話す・聴く、授ける・受ける、作る・使う
Jan.31,2006
『蜆(シジミ)売り』の演目で桂福團冶という落語家が精彩なく高座にでてくる。
開口一番、「疲れはりまっしゃろ」
「・・・わてかてもう疲れましたヮ・・・40年もやってまっさかィ・・・からだが一番大事でっから、みなさんも適当に聴いてヤ・・・こっちも適当にやりまっさかい」
心もとなく弱弱しくも、風体も目鼻立ちも貧相でパッとしない、が、陰気なオカシミをかもし出していた。
チャキチャキの五代目志ん生が好きな東北いなか人は、この手の上方落語は、ハナから気乗りがしない。
つまらそうに、聴くでもなく、聞き流しす。
「アチャリィ~・・チジミッ!・・・・アチャリィ~・・チィジミッ!」12~13歳の坊やが凍てつく吹雪の中、蜆を売りにくる。
寒風吹きすさぶ川から採ってきた蜆を、ザルに山盛りにしたのを天秤棒でかついでいる。両のザルの蜆の山が雪をかぶって真っ白だ。坊ずのやせこけた手が、こごえ、かじかみ、ちじこまる。ハッーと息を吹きかける。耳が冷たいを通り越し、痛い。吹雪に目がよく開けられない。
「アチャリィ~・・チッジミッ!」
向こうに赤い火鉢を囲む大人たちの姿が障子越しに見える。
『あったかそぅャなぁー・・・・そや、あん人たちに、こうてもらおっ』
「オッチャンっ!ちじみコーテっ!」
「いらんッ!!」―――――(ピシャリッ)
・・関西弁の間、丁丁発止のやりとり、その調子に乗って、次第次第に話が活気づく。疲れて枯れていた始めの落語家はみるみるうちに名調子語りの講談師となり、力強く息づいてきた。何の道具建てもない舞台に、上手には天秤棒を担ぐ蜆売りの子どもが雪の中をはだしの草履姿で歩いて来、下手にはそれを買わん出て行けという大人たちのいきいきとした関西弁がまくし立てられる。十人も居ようという人情芝居が、たった一人の噺家の口車で、まるで眼前に浮かび上がるように見えてくる。その話し手・桂福團冶がもっているのは、閉じた扇子と手ぬぐいきり。
文字どおり裸一貫、ふんどし一丁、徒手空拳。落語家は、口とセンスと手ぬぐいだけで勝負する。それは俳句や短歌にも通ずる日本独特の文芸の一つといえるのだろう。柳生宗悦が民芸運動で言及した「器はそれだけでは8割しかできていない。食器も道具も使う人に使われて初めて完成する」に相通じるものがあるようにも思える。聴き手、読み手、使い手が、「参加して」はじめて成り立っている。ゴテゴテと装飾し、大道具・小道具を取りそろえて形作るのではなく、シンプルな道具建てのなかで「互いに心のやり取り」をして初めて成り立つ日本の芸。茶の湯、能、狂言、落語、俳句・・・肉体ではなく「心」、金をかけるのではなく「感性」・・・貧しくても絶えなかった日本の文芸とはなんだったのか、合点できそうな、そんな一席を聴いた。笑って、引き込まれ、そして最後に、ほろっと泪。
『蜆(シジミ)売り』の演目で桂福團冶という落語家が精彩なく高座にでてくる。
開口一番、「疲れはりまっしゃろ」
「・・・わてかてもう疲れましたヮ・・・40年もやってまっさかィ・・・からだが一番大事でっから、みなさんも適当に聴いてヤ・・・こっちも適当にやりまっさかい」
心もとなく弱弱しくも、風体も目鼻立ちも貧相でパッとしない、が、陰気なオカシミをかもし出していた。
チャキチャキの五代目志ん生が好きな東北いなか人は、この手の上方落語は、ハナから気乗りがしない。
つまらそうに、聴くでもなく、聞き流しす。
「アチャリィ~・・チジミッ!・・・・アチャリィ~・・チィジミッ!」12~13歳の坊やが凍てつく吹雪の中、蜆を売りにくる。
寒風吹きすさぶ川から採ってきた蜆を、ザルに山盛りにしたのを天秤棒でかついでいる。両のザルの蜆の山が雪をかぶって真っ白だ。坊ずのやせこけた手が、こごえ、かじかみ、ちじこまる。ハッーと息を吹きかける。耳が冷たいを通り越し、痛い。吹雪に目がよく開けられない。
「アチャリィ~・・チッジミッ!」
向こうに赤い火鉢を囲む大人たちの姿が障子越しに見える。
『あったかそぅャなぁー・・・・そや、あん人たちに、こうてもらおっ』
「オッチャンっ!ちじみコーテっ!」
「いらんッ!!」―――――(ピシャリッ)
・・関西弁の間、丁丁発止のやりとり、その調子に乗って、次第次第に話が活気づく。疲れて枯れていた始めの落語家はみるみるうちに名調子語りの講談師となり、力強く息づいてきた。何の道具建てもない舞台に、上手には天秤棒を担ぐ蜆売りの子どもが雪の中をはだしの草履姿で歩いて来、下手にはそれを買わん出て行けという大人たちのいきいきとした関西弁がまくし立てられる。十人も居ようという人情芝居が、たった一人の噺家の口車で、まるで眼前に浮かび上がるように見えてくる。その話し手・桂福團冶がもっているのは、閉じた扇子と手ぬぐいきり。
文字どおり裸一貫、ふんどし一丁、徒手空拳。落語家は、口とセンスと手ぬぐいだけで勝負する。それは俳句や短歌にも通ずる日本独特の文芸の一つといえるのだろう。柳生宗悦が民芸運動で言及した「器はそれだけでは8割しかできていない。食器も道具も使う人に使われて初めて完成する」に相通じるものがあるようにも思える。聴き手、読み手、使い手が、「参加して」はじめて成り立っている。ゴテゴテと装飾し、大道具・小道具を取りそろえて形作るのではなく、シンプルな道具建てのなかで「互いに心のやり取り」をして初めて成り立つ日本の芸。茶の湯、能、狂言、落語、俳句・・・肉体ではなく「心」、金をかけるのではなく「感性」・・・貧しくても絶えなかった日本の文芸とはなんだったのか、合点できそうな、そんな一席を聴いた。笑って、引き込まれ、そして最後に、ほろっと泪。