Jan.12,2006
先日、仏教の伝来を再勉強したところ、特番『アジア・仏の美100選』なるものを期せずして見ることとなった。これもまた不思議なこの世を律するご縁かと思い、もう一度「仏教伝来」をトレースする。
特集では、まず、釈迦国の王子ゴーダマ・シッダールタが出家した6年の足跡が辿られた。飲まず食わずの苦行をし骨と皮ばかりとなり死と向き合うもなお悟りは得られず、それから瞑想することによりはじめてブッダ(覚者)となっていく過程である。悟りを得てからの49日、彼はその余韻に浸っていたことが語られ、これが今日の葬儀の後の「49日」になったことを解説者は暗に我々に教えていた。その彼の教えを「経」と言い、戒めを「律」と言い、後人のそれらの解釈を「論」と言って、3つをもって仏教では「三蔵」と呼ぶのだそうだ。「論」を漢訳し、仏教を中国に根付かせた歴史上の人物に、キジ国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という人がいた。中国人ではなく、大雑把に言えば、インド人と騎馬民族のハーフである。その彼の、数奇な運命が、今日の日本の仏教に、政治に、庶民の生活に、そうしてこれからきっとワタシの人生に、大きく影響を及ぼすことになる。
■鳩摩羅什 (くまらじゅう)
西暦350頃亀茲(キジ)国に生まれる~409年中国の現・西安(長安)で没す。中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国鳩摩(くまら)の王族の母との間に生れ、7歳で母とともに出家。384年、亀茲国を攻略した中国の捕虜となり、以後18年間中国涼州での生活を余儀なくされる。そののち、401年、後秦の姚興(ヨウコウ)に迎えられ長安に入る。以来10年間、精力的にインドサンスクリットの経論を中国語(漢語)に翻訳し、多くの門弟を育てた。
東アジア仏教は、この鳩摩羅什によって基本的に性格づけられ方向づけられた。『般若経』『法華経』『維摩経』など大乗経典35部294巻におよぶ翻訳を完成させ、門弟は三千余人に上ったという。
■鳩摩羅什と『法華経』
『法華経』には六訳三存といい、古来6種の漢文への訳出があり、次の3種が現存している。
(1)『正法華経』(286年訳出) 竺法護訳
(2)『妙法蓮華経』(406年訳出) 鳩摩羅什訳
(3)『添品妙法蓮華経』(601年訳出) 闍那崛多・達摩笈多訳
なかでも、鳩摩羅什が訳した『妙法蓮華経』が名訳で、『法華経』のなかでも圧倒的に流布した。『法華経』といえば一般に『妙法蓮華経』をさすまでになった。
この『妙法蓮華経』は中国の隋の時代の高僧、天台大師智顗(538-597)の法華経を中心とした仏教へとつながり、日本の伝教大師最澄(天台宗)や日蓮聖人(1222-82)の仏教へとつながった。また、天台大師智顗とほぼ同じ時代、日本の聖徳太子(574-622)も鳩摩羅什訳のこの『妙法蓮華経』を読み、有名な『法華義疏』を著作された。 かくのごとくに鳩摩羅什という人物の訳した『法華経』が中国、韓国、日本に歴史的に多大な影響を与えるに至った。
亀茲(キジ)国は現在の中国でいうと、新疆ウイグル自治区のクチャ(庫車)という街にあったアオシス都市。仏教遺跡としての「キジル石窟」が世界的に有名で、その壁画にはアフガニスタンでしか採れないとされる高価な原石ラピスラズリ(lapis lazuli)の青色がふんだんに使われていた。壁画の様式も含めササン朝ペルシャの影響を色濃く残す、アジアらしからぬ仏教遺跡のひとつとされる。このラピスラズリの石窟といい、近年タリバンによって爆破されてしまったバーミヤンの(玄奘三蔵の通った当時は金色に輝いていたという)石仏群といい、仏教が中央アジアできらびやかなまでに隆盛を極めていた時代が垣間見える。
