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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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人間の誤操作

Dec.11,2005

みずほ証券のベテランセールスマンが「一株61万円」と入力すべきところを、
「1円で61万株」と入力間違えしたというニュース。

もし自分がその人だったらと想像すると、設計計算書偽造の姉歯某同様、
わなわなと膝がふるえ、自殺せずにはいたたたまれない、決してしてはいけなかったミスの前に茫然自失し、泣き崩れるのだろうかと思われた。
インプットミス、もう2度と取り消せない現実に直面し(それも自分のせいで)、
何故だ!?どうしてそんなことをやってしまったんだ!?
とただただ馬鹿な自分にあきれ、後悔、苦悶し、慙愧にたえない、残り後半生を送るんだろうなぁ。どんなに裕福で恵まれた人生の前半だったとしても、終わりは地獄の日々が待っていたわけだ。西武の堤義明もそうだ。世界一の富豪が結局最期は留置所。ヤオハンの会長も。

ところで、人間の誤操作についてである。
ワタシの頭なんか微分積分さえ理解できないし、アインシュタインの相対性理論は名前しか知らない浅薄さなので、材料に取り上げること自体はばかられるのだが、あえて自分の脳を参考に考えてみる。

くだんの1円で61万株を発注してしまったベテランセールスマン。
「ベテラン」という報道を耳にし、はたと思った。
48歳のワタシだが、自分もそのベテランの域にある。
つまり早い話、脳も心も、としょりになってきているのである。
ということは、若い頃は気にもしなかった、たとえば暗算が、たとえば超有名な俳句や人の名前がすぐに思い出せなかったり、できなかったり、間違えたりし始める。それも、ベテランだから、堂々と、である。確信をもってそれを、言ったり、発表したり、発注したりしてしまうのである。
「間違いないっ!!」って当の本人は始めは、自分の誤操作や計算ミスや誤謬にまったく気がつかない。まわりもベテランだから、あの人ならミスをするはずがないとへたに口をはさまない。
と、今回のような、後半生爆弾炸裂地獄落ちの単純ミスによる巨額損失事故は起こる。

要するに、45も過ぎると人間の脳はどうも、金属疲労のように劣化が始まるようだ。
視力も、髪の毛も、腹のたるみも、肌のシミも。
それは、たとえばコピー機の複写ロールに一つの傷がついてしまうと、どんな原稿をコピーしても紙のおんなじ所に傷が転写されつづけるのに似ている。
あるいは、間違って覚えた癖を、コンピューターがその人の特徴として正しいと学習し反復し履歴更新してしまうのに似ている。こうきたらこの人の場合はこう間違えるべき、というふうに脳が勝手に間違えるパターンを作ってしまっている可能性がある。それを食い止めるには、中学一年生にもどって丹念に教科書や辞書を調べ、ひくことしかないようだ。ベテランだからと億劫がらずに調べる、ひく。そうして脳のインプットミスを修正してあげる。ベテラン、としょりになればなるほど本当は逆に数多くそうしてあげなければならない、にもかかわらず、しないベテラン・としょりが多いのだきっと。しないから修正されぬままミスを重ねる。修正されない脳は活性化しない。だからついには脳の突起が平板になってボケるのだろう。老朽の機械や車には、なおさらにこまめな潤滑油塗布・メンテナンスが必要なように。そうしてあげないと、動かなくなる。勿論コレワタシノノウノコト。


世の中が違って見える不思議

Dec.10,2005

今年の3月まではいわゆるバリバリの企業戦士だったのに、今は無職の男Oyaz。

それでも国民保険料・健康保険料・固定資産税・市民税・住宅ローン・光熱費・学費・がん保険料・生命保険料・個人年金掛け金を月ベースにならすと最低16万円必要だ。
それが毎月銀行口座から引き落とされると年152万円必要となる(それも食費をのぞいてである)。つまり2年で約300万円、4年で600万円、8年で1200万円・・・黙ってかかるということである。

ということは、微々たる退職金などは数年で底をつき、早晩、銀行口座ゼロの日が近づくということになる。

それで目下サラミ工場日雇い人夫なわけだ。

シビアーな厳しい生活費のことはさておいて、しかしである、こんな生活もあったんだなぁ~って今は不思議に思っている。午前8時から午後5時まで人夫をし、帰宅し、一杯やって就寝。朝は3時半からパソコンや新聞に目をとおし、山や畑、ハウスで朝飯前の一仕事。そのあとのホッカホッカの胚芽米と一汁一菜のなんとおいしいこと。
それは、たとえば大根の葉っぱのごま油炒めと白菜汁だったりする。
いやぁ~こっれが、んまいっ!
「誰っ!?こんなまずいものつくったのはっ!?」って現代のニーちゃんネーちゃんなら文句たれるかもしれないが。
金星がほほえみかけるようにまばたく星空と月を見ながら朝から鼻歌交じりに自転車こぎ、一仕事終えうっすらと汗し、帰り道、刻々と変化し明けていく夜明けの空や雪の里山の風景に感動を覚える。そおして、ホッカホッカのご飯はまったくもって、んまい!

