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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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人間の誤操作

Dec.11,2005

みずほ証券のベテランセールスマンが「一株61万円」と入力すべきところを、
「1円で61万株」と入力間違えしたというニュース。

もし自分がその人だったらと想像すると、設計計算書偽造の姉歯某同様、
わなわなと膝がふるえ、自殺せずにはいたたたまれない、決してしてはいけなかったミスの前に茫然自失し、泣き崩れるのだろうかと思われた。
インプットミス、もう2度と取り消せない現実に直面し(それも自分のせいで)、
何故だ!?どうしてそんなことをやってしまったんだ!?
とただただ馬鹿な自分にあきれ、後悔、苦悶し、慙愧にたえない、残り後半生を送るんだろうなぁ。どんなに裕福で恵まれた人生の前半だったとしても、終わりは地獄の日々が待っていたわけだ。西武の堤義明もそうだ。世界一の富豪が結局最期は留置所。ヤオハンの会長も。

ところで、人間の誤操作についてである。
ワタシの頭なんか微分積分さえ理解できないし、アインシュタインの相対性理論は名前しか知らない浅薄さなので、材料に取り上げること自体はばかられるのだが、あえて自分の脳を参考に考えてみる。

くだんの1円で61万株を発注してしまったベテランセールスマン。
「ベテラン」という報道を耳にし、はたと思った。
48歳のワタシだが、自分もそのベテランの域にある。
つまり早い話、脳も心も、としょりになってきているのである。
ということは、若い頃は気にもしなかった、たとえば暗算が、たとえば超有名な俳句や人の名前がすぐに思い出せなかったり、できなかったり、間違えたりし始める。それも、ベテランだから、堂々と、である。確信をもってそれを、言ったり、発表したり、発注したりしてしまうのである。
「間違いないっ!!」って当の本人は始めは、自分の誤操作や計算ミスや誤謬にまったく気がつかない。まわりもベテランだから、あの人ならミスをするはずがないとへたに口をはさまない。
と、今回のような、後半生爆弾炸裂地獄落ちの単純ミスによる巨額損失事故は起こる。

要するに、45も過ぎると人間の脳はどうも、金属疲労のように劣化が始まるようだ。
視力も、髪の毛も、腹のたるみも、肌のシミも。
それは、たとえばコピー機の複写ロールに一つの傷がついてしまうと、どんな原稿をコピーしても紙のおんなじ所に傷が転写されつづけるのに似ている。
あるいは、間違って覚えた癖を、コンピューターがその人の特徴として正しいと学習し反復し履歴更新してしまうのに似ている。こうきたらこの人の場合はこう間違えるべき、というふうに脳が勝手に間違えるパターンを作ってしまっている可能性がある。それを食い止めるには、中学一年生にもどって丹念に教科書や辞書を調べ、ひくことしかないようだ。ベテランだからと億劫がらずに調べる、ひく。そうして脳のインプットミスを修正してあげる。ベテラン、としょりになればなるほど本当は逆に数多くそうしてあげなければならない、にもかかわらず、しないベテラン・としょりが多いのだきっと。しないから修正されぬままミスを重ねる。修正されない脳は活性化しない。だからついには脳の突起が平板になってボケるのだろう。老朽の機械や車には、なおさらにこまめな潤滑油塗布・メンテナンスが必要なように。そうしてあげないと、動かなくなる。勿論コレワタシノノウノコト。


世の中が違って見える不思議

Dec.10,2005

今年の3月まではいわゆるバリバリの企業戦士だったのに、今は無職の男Oyaz。

それでも国民保険料・健康保険料・固定資産税・市民税・住宅ローン・光熱費・学費・がん保険料・生命保険料・個人年金掛け金を月ベースにならすと最低16万円必要だ。
それが毎月銀行口座から引き落とされると年152万円必要となる(それも食費をのぞいてである)。つまり2年で約300万円、4年で600万円、8年で1200万円・・・黙ってかかるということである。

