためではない、という割り切りをどこかでしておきたかったから。
それと「いつまでもあると思うな親と金」で、残業代を生活基本資金に
組み入れ、生活設計すること自体間違いだと強く思う持論のためだった。
いづれにしても、正社員がためのコバクサイ自己犠牲、滅私奉公に似た
まねごとを20年近くやってきた。
今は食えない自営の百姓であり、だからこそ夜勤を掛け持つフリーターだ。
だが、実に気分は会社人間であった当時には想像もできぬほど「気楽」だ。
はっきり言って「何の責任もない」「何のノルマもない」
誠実にお客様に接し、不快にさせず、楽しく、明るく、快活に
就業規則で決められた以上に、自主的に仕事をやれば
それで良いだけの話だから。
ニンゲンは食っていくために、どんな形態で働いても構わないのである。
中には毎日パソコンに向かって株や先物の売買で生計を立てる人も
いるだろう。ハチプロもいるだろう。路上生活者だっている。
彼らには最も深いライフスタイルへの洞察があるのかもしれない。
自分をこの世で最も「自由な」自分として生かしてやる
それが「路上生活」だったのかもしれない。
家族も、会社も、地位も名誉も学歴も素性も捨てた
彼らの「何の、誰からも束縛されない自由」
の代償はされど、現実生活的には、この上なく厳しいが。
気持ち良さそうな表情はしても、笑わない目
2008-01-08 13:00:30 oyazの投稿
我が家の猫は「笑わない」
と言うか、笑う猫がもしいたなら是非ワタクスにもご紹介いただきたい
笑う犬はいると思う、のだが、猫は思い浮かばないのである、過去にも
モチロン我が家の「銀ちゃん」「丸ちゃん」とも今や大股おっぴろげて
人間以上にくつろいでは、その上グルーミングなんぞをしてあげれば
この世の極楽とばかりにうっとりした恍惚の声で甘える
のではありますが、いわゆる犬が目をクリクリピカピカして微笑むように
あるいは馬が涙を潤ませたような大きなつぶらで頬を寄せて笑う、のに
どんな至福のとき至悦の状態でも猫君たちの目はどっか極めて
クールである。、、、、、、そ~じゃあ~りませんか?皆さんのとこ?
それは「目の形によるんじゃない?」って言うひとがあれば
ワタクスはそのご意見には素直に頷きたい気はしてますですが
、、ワタクスも五木ヒロシ目なので「笑ってるのか泣いてるのか」
計り知れずにとっつきにくいと、本人の本意とはまるで違う印象を
持たれ続けて数十年、、、外見的偏見意見には諸手をあげますがネ
極論すれば「笑わない」のかもしれない、ニンゲン以外の動物は。
オス同士がメスを巡って争い、エサを力の強いものが独占し
良い居場所も強いものが我が物にするのが自然の動物たちだし
本物の自然の中で生きる者たちはいつ強者に食われてしまうかと
絶えずビクビク目を光らせているもの。その血を受け継いだ家猫
君たちだって、だからちょっとした物音にもぴょ~んと牛若の
ように後ッ飛びして身構えるし、用心深そうに目を吊り上げるんだ。
「ライオンの末裔」の我が家の猫君たち、どっちも真っ白なので
ジャングル大帝の「ミニチュア版」とも見えなくないし、
蛙のほかモグラ、時には木の枝に止まる現役の鳥さえ捕獲する
能力を持つ、、やっぱしアフリカのライオンは吼え、唸り、満腹後
だらしなくくつろぐこそする姿はTVで見るが笑ったりはしないしね
@@@@@@やっぱ、猫は元来「笑わない」「笑えない」のかも。
創造をビジネスにできる名脇役
2008-01-07 10:52:34 oyazの投稿
創造性豊かな才能の持ち主が「ビジネス」を単独で成功させる例は
あんまり多くはないのではなかろうか。
たとえばコシノヒロコやジュンコは数少ない成功者かもしれないが
彼女らにだって推進役やお手本となる母がいたワケである。
成功者の内実は知る由もないが
成功者にはきっと「彼女彼らの才能を開花させ、ビジネスを推進する」
名パートナーが必ずやいたに違いない、と実はひそかに思っている。
三代将軍徳川家光が二条城の改修デザイナーに小堀遠州を
任命して、後世に残る見事な建築と庭園を完成させたように、
あるいは岡本太郎にはのちに養女になる岡本トシ子がいて
彼のいっさいのビジネス管理をしていたように、
『でん六』豆の社長鈴木伝六の懐刀に山口某という専務がいて
日本全国に販売営業をかけて回ったという猛牛がいたように、
名パートナーとの巡り合いの如何によってある人の才能が
満開に開花し、成功するかどうかが、決まってくるように思える。
裸一貫、徒手空拳で生きる
2008-01-06 10:39:31 oyazの投稿
23、24の頃までのワタクスには、