そして、1400年前にその法華経を読んだ聖徳太子が「和をもって尊しとなせ」と説いた教えも、世界最古の木造建築である法隆寺を完成させた工人たちの技術・智恵・美的感覚が、機械文明と拝金主義の現代をもってして、ニッポンから消え失せつつあることが思われた。中央アジアから仏教が消えていったように。
現にこうして使っているインターネットも含め、現代の、昔とは比べるべくもない情報量の多さは、ある面で我々の知識をかえって浅薄にしてしまっている。なぜなら情報が多すぎるため、新聞を読んでも、テレビを見ても、本を読んでも、本当の理解や納得に至る前に、我々の脳は「見出し」だけを覚え、知ったつもりになってしまっている「傾向と対策」になっているからだ。「明鏡止水」「石の上にも3年」そんな言葉は現代人はもう知らないし、車の騒音と音楽と携帯と映像に囲まれた環境で生きる現代人に、「瞑想」や静寂なんて、はるかかなたの別世界なのかも知れない。
「どび流し」「ジャバラタナゴ」の復活、日本あらためインド
Jan.11,2006
日本では儲からない稲作をやめ、花栽培に切り替える農家が多くなった。そのために、たんぼの近くにこさえてあった溜め池が放置されるようになり、溜め池の底にたまった泥を1年に一遍放流する「どび流し」を誰もしなくなった。そのために溜め池の底には泥が何年も沈殿し、やがてヘドロ化し、いままでいた「ジャバラタナゴ」や水の生き物たちが(馬鹿で貪欲で業突く張りなアメリカザリガニ以外)住めなくなり、死んでいなくなってしまった。
これも、人間の現金主義、経済至上主義がもたらした環境破壊そのものであり、日本人が日本人自らの手で日本の自然を喪失しつつある現実なのである。市民団体がもういちどその溜め池にジャバラタナゴを復活させようと立ち上がり、溜め池からヘドロをスコップですくいあげ、ようやく放水栓を探し出し、30回も「どび流し」を繰り返し、昔のような溜め池に、なんと2年がかりでようやっと戻したのだそうな。放水栓を開けるにもコツがあり、それを知る長老もよわい70を越えた人で、継ぎ手もいない現状だった。さしずめ息子らは工場に金取りにいっているのだろう、イカレタ車に乗って。こういう放置され、荒廃が進み、日本固有の生き物たちを死滅させつつあるこの日本の田園環境を、みなさんはどう思うだろうか?NPOが日本中にある全ての溜め池を復活できる訳もなし、第一こんなことはNPOがするべきことではなく、本来稲作をする農地を持っている農家たちがちゃんとみんな稲作をしていればいい話であったわけで、それができない、してもしょうがない、ってことになってしまっているところに実に大変な日本農業の大問題がある。
つまり、今の日本は、すべてが「儲かるか」「儲からないか」しかない社会になった、ってことです、断言しますが。そのことが、こんな身近な自然を見ただけでも、TVが「溜め池と水の生き物たち」にスポットをあてただけでも、まざまざと浮き彫りになって浮かび上がってくるんじゃぁありませんか、今の日本ってぇひでぇ国は。狂ってますよ、どこかが、それも、ものス~っごくっ!!です。
一方でワタシのような脱サラ男が新規就農しようと思って、農地を貸してくださいと言うと、なんのかんのと理由をつけて貸さない。それじゃその人が耕すのかといえばいっこうに耕さない。休耕田として放置したまんまだったり、転作作物を植えましたとばかりに形ばかりコスモス畑にして補助金をせしめてのうのうとしているのだ。その一方で後継者が育っているかと言うと、農業高校に通う高校生も含めて「農業はイヤだ」とほざいて、金取りダァ!?ふざけんなっ!アホくさくって、新規就農の意欲も、意気込みも次第に後退していこうってモンじゃぁあ~りませんか。
「日本では農業では食っていけませんっ!!」・・・???みなさん、コレって、ものスゴ~ク、変でしょ!!!食べ物を作っている農家その人が「食っていけない」だなんて!