ということは、微々たる退職金などは数年で底をつき、早晩、銀行口座ゼロの日が近づくということになる。

それで目下サラミ工場日雇い人夫なわけだ。

シビアーな厳しい生活費のことはさておいて、しかしである、こんな生活もあったんだなぁ~って今は不思議に思っている。午前8時から午後5時まで人夫をし、帰宅し、一杯やって就寝。朝は3時半からパソコンや新聞に目をとおし、山や畑、ハウスで朝飯前の一仕事。そのあとのホッカホッカの胚芽米と一汁一菜のなんとおいしいこと。
それは、たとえば大根の葉っぱのごま油炒めと白菜汁だったりする。
いやぁ~こっれが、んまいっ!
「誰っ!?こんなまずいものつくったのはっ!?」って現代のニーちゃんネーちゃんなら文句たれるかもしれないが。
金星がほほえみかけるようにまばたく星空と月を見ながら朝から鼻歌交じりに自転車こぎ、一仕事終えうっすらと汗し、帰り道、刻々と変化し明けていく夜明けの空や雪の里山の風景に感動を覚える。そおして、ホッカホッカのご飯はまったくもって、んまい!

こんなことはなかった企業戦士時代は。
パタパタとメシをかっこみ、夜は延々おわらぬサービス残業に明け暮れた。夜空なんかみても感動することさえ忘れていた。

今は無一文同然なのに、心は星に感動するまで正常にリセットされた。
ただのダイコン葉炒めと白菜味噌汁がんまんまいとご飯がすすむ。
それほどワタシは健康にもどった。
ただ会社辞めた、企業戦士ヤメタ、それだけなのに。

新しい世界7日目

Dec.9,2005

新しい仕事に飛び込んで今日で丸1週間がたつ。
3日目にはそのあまりの腕のつらさと精神的閉塞感で、正直、辞めたくなった。
しかし不思議なもので4日目から少しづつ体がリズムやこなし方のコツをつかみ始め、5日目には慣れ筋肉の使い方も工夫するようになり、6日目には他の人の手伝いや気配りさえできる余裕もできた。
つまり、Oyazは、サラミ工場の製造ラインの完璧な、りっぱな、工場長の望む見本と成るべき模範工員となりきったわけである。肉も血もある人間が機械に変身した瞬間である。

ま、それはさておき、新しい世界にきてみて、感心することもいくつかある。
ひとつは、その清潔さを保つ徹底ぶり。それは食べ物加工ならではだろう。
食品製造会社であるのだから、その商品の中には金属片などは勿論あろうことか、髪の毛1本入っていてはならないのである。
であるからして、入道頭のOyazでさえ頭からネットをかぶらされ、その上から首巻きのついた純白の帽子をかぶり、上下の白衣に身を包む。そうして消毒石鹸でよく手を洗い、さらにアルコール液で洗浄。作業所内に入る前にエアークリーン室なる、空気がいきおいよく吹き出ている部屋をとおり、こまかいチリアクタを猛烈に除去する。その後、最終的な入口で、絨毯などの毛玉とる白い粘着テープの巻きつけてあるクルクルロールという道具で作業服を全身なでられる。そうやってようやく作業場にたどり着く次第なのである。昼休みやトイレに行った時も、この一連の動作を終了した後でないと、作業場には入れない。そのような衛生マニュアルができあがっている。

あとひとつ。
作業ケースの規格の統一と、単純な色分けによる分類である。
たとえば、これから使う未使用の包装紙(大)の入ったケースの色は青。
(小)の色は緑。ライン製造中に検査で失格となった商品をほうりこむケースは白。
あまったサラミや包装不備のものはケース黄色。
そして何々用は赤。と決まっているので、単純化され誰も間違えないように工夫されている。
ケースの規格も同じサイズが使われ、中身がなくなれば折りたたんで積み重ねられるようにこさえてある。それを女子でも軽く移動可能なように歯車のついた特注の同サイズの台車に重ねていく。
だから一見重そうなケースがラインの前後に積み上げてあるのだが、女工員たちは苦もなく持ち運びしている。
一番の力仕事といえば、このOyazが担当する「のし方」が最高なくあらいだ。