自分がホントーに社会人として働けて、月給をもらえて、
人間として食べて、結婚して、一人前に暮らせていけるのか
まったくもって、「一寸先は闇」のごとく、先が見えなかった。
一條の希望の光が見えない生の漠たる不安は、幼いころから
あった。が、だんだんと体も顔つきも年齢も一丁前になってくれば
「大人らしく」しっかりせねば、というプレッシャーや自覚と、
それとは全く裏腹な、「私」という生存する意味を捜し求める不安と
両方のはざまで、若きウエイテルは「不条理」を感じて生きていた。
今やM1グランプリにアッハアッハ笑い転げながら、ムスメと自ら
漫才コンビを演じる、大酒のみ大声脱線オヤジに変身してしまったが
繊細で、不安で、アンニュイなファンダメンタル精神構造は
物心ついた幼年期からずっ~と心の一番根底に今でもあるのだ。
不思議なのは
人は「一瞬」しか生きられないことである。
今の今が一瞬にして過去となり忘れ去られ、あすが
一瞬にしてやってきては過ぎ去り、忘却のかなたへと去っていく。
だからこそ、その刹那を、いとおしくも大事に生きなさいと
先人は「一期一会」と言い、芭蕉は「百代の過客にして、、」と
詠んだ。明日はもう自分はいないかもしれないし
いつかは、み~んな、いなくなる。
私を知っている人も、そうでない人も
私が愛した鳥や猫や犬や蛙たちも、やがて皆いなくなる。
何故そうカミサマは創ったのか?
大金を貯めても、権力を握っても、いなくなる明日は
もう何にもならないようにするためである。
人は金塊を背負ってあの世には誰一人いけないのである。
肩書きも、名誉も、教養さえも、あの世では通用しない。
たまたま現世に生を受け、生きるハメになった不思議に
驚きつつも、巡り合いに感謝し、この世の一瞬の舞台に
立てていることを心から嬉しがって花を咲かせろ、
次の種を備えよ、、、、ただそれだけで良いのかも知れない。
「何を食べようか
何を着ようかと心配するな
野の雀でさえあんなに着飾り、食べることができているではないか」
昔読んだフレーズはただの昔語りではなく
一瞬を生きる刹那のこの世の生物たちへの真実なのかも知れない。
気楽な生き方のススメ
2008-01-05 08:06:24 oyazの投稿
ワーキングプア時代が定着してしまった、USAでも日本でもアジアでも。
そんな日本の片田舎の街で、ワタクスは夜勤を2箇所でやりながら
生活している。2つの仕事を合わせても15万円にしかならないワタクスは
間違いなく、今日の身分制度のワーキングプア階層のニンゲンだ。
でも、それが何が悪い?って「居直り」ではなく「真顔で」ワタクスは思う。
日中は自分の好きに使える時間があり、夜は月の10日を老人ホームに
寝泊りし、ジーさんバーさんたちと世間話や昔話に興じて楽しいし、
後の10日は、ビジネスホテルの夜間フロントマンとして時には外人さんに
得意の英語で案内したりして、緊張もあり、語学的刺激や以前やっていた
旅行会社の教養も生かされ、なかなか自己実現できる良い仕事だ。
夜勤という肉体的苦労はついてまわるが、家で仮眠をすれば
解消できる問題である。
夜勤2つで年収200万にもならない「趣味的百姓」であるこのワタクスだが
ケッコー、この気楽で、ストレスをほとんど感じない今の仕事と生活
スタイルが気に入っている。
以前の会社勤めと違ってストレスがないので髪の毛さえ
この頃、部分的に生え始めた。精神的に健全な何よりの証で
ある。かくのごとくな不安定なワーキングプアをやりながらも
正社員に採用され、時間も拘束され、ノルマを課せられ、それで
同じ15~20万円程度の会社員よっかヨッポド気楽で楽に金が
稼げる今の自分のほうがイイよねって思う。30万、40万あれば
もっといいものを食べれ、いい服や新車が買えるのかもしれないが
所詮「ニンゲンンやったり、食ったりすることってタカが知れている」
のだから、15万も30万も、あんまり変わり映えしない瑣末な差だ。
「何に生きる価値を見ているか?」それこそ生きている人間の問題
なのであろう。
不思議な人生体験
2008-01-04 13:42:12 oyazの投稿
VALUESTARのLANカード(イーサネットアダプター)を
挿入する入口をウチの末ムスメが、出したり引いたりしているうちに
とうとう、壊してしまった。いままでも、コードの止め部分のプラスチックが
なくなり「パチン」とハマラナクナッタリ、挿入部入口のカードがすんなり
入るための小さな金具がビヨ~ンと伸びきってしまったりして、
紐やガムテープのみっともない応急処置で、それでもなんとか