今の日本、狂っていることは今やゴマン、十万、一億・・とあるコバクサイ世の中に成り下がってしまったが、その中でも「農家が農業では食っていけない」とはいったい、なにごとだっ! 政府は「食料自給率40%をもっと上げたい」ともう10何年言いつづけているが一向に上がってなんかいない。一方で米価の逆ざやを百姓に補てんすることを止め、規制もはずすからドンドン自由に何ぼででも売っていいよと体よく農業を見放し、自由化でございます、規制緩和でございます、民のやれることは民にでございますと繰り返す。
米も野菜も魚も肉も酒も、輸入国の表示義務を課しながら、どんどん輸入させている。表示すればいいって問題じゃぁないのに、国は何か表面的なことだけ工夫して核心を誤魔化している。スーパーにはニュージーランドのカボチャが節でもないのにズラリと並び、フィリピン産のおくらが農薬プンプンとして並び、ロシア産の魚がテンコ盛りで凍りつき、ブラジル産の鳥肉が10円の目玉商品としてニッポンの賢い主婦連をおびき寄せている。「Made in NIPPON」はお高いので買いびかえられ、ますます、100円ショップとユニクロ同様、海外の低賃金国から食料が日本の食卓に押し寄せ、蔓延している。アトピーや皮膚病、花粉症、昔なかった現代病の原因は実はこんなところにもあるのかもしれない。
その裏では「百姓は百姓では食っていけない」ので近くのサラミ工場で「部品」として時給700円の安いバイトに身を売る女と男。本当は、みんな日本の日本人の作った安心・安全なものを食べたい、買いたい、使いたい。それは山々なのだが、もうそれができない社会構造に変化してしまった、日本は。年功序列・終身雇用は骨董屋に入り、会社には一握りの正社員と、8割の安く不安定な契約社員とフリーター、派遣社員があたりまえのように働く。加えて財布は公的負担(消費税・市民税・固定資産税・国民保険料・国民年金掛け金・介護保険料)にあえぎ、それでも将来にそなえ個人年金積み立てをしぼり出し、庶民の夢マイホーム住宅ローンボーナス払いのためサラ金にまで走る。時給にすれば1000円くらいの負担が日本の庶民をがんじがらめにしている。安心・安全な食品は庶民からますます遠去かろうとしている。98円の「どこのでもいいから」1円でも安い卵を「買うしかない」個人の財布になってしまったのだ。1割のTOYOTAや銀行やホリエモン連が過去最高の利益とバブル期を越える株価の勢いだと大笑いしているが、9割のアンタッチャブルが貧困にあえぎ、材としてきょうも作業を繰り返す。カースト制インドになってしまったようだ、いつの頃からか、ニッポン。
「人材」の不元気、「人物」の元気
Jan.10,2006
経済評論家の内橋克人は、中小企業の中で、いまだに生き続けている会社には、ある共通項があるのだ、と言う。
それは、会社で働く人たちを「人材」というモノ扱いにするのではなく、人間として「人物」と見る、そういう受け止め方・考え方・姿勢なのだと。
な~るほどっ!!、てOyazは、大いに共感した。
学生の時、日本を代表する五反田の印刷会社にバイトに入った。夜8時から翌朝8時までの深夜勤務。印刷物が、オートメーションのラインに乗って流れてくる、それを台車にとって決められた箇所に運ぶ、というただ機械の一部に組み込まれたような仕事だった。ベルトコンベアーから、印刷物を取る、台車に積む、そして運ぶ、同じ場所でおろす、またラインに戻る、取る、積む、運ぶ・・・延々と、その繰り返しである。その単純作業を、機械の止まるまで、世が明けて人が起き出すまで、ただ黙々と、牢獄で鎖につながれ苦役をこなす囚人のように、あるいは映画で見た、奴隷船でムチ打たれ櫓をこぎづつけるしかない奴隷のように、夜中から朝まで、し続けるだ。人間にとって、機械同様に扱われるほど気が狂いそうな苦しいことはない、とその時わかったワタシは、バイトを3日で辞めた。続かないのだ、どうしても。人間として、しゃべりもせず、考える必要もなく、機械が停まるまで休むことも許されず、単純なただただ作業を繰り返し続けるマシーンに徹することが、当時のワタシにはどうしても、できなかった。