(今にして思えば、二人しか居ないこの「のし方」。誰もしたがらない、そんな重労働のポジションに据える適当な奴を会社は探していたのだ。そこにまんまとOyazははめられた。もう一人の奴なんかはとうとう根をあげ、昨日主任に泣きつき、ポジション変えをしてもらった。それくらい「のし方」をし続けることはつらい。だが、しかし、あえてOyazはどこまでやれるかその限界に挑戦し続けてみる。何かを得るはずだから。)


烏合の衆だが考えるアッシである

Dec.8,2005

メジャーになるということを考えてみた。
ヤマガタ県人で今日本中で一番メジャーな人はスケートの加藤条治だろう。
次は、相撲の琴ノ若、バレーボールで欧州プロになった高橋みゆき、劇団サンジュウマルのワタナベエリコ。
といっても、ただ関心のない他県人にしてみらば、「あぁ、あのひと山形なのお~」、程度の反応しかしないんだろう。

山形県は西川町(霊峰月山と湯殿山のある東北の中でもとりわけ自然の美しい町)そこに書家の阿部泊船さんという人が住んでいるが、彼の作品が、集められた500点の文化芸術作品中、オーストリアの某教授賞と理事長賞を受賞した。「へェ~山形県にも世界に認められる書のアーティストがいるんだぁ !」とワタシはたいへん驚いたが。といっても、メジャーには、ほとんどの山形県人はもちろん、全国の多くの人はそれを知らない。

メジャーには62億円もらった松井秀樹は誰でも知っている。宮里藍も知っている。知事のサイトウヒロシのことは山形県人しか知らない。
まして市長の市川昭男のことは山形市民しか知らない。他の町村長のことは山形市民はほとんど知らない。

「無農薬トマトを何々町の誰それさんが作ってどぉ~」という類の口コミはその関心のある人々の間ではすぐに広まり、その手の筋の人たちにとってはメジャーな存在である。「あそこのラーメンがんまいって」も口コミが一番である。「あの食堂には2度といかない」という逆もまた然り。

BSEのことや鳥インフルエンザ、最悪日本人の64万人が死亡する(山形県民は居なくなる)と新聞雑誌で大々的に報道する新型インフルエンザのことは、日本人はみなその「名前」だけは知っている。
「改革を止めるな」の1フレーズは知っている(中身は知らないが)。
(日本人は新聞・雑誌・TVのメディア報道にすぐ洗脳される、為政者からすると大変扱いやすい国民であるようだ)

数字で概念化すると目標がはっきりする

Dec.7,2005

サラリーマンだったころ月給40万円もらっていたとする。
×12ヶ月=480万円の年俸があったことになる。
月20日は働いたとすると日当2万円とになる。
労働生産性:1時間あたりに換算すると÷8時間として=時給は2500円だった。

いまのOyazはサラミ工場で、時給たったの700円で両腕と体を8時間縛られている。
と考えるととても「こばくさ」て、とてもやってられなくなる!

営農計画を漠然と数字化してみる。
すくなくとも自分はサラミ工場の4倍の値打ちはあるはずだと信じる。
ので時給2800円の百姓をめざそう。
朝から晩まで際限なく働く水のみ百姓をするつもりはないので一日7時間だけ労働しよう。一人当たりの年間総労働時間1500時間。
公務員よりも休もう。週休3日にして、月18日の稼働日数の悠々自適の百姓ライフ。
時給2800円×18=約50万円の月給となる。
年俸になおすと600万円。
これ位がワタシ本来の実力というものだろう。

年600万円。コレはあくまでほしい時給から考えた百姓としての手取りである。
販売高ではない。
収益性の高い百姓を、めざし収益30%を儲けよう。
収益を年600円儲けたかったら、2000万円を販売する必要がある。

花や野菜一個で考えると、
単価@100円のものを20万個売る必要がある計算だ。
単価@200円なら10万個。
単価@300円なら6.7万個。
単価@500円なら4万個。
ただし、@500円のキャベツなんて、見たことない!もとい・・・。

しかし、こういう風に、数字で自分の理想とする年俸や労働時間、稼働日数を計算してみることはいいことである。
これからやるべき方向性が具体的に見えてくるから。

ノンベンダラリンと朝から晩まで畑を耕す百姓にはなるまい。
農機具会社のいうままに最新鋭機なんて決して買うまい。
きっちり年間シミュレーションのできたベンチャー百姓になろう。
それが旧来百姓の持っていない、脱サラもんが社会でもまれてきた、すごい営農感覚に置き換えられると信じるから。