こんなことはなかった企業戦士時代は。
パタパタとメシをかっこみ、夜は延々おわらぬサービス残業に明け暮れた。夜空なんかみても感動することさえ忘れていた。

今は無一文同然なのに、心は星に感動するまで正常にリセットされた。
ただのダイコン葉炒めと白菜味噌汁がんまんまいとご飯がすすむ。
それほどワタシは健康にもどった。
ただ会社辞めた、企業戦士ヤメタ、それだけなのに。

新しい世界7日目

Dec.9,2005

新しい仕事に飛び込んで今日で丸1週間がたつ。
3日目にはそのあまりの腕のつらさと精神的閉塞感で、正直、辞めたくなった。
しかし不思議なもので4日目から少しづつ体がリズムやこなし方のコツをつかみ始め、5日目には慣れ筋肉の使い方も工夫するようになり、6日目には他の人の手伝いや気配りさえできる余裕もできた。
つまり、Oyazは、サラミ工場の製造ラインの完璧な、りっぱな、工場長の望む見本と成るべき模範工員となりきったわけである。肉も血もある人間が機械に変身した瞬間である。

ま、それはさておき、新しい世界にきてみて、感心することもいくつかある。
ひとつは、その清潔さを保つ徹底ぶり。それは食べ物加工ならではだろう。
食品製造会社であるのだから、その商品の中には金属片などは勿論あろうことか、髪の毛1本入っていてはならないのである。
であるからして、入道頭のOyazでさえ頭からネットをかぶらされ、その上から首巻きのついた純白の帽子をかぶり、上下の白衣に身を包む。そうして消毒石鹸でよく手を洗い、さらにアルコール液で洗浄。作業所内に入る前にエアークリーン室なる、空気がいきおいよく吹き出ている部屋をとおり、こまかいチリアクタを猛烈に除去する。その後、最終的な入口で、絨毯などの毛玉とる白い粘着テープの巻きつけてあるクルクルロールという道具で作業服を全身なでられる。そうやってようやく作業場にたどり着く次第なのである。昼休みやトイレに行った時も、この一連の動作を終了した後でないと、作業場には入れない。そのような衛生マニュアルができあがっている。

あとひとつ。
作業ケースの規格の統一と、単純な色分けによる分類である。
たとえば、これから使う未使用の包装紙(大)の入ったケースの色は青。
(小)の色は緑。ライン製造中に検査で失格となった商品をほうりこむケースは白。
あまったサラミや包装不備のものはケース黄色。
そして何々用は赤。と決まっているので、単純化され誰も間違えないように工夫されている。
ケースの規格も同じサイズが使われ、中身がなくなれば折りたたんで積み重ねられるようにこさえてある。それを女子でも軽く移動可能なように歯車のついた特注の同サイズの台車に重ねていく。
だから一見重そうなケースがラインの前後に積み上げてあるのだが、女工員たちは苦もなく持ち運びしている。
一番の力仕事といえば、このOyazが担当する「のし方」が最高なくあらいだ。

(今にして思えば、二人しか居ないこの「のし方」。誰もしたがらない、そんな重労働のポジションに据える適当な奴を会社は探していたのだ。そこにまんまとOyazははめられた。もう一人の奴なんかはとうとう根をあげ、昨日主任に泣きつき、ポジション変えをしてもらった。それくらい「のし方」をし続けることはつらい。だが、しかし、あえてOyazはどこまでやれるかその限界に挑戦し続けてみる。何かを得るはずだから。)


烏合の衆だが考えるアッシである

Dec.8,2005

メジャーになるということを考えてみた。
ヤマガタ県人で今日本中で一番メジャーな人はスケートの加藤条治だろう。
次は、相撲の琴ノ若、バレーボールで欧州プロになった高橋みゆき、劇団サンジュウマルのワタナベエリコ。
といっても、ただ関心のない他県人にしてみらば、「あぁ、あのひと山形なのお~」、程度の反応しかしないんだろう。

山形県は西川町(霊峰月山と湯殿山のある東北の中でもとりわけ自然の美しい町)そこに書家の阿部泊船さんという人が住んでいるが、彼の作品が、集められた500点の文化芸術作品中、オーストリアの某教授賞と理事長賞を受賞した。「へェ~山形県にも世界に認められる書のアーティストがいるんだぁ !」とワタシはたいへん驚いたが。といっても、メジャーには、ほとんどの山形県人はもちろん、全国の多くの人はそれを知らない。

メジャーには62億円もらった松井秀樹は誰でも知っている。宮里藍も知っている。知事のサイトウヒロシのことは山形県人しか知らない。
まして市長の市川昭男のことは山形市民しか知らない。他の町村長のことは山形市民はほとんど知らない。

「無農薬トマトを何々町の誰それさんが作ってどぉ~」という類の口コミはその関心のある人々の間ではすぐに広まり、その手の筋の人たちにとってはメジャーな存在である。「あそこのラーメンがんまいって」も口コミが一番である。「あの食堂には2度といかない」という逆もまた然り。

BSEのことや鳥インフルエンザ、最悪日本人の64万人が死亡する(山形県民は居なくなる)と新聞雑誌で大々的に報道する新型インフルエンザのことは、日本人はみなその「名前」だけは知っている。
「改革を止めるな」の1フレーズは知っている(中身は知らないが)。
(日本人は新聞・雑誌・TVのメディア報道にすぐ洗脳される、為政者からすると大変扱いやすい国民であるようだ)

数字で概念化すると目標がはっきりする

Dec.7,2005

サラリーマンだったころ月給40万円もらっていたとする。
×12ヶ月=480万円の年俸があったことになる。
月20日は働いたとすると日当2万円とになる。
労働生産性:1時間あたりに換算すると÷8時間として=時給は2500円だった。

いまのOyazはサラミ工場で、時給たったの700円で両腕と体を8時間縛られている。
と考えるととても「こばくさ」て、とてもやってられなくなる!

営農計画を漠然と数字化してみる。
すくなくとも自分はサラミ工場の4倍の値打ちはあるはずだと信じる