こういう仕事は、人間への侮辱である、尊厳を無視した、機械扱いだ、と腹立たしかったのを忘れない。それから30年。昨年12月の1ヶ月だけ、Oyazは再びサラミ工場でおんなじ機械と化した。そして、やはり大学時代と変わらぬ感慨をもった。今回は生活費のためにじっと耐え忍んだものの、ラインの一部になることは、いまだに、人間性否定の何ものでもないし、管理する幹部たちも冷淡にそう見ていた。一生懸命しようが、先を見越した工夫をしようが、関係なかった。会社はその部署をこなすただの丈夫な部品がほしかっただけである。誰だってよかった。仕事が正確で壊れにくい人材ならなおさらいい、っていうスタンス。できようができまいが、陽気だろうが暗かろうが、先見性があろうがなかろうが、協調性があろうがなかろうが、判断力があろうがなかろうが、そこにあてがう「部材」や「歯車」がとにかく、あればよかった。マニュアル化された手順どおりにしてもらえば、提案力とか企画力だとか笑顔だとかユーモアだとか、まったく必要なかった。工場って似たり寄ったりそういうものかなって、19歳の時からもう30年も大人になっているのに、同じ憤りが湧いて、収まらなかった。
「人を使う」という言い方もまた、人を道具か機械扱いした言い方で、抵抗がある。むしろ「人を動かす」のほうがまだしもいい。「人が人を動かす」には、言い古されたことだが「ほめる」に限る。ただそれが、いろんな会社を見ていると、上に立つ人にはなかなかできないことのようだ。「ほめる」ということは結局その人の仕事振りや、工夫してやっている努力を、上の者がよく見ているっていうことである。「あぁこの上司は、自分のことをよく見ていてくれ、自分の工夫や努力を評価してくれているんだなぁ」って、人はそう思った時、その人のためなら何でもしてあげたい、っていう気持ちにますますなる。勿論、その反対の場合は、ますますその反対の気持ちになる。
NHK教育TV『日曜美術館』でたまたま古九谷焼を再現した金沢の【吉田屋】を特集していた。
100年以上も九谷焼の技術は途絶えていたのだという。誰も、あの輝く古九谷の黄・緑・青色は再現できまい、と言われていた幻の古九谷焼。その再興を思い立ったのは酒造業を隠居し、文人として余生を送っていたよわい72歳の吉田屋伝右衛門という人。文政7年(1824)のことである。彼は選りすぐりの職人を20人集めた。ロクロをひくもの、釉薬を調合するもの、絵付けをするもの、窯焚きをするものなど、専門特化させる。そしておもしろいことに「定」、現代の就業規則を定め、「午後4時以降は、お酒を飲んでもかまわない」という一文を設け、職人たちを待遇したのである。そうして吉田屋は、窯を興して1年目にしてあっという間に、幻の古九谷焼を再現してしまう。後にわかることだが、その背景には、職人の中に幻の古九谷の色の再現者天才調合師:粟生屋源右衛門がいたこと。そして大胆にして熟達の天才絵付師:鍋屋丈助の存在があったればこその偉業だった。それにしてもである、この吉田屋伝右衛門というリーダーが上に立つ者として優れていたからこそ、職人たちはみな「この人のためなら」と粋に感じ、嬉々として仕事ができていたに違いないことはすぐに想像ができる。現に、幻の古九谷焼を再現、それから時代のニーズにあった吉田屋九谷焼としてたちまち人気をはくし、商売としても繁盛していったその窯が、4年後に伝右得門が76歳でなくなると、急速に衰え、彼の死後3年で窯が閉じられたのである。「ほめる」そして「ともに喜び励ます」人を失った時、人は力を発揮できないことが、この吉田屋を見てもわかるのである。
ドクトルKの元気
Jan.9,2006