金のためにマシーンになってみたが

Dec.6,2005

サラミ工場でバイトをはじめてまだ3日だというのに、Oyazの右手と左手はかなりの筋肉疲労状態である。
畑や花卉栽培ハウスで重い土相手に重労働もしてきた。
毎日曜日は人一倍テニスに打ち込んできた。
並みの体力ではない、と自他共に認められている体のはずなのに、
8時間の工場勤務がこんなにつらい。

ひとつのラインに8人が付く。
1、入口にサラミを流し入れる人
2、計測された100~500gの一袋の量を袋に受ける人
3、そこに脱酸素剤を入れる人
4、それを封印する人
5、それを鉄板に打ち付けて平らにのす人
6、やぶれや不具合がないか最終チェックする人
7、それを一まとまりにたばねる人
8、出荷用段ボールに詰める人

それが3秒間隔で流れていく。
サラミ一袋が3秒に一回の割で出てくる。
ということは1分で20袋できる。
ということは60分で1200袋できる。
ということは8時間で8600袋、毎日、8人でこさえている。

Oyazは、自給700円のため、
一時間で1200袋を鉄板に叩きつける労働マシーンロボットとして、
この左右の腕を、サラミ工場に売ったのだ。
上から下まで真っ白なユニフォームに身をかためたマシーンロボットたちに人格は要らない。個性も、アイディアも、主張も、意見も、工夫も、愛想も、おべんちゃらも、計算も、心も、頭脳も、おしゃべりも、人としてもつソフトは何ひとつ要らない。
マシーンとして一つの作業を8600回均等にこなせる筋肉だけが要る。

学生の頃から様々なバイトを経験してきたので、この種の人間を否定するようなマシーン化した単純作業が一番つらいのはわかっていた。
わかっていたが、いざ、渦中のマシーンになってみると、やはり局部的筋肉酷使と完全人間否定の精神的圧殺は、相当につらいものがある。

このシャカイにはいろんな職業がある。

ノルマのきつい、しかし人間と話のできるセールスマンがいいか?
歌って踊れる太鼓もち、バスガイドや添乗員、旅館のおネーさんがいいか?
教室では唯我独尊、大統領、独裁者になれる教師がいいか?
人の骨や肉を切り、血管を切ったり繋いだり、ドイツ語を読んだり書いたりするドクターがいいか?
アサハラショウコウのためにも金になるなら弁護する弁護士がいいか?
みんなに感動を与える、毎日アトリエにもこりっきりの夢を作り出すマンガ家や画家、アーティストがいいか?
キャーキャ-騒がれて、街中で普通に買い物もできなくなるプライバシーをなくした有名人、芸能人がいいか?
へいへい左様でございます、とテメェでは銭を稼いだことがない慇懃無礼な税金ドロボーの行政官がいいか?
おてんと様しだいです、土と水と空気のおかげです、春夏秋を耕し、冬ごもりする百姓がいいか?

人はパンのみに生きるにあらず、という。
が、たしかに、
脳や心のチャッチボールする人との会話や
読書や映画・音楽・アートを見たり聴いたりや
みずから創造する喜びと感動
そして生かされている感謝と畏敬
そういうものがないと
人はいきいきとは生きられない。
そのように人間はこさえられているようであることをマシーンになってまじまじと感じている。