子どものいたずらには対応できていた。しかし、
今度ばかりは、にわかプロPC付け焼刃大工には、手に追いかねる
事態のようで、VALUESTARはまったくインターネットやメールに
ウントモスントモ、オンライン作動しなくなった。
で、今は、棄てずに取ってあった我が家の初代PCダイナブックノート型に
急遽接続して、ウインドーズ98を駆使してかくブログをものしている。
このこと自体も、不思議っちゃ~かなりへんてこな体験である。
が、もっと不思議な体験は、ワタクスが19で女性とめぐり合い
その後結婚して、三人の娘に遭遇し、長女には今年初めて
3万円ものお年玉をちょうだいし、出雲の彼氏ができたという
次女とも笑いあいながら、いわゆる「ひきこもり」の末ムスメと
M1グランプリか、大介花子みたいな、かけあいをできる、
~って~ことが、実にジツニ、不思議この上ないのである。
こんな体験はなかなかできることでないし、子どもたちと
もう一度、親子仲良し時代をすごせているような、なんとも奇妙で
愉快な、「二度美味しい」子と親を演じ、興じているワケだ。
まっ、ズサマらしく教訓じみて理屈を語ればっ、だっ
かくのごとく子どもたちは画一的でなくていいし、
「変わり者」でいいし「ひきこもりもの」で大いに結構なのである
そのほうが親は、特に母親は苦労こそ二重三重にあるが
素直な心を垣間見せる子どもと、二度三度一緒に楽しめる
人生を送れることになるのである。それって素敵である。
天使猫「丸ちゃん」
2008-01-04 03:11:32 oyazの投稿
前回ご紹介した渡世「人」ならぬ「猫」銀次に次いで、
今回紹介しますはその兄弟のオカマの「丸」。
と言ってもモチロン自分から志願したわけでも
生来のお好みでオカマ入りしたわけではございませんで
世のためシトのため、泣く泣く、タマタマ、取ったしだいです。
ところで、ウチにはペットと呼べる仲間は幼稚園でもらった金魚や
沼で釣り人にもらったタナゴしかおりませんでした。
末のムスメのために犬でも飼ってあげようか、と家人と話をしていた
まさにその矢先、この「丸」ちゃんは、まるで人の心を察したか
のように突然「捨て猫」として我が家に登場します。
それはまさにビックリ仰天、青天の霹靂、馬の耳に念仏、豚に真珠、、、
ボキャーブラリーの限りを尽くしても言い表せないほど
それほど、バッチグーの絶妙さでした。まるで天上のカミサマが
我が家をお見通しで、使いとして我が家に白猫を使わしてくれた
かのような、かぐや姫の物語でも見ているような按配でした。
その子猫はとってもちっちゃくってかわいくて真っ白でした。
プラス、右目がブルー、左目がブラウンの世に言う「オッドアイ」
だったのですが、後に我が家に合流することになる先の銀ちゃんの目は
丸とちょうど左右逆色の同じくオッドアイだったんですから、再驚した
こと、モチロンです。
そんな感じで我が家の一員となった2匹のオッドアイズは
ちっちゃくってかっわい~赤ちゃん猫時代を無事すごし
今日の大の字になって人間顔まけで寝ほろける、
すっかり一家になじんだリラックス猫に成長するまで、
ず~とわたしたちと一緒に暮らしているんです。
猫のヒギンちゃんの紹介
2008-01-02 08:43:09 oyazの投稿
猫年ってないのはかわいそ~だな
と思って、ワタクスの中では今年はねずみを追う猫年って
ことでいいんではないかい、って考えている。
さて、我が家の2匹の白猫君の一匹はメスなのに「銀次」
って言う、仁侠映画に出てきそうなヤクザな
男名を付けられ、ウチにやってきた渡世モンだ。
その猫は、ムスメには「ヒギンちゃん」と呼ばれている。
「髭ちゃん」と呼んでいるらしいのだが、ワタクスの耳が
難聴なのか、彼女の発音がフランス語なまりなのか、
ワタクスにはどうしても「ヒギンちゃん」としか聞こえない。
その猫は渡世の荒波、人間関係ならぬ猫間関係の
むずかしさを乗り越えてきた猫だけあって、「強い」。
同年輩で同宿の兄弟オス猫を、喧嘩をしたらねじ伏せる。
エサがほしいとなったら2階にまだ寝ている家人を起こしに行って
起きるまで鳴き止まない。部屋から出たければドアをこじ開ける。
外に飛び出したと思ったらサンシュユの木にリスのように
駆け上がる。人に変に媚びることがない。サバサバと実に
実務的な猫なのだ。ワタクスがエサをあげることはほとんど
ないので、特にワタクスには寄っても来ない。近づいても
避けて通っていく。
彼女を見ていると
白黒のつけかたとはカクアルベキって
思わされることが多々ある。そういう猫ヒギンちゃんである。