久しぶりに山形の上山病院医師ドクトルKこと桑山紀彦が全国版国営TVに出ていた。28の時に初めて国際医療ボランティアに参加して以来、ボスニアヘルツェゴビナ、アフリカの難民キャンプ、東ティモール、最近のアフガニスタンまで、実に17年間で53ヶ国の国をまわり、傷ついたり、やせ細ったり、熱が下がらなかったり、戦争で親兄弟を失ったりした子どもたちに接してきた。「自分の体重の半分くらいの重さの水タンクを背負って子どもたちが道を歩いてくるんです。苦しいとかイヤだとか、というのではなく生き生きとした目が輝き、笑いかけてくるんです。お母さんに水を飲ませてあげられるから、自分も顔を洗えるからって。困窮し、心も傷つき、やせこけ、爆弾と銃が隣り合わせの最悪の状況下で、子どもたちが見せる奇跡的なエネルギッシュなまでの笑顔と元気に、何不自由なく平和ボケした自分自身がハッとして、こんな12歳は見たことないって、逆に元気をもらうんです。この元気をひとりじめにするのはよくない。日本に、地域の子どもたちにコレを伝えなければ」と、そう思って歌い始めたというドクトルK。自ら撮ってきた映像をプロジェクターで映し出し、体育館で自作の歌をフォーク調で朗々と快活に歌い上げ、世界の子どもたちの生き様を、TVでしか知らない子どもたちにじかに語りかける「地球のステージ」コンサートを、Kは今日もどこかで展開している。
それを見た日本の子どもたちが言う。
「わたしたちがおもしろいことを見たり聞いたりする笑いと違って、彼らは心の底から生きていることを喜び、感謝している、そんな笑顔だと思いました」「自分も世界の子どもたちのために役に立ち、元気を伝える、あの人のようになりたいと思いました。」・・・
Oyazは聞いていて、な~んだ、日本の子どもたちも、どうして、まだまだ捨てたもんじゃぁないじゃないか!!、ってジーンと来てしまいました。「本物を知らないだけなんだなっ。もっと困っている、いろんな子どもたちがいる現実を、実態を、知らないだけなんだヮ。TVのお笑いと、貧困下でもキラキラ輝く瞳の違いを、ゲームと携帯と塾通いで、パッパラパーになってしまっていたと思っていた日本の子どもたちが、ハッキリとちゃんと感じとれるんだなぁ」って。そう感じたボクは、なんだかスゴ~ク、いちどきに安心してしまいました。そうして、今の日本の若者たちに、医者ではなくミュージシャンとして登場し、最新の映像機器と技術・共感して協力してくれるスタッフ・同じプロの伴奏者・編集者・自分の曲調、声、スタイルなど、一番若者たちに効果的な表現と方法を考えながら、「子どもたちに【感じて】もらいたいんですっ!」ていう目標に向って、自身表現者として楽しみながらやってきたNPO代表:桑山紀彦。あらためて、そんな山形身近びとを見、知り、認識し、元気をもらった一瞬だった。
三浦敬三の元気
Jan.8,2006
三浦敬三が101歳でとうとう逝ってしまった。親戚でもなんでもないが、ボクたちスキー少年あこがれの三浦雄一郎のオヤジとして子どもの頃から知っていた人。大人になってからも折に触れニュースで見聞きする人だった。青森県の八甲田山を山岳スキーの草分けとして開拓し、シニア現役プロスキーヤーにして写真家、最近では最高齢プロスキーヤー・登山家として食生活や毎日の生活まで話題にされていた。90にしてヨーロッパアルプスのモンブラン山系の氷河を滑り、100歳にして70代の息子雄一郎とその子・孫との親子孫ひ孫4代、米ユタ州スノーバードスキー場:標高3000mから滑走する、そんな「ウルトラじっちゃん」だった。その驚異の体力と元気力に、ワタシは一日本人、東北人として見ているだけで元気をもらっていた、そんな存在だった三浦敬三が、逝った。
山形っこの自慢の一つに、世界的に樹氷で有名になった蔵王がある。有名にしたのは、トニーザイラーというスキーの金メダリストだ。彼が蔵王でスキーを滑ったのだと、話にだけは聞きながら、ボクたちは蔵王でスキーをしながら、大きくなった。
1956年の冬季オリンピックはイタリア。今年2月にあるトリノではなく、コルチナ・ダンペッツオという景勝地で開かれたそうな。その大会で、オーストリア・キッツビューエル出身の若者トニー・ザイラーがアルペンの3種目に全て圧勝し、スキー史上、初のアルペン三冠王となる。世界中がトニーに沸いた、という。そのトニーが、翌1957年(Oyazが産まれたての)春、桜の美しい日本に立ち寄ったんだと。3月いっぱいでスキー場の営業を停めていた石打スキー場が、トニー達のためにリフトの運転を延ばし、春のクサレ雪の中、世界のトップスキーヤーと日本の強化指定選手の合宿が実現した。ザイラーは、たったその1日だけのスキーの後、東京の桜を見て、オーストリアに帰っていったのだが、それから5シーズン、日本の雪上に再び彼は居たのである。トニーザイラー主演映画が日本で作られることになったから。映画名『スキーの王者』がそれで、その舞台こそ、山形県の蔵王スキー場であった。樹氷をバックに滑るトニーの勇姿が世界の人々に日本のスキー場を、そして地元山形県蔵王のスノーモンスターの魅力を、伝えたのである・・・。
その後、68年2月のグルノーブル冬季大会で、地元フランスのジャン・クロード・キリーがスキーのアルペン競技史上、トニーザイラーについで2人目の三冠王となると、当時11~12歳だったOyazたちスキー少年はキリーに夢中になった。「キリーみだいにすべっだい!」と、ますますスキーに入れ込んでいく東北のいなかっぺたち。スキー人口減の一途をたどる今では考えられない、大人も子どももスキースキーだった時代が蔵王にもあった。
国内では、世界最高峰のエベレストを、スキーでパラシュートまでつけて滑降してしまった冒険家三浦雄一郎という男が世間の度肝を抜いた。当時の日本の男たちは皆、その雄一郎にあこがれた(おばさんたちは裕次郎に)。その雄一郎とは似ても似つかぬダサイメガネのおとっつぁん、それが最初に見た三浦敬三の印象である。冒険野郎をとおして、ちょっぴりだけ知ったその敬三とは、こんな人だった。
■ 明治37年2月15日 青森県青森市生まれ ■ 北海道帝国大学(現在の北大)農学部卒業後、青森営林局に勤務する ■ 青森林有スキー部の選手、部長(営林署時代、岩手・宮城・東京を転勤している) ■ 昭和30年51歳で営林局退職 ■ その後、東京・練馬に移動 ■ 全日本スキー連盟の技術委員を務めるなど、日本スキー界の草分けの一人であり、「八甲田の主」と呼ばれた ■ 毎年11月から5月まで、1年の半分近くを国内外のスキー場で過ごした。 ■ 現役スキーヤーと共に山岳写真家の顔も持つようになる ■ 還暦(60歳)で雄一郎のキロメーターランセの応援を機会に海外初遠征。 ■ 古希(70歳)でエベレスト最大の氷河、シャングリ氷河を滑降■ 喜寿(77歳)には家族でキリマンジャロ登頂及び滑降 ■ 傘寿(80歳)オートルート前半滑降 ■ 米寿(88歳)オートルート後半滑降 ■ 卒寿(90歳)でヴァレーブランシュ滑降 ■ 白寿(99歳)3世代にてヴァレーブランシュ滑降 ■ (100歳)米ユタ州スノーバードの標高3000mから親子孫ひ孫4代で滑降 ■ (101歳)1月5日、東京都文京区の病院で死去。死因、多臓器不全。101年の人生の一巻の終わり。
■ 三浦敬三の日々の運動の基本は8つ。
1.首の運動 2.口開け運動 3.呼吸法 4.体操 5.ゴムチューブスクワット 6.スキー体操 7.深呼吸 8.ウォーキング
さらに若さを維持する独自の運動として、口を大きく開閉させ舌を思いっきり伸ばす 「舌出し体操」、よい香りを取り込み、右脳を活性化させボケを予防する 「香り呼吸法」などを、すべて自ら考案してトレーニングしていた。
■ 敬三の食卓には数多くの食材が並ぶ。
骨ごと食べられる鶏肉のしょうゆ煮、ピーマンのひき肉煮、キムチ納豆、佃煮、鯛のお頭煮、麹を生かしたみそ汁、イカの塩から、発芽玄米のご飯等々。
すべて敬三自身の手料理だった。「一度の食事で多くの種類をバランスよく食べる」「よく噛み、食べ過ぎない」を旨としていた。
かくのごとく、三浦敬三という人の生き方をふりかえって見てみると、人は何かに「打ち込んでいる姿」「地味だがコツコツ努力する姿勢」に胸を打たれ、元気をもらうのだな、と思った。ノンベンダラリンとなんにもしないで、携帯片手にボーッとしてないで、「打ち込んでみろ!」「鍛錬してみろ!」「できた時の喜びは格別だゾッ!」って、あの世に旅立ったウルトラじっちゃんは寡黙に、そう、我々に最後の明治男の元気さをもって、語りかけているようである。