植物は人に関係なく育つ

Dec.5,2005

今朝はゆうべからの雨雪で、里の景色も銀世界となった。
きのう、山から20本ほどの大根をカミさんと掘り出しておいてよかった。

といっても、ウチのそれは、おおきいのから小さいのまで、完全無農薬規格バラバラダイコン役者たちの寄せ集まりだ。
中には、間引きしたものを植え換えしたものもある。
人に話すと、間引いた大根は根付かないと異口同音言われたが、
ほれみたことか、あにはからんや、常識クソクラエ、で、みごとにみな根付いた。
ただ根っ子の先端が、決まって螺旋状に捻じ曲がったり、二股気味になってはいるが、土から出ている葉っぱと首根っこの部分は、他のダイコンと全く遜色なく成長していた。
はじめは葉をクタリとさせて、やっぱり先輩諸氏の言う如く、間引き大根は根付かないかに見えていた。それがこんなにも立派になった。おじさんは大変うれしいし、一本根っこのダイコンのもつたくましさに、改めて感動を覚えた。小さい一粒の種から大きく育つ植物の強さ、土と水と空気と太陽の力、を思い知る。人間なんて植物を育てているわけじゃあない。付き添って、見ている、だけである。
「あの人の作った無農薬野菜」・・・ちがう。野菜と土と水と空気と太陽が共同してはくぐんだアンサンブルかシンフォニー、ただその大いなる結実なのである。
人間はそのために、なにがしかの準備をし、日々大きくなるのを黙って見守り、そしてりっぱに成ったものを感謝していただくだいている。それだけである。
人が作った?まさか!思い違いをしてはいけない。

聞き上手

Dec.4,2005

おしゃべりは銀で、沈黙は金と、今も言う。
自己中心的におしゃべりするのは好きだが、
他己中心的に話にじっと耳を傾けその気持ちをわかってあげることはにがてな人のほうが多い。それは簡単なことのようでいて実は本当に難しいことだからだろう。

一人の人は何を中心に回っているのだろう。
自我である。
自我は、その人となりを色づけ、確固たらしめる、その人独自の人格の核なのだと思う。
また自分自身が何故この世の何々という家に生まれ、死ぬまで生きていかねばならないのかを問い掛けるその人の「心」でもある。
それゆえに、それがわからないからこそ、その人の「煩悩」ともなっている。

人は皆、この自我をかかえたまま社会で生きている。
つまり、全ての人は、自己中心的な存在で、自己中心的に生きている。
その社会の中で、自分の「我」ばかりをとおす人のことを「ジコチュウ」と呼ぶが、本来は、人は皆もともと自己中心的な存在として生れついている。

だだをこねる、とは「我」をとおすことのことである。
筋をとおす、もその人なりの「我」をとおすことである。
意思を貫く、も「我」をとおすことである。

人の話を聞く。
それは「我」を出さずに、じっと相手の気持ちを自分に置き換え類推し、おもんぱかることである。そうして相手の気持ちを汲み、わかってあげ、手助けできる人を「聞き上手」と言う。この「聞き上手」の心得を忘れると「我」と「我」のぶつかり合いだけになってしまい、人はケンカばかりをやってしまうことになる。

ひと時黙ってうなずき、あいづちし「聞き上手」になれるかが、人と人とが仲良く暮らしていける秘訣となるのだろう。死ぬまでこの「我」という「煩悩」をかかえ、人は修行し、「聞き上手」の達人になるように、と神様から道を課せられているのかも知れない。
人はその境地に立てない「暗愚」な存在である。勿論ワタシも。


女工となって

Dev.3,2005

12月2日よりOyazはサラミ工場の工員となった。
正月の餅を買うため、出稼ぎに出たのである。

その工場のパートさんはざっと9割が女性。
お昼をとるホールの椅子から察するに300人はいるだろうか。

それが皆、頭の先からつまさきまで、白い帽子とマスクと上下の作業着とズックに身をかためている。腕時計も指輪もピアスも、カットバンさえしてはいけない。
背の高い低い、ケツのでかい小さい、眼鏡のあるなし、以外はほとんどわからぬ白づくめの人間もどきが300人。

その300人が止まらない機械のラインに配置され、機械のできない部分に組み込まれている。
おおもとでサラミをよりわける者、
それがベルトコンベアに乗り機械が自動計量した分量を2秒間隔で次々と袋に受ける者、
その袋に乾燥剤を投げ込む者、
それをシールド機で封する者、
中身の偏った製品をのして平らにする者、
やぶれや製造年月日の不備がないかを検査する者、
そのラインの果てに最終者が製品を箱詰めにしてトラックにのっけている。
ラインは何本もあって、皆ただ黙々とおんなじ作業を、8時間繰り返すのである。
それも人間もどきの格好で。朝の8時から夕方の5時10分まで。

よくもまぁ、こんなに人間はしゃべりもせず機械の一部になりきれるものだ、と感心して異様な工場内の景色を時々見てしまう。
Oyazなんぞはただの1ヶ月だけの季節労働者。
ところがおばさんたちは飽きもせず、これを何年も続けてきたのだ。
白の上衣のそでに刺繍ネームがなければ名も知らず、顔も見えぬ300人の女工たち。

それをリーダーとか、主任とか課長、次長、工場長代理なんぞという、一握りの男たちが管理する。
「この世の中は男が支配しているようでナンカおかしいと思ったんです」と言う市民団体を立ち上げて活動している方の記事が思い出された。
なんで管理官はほとんど男で、工場の機械の歯車は女なんだろう、野麦峠の製糸工場の時代から、最先端機器の現代まで。

5時10分のブザーが鳴る。
女工たちが白尽くめから、普段着に着替えて色とりどりの格好に変身してマイカーで帰っていく。その姿は、ようやっと人間にもどったような、そこここに普通にいるおばさん、おネーさんとなっていた。


突き詰めたデザイン

Dec.2,2005

突き詰めると、えてして、つまらい、ごく普通、に行き着くことがある。

幸せってナーニ?・・・家族みんなが健康である
           ・・・きょうも一日、家族みんな、事故に会わずに、丈夫であること
           ・・・労働の後の一杯と家族とのゆうげ
           ・・・平凡

究極のデザインって?・・・素粒子、原始、ケヤキの繁み、卵、宇宙、すべて「球」

だから、ユニヴァーサルデザインとは、ワタシにとってはこの「球」のことである。

全ての究極の美しさには、必ずこの「球」状の曲線がともなっている。

そのごく普通を磨き上げた果てに、卓越したしかしシンプルな匠の伝統工芸品の感動、がそなわるのだろうと、今は素直にそう思える。


Flower Craft 

Dec.1,2005

山あいに河が流れており、その曲線になった浅瀬で少年たちは水浴びをしていた。
その奥には陽当たりの良い土手があり、遺跡万里の長城の断片のような壁が昔はそこにあったのだという。
そこから目の前にある民家の2階をつたい、階下へとおりていく。
そこは工房と展示室になっている。
先日来2度目にお会いする師匠がクラフト台にボクを招く。
こまい年輪を刻む硬く、しかし表面の木肌模様が鮮やかで繊細な木を削り始める。
グラインダーの音がまわる中でボクが尋ねる「素材はなんなんですか?」
「・・・」
「えっ?サクラですかっ?」うるささにかき消された答えを訊き返す。
「ツゲです」

「あっ~、そういえばお屋敷に大きなツゲの木がありましたもんねぇ・・・」「・・・」と
居合わせた女性客2人が、ボクたちを遠まきにしながらしゃべっているが背中に聞こえた。

立方体のガラスショーケースの中には、赤いつやつやの万年筆が飾ってあった。
美しい職人技の極みのようなその万年筆は、「3万円」なり。
そのほか、かわいらしい小さなミニチュアの自動車や乗り物が楽しげに精巧に作られており、それがきれいに展示されている。ああ、こういう世界もあったのだ、と鮮明すぎる夢を見ながら、ボクは思い出した。

「そうだ!民芸だ、職人工芸だ、クラフト、本物の質感だ!」とボクは起きてから直感的に思った。

もともと工作が好きなのであるが、今春会社を辞め、百姓見習となってからは、日々、ただ、夢中で、山で、畑で、花ハウスで、作業することばかりに明け暮れてきた半年だった。
ものづくりの肌合いや素材のもつオモシロさを加工して木目を活かした作品に作り上げる工程から、すいぶんと遠のいてしまっていたことに改めて気づく。

鉢花の栽培だって、ただの農作業や製造工場だけでは、味気もへったくれもないし、第一こんなにきれいなものを作り上げれるのだから、だた出荷して金取って終わり、ではもったいなさすぎる、とふと思えた。

ならば、○○園芸を「花卉工房○○」や「FlowerCraft ○○」と言い換えればいいんじゃぁないか、と思い至る。

今までにない、新しい花卉栽培工房のビジョンが少し、見えてきた今朝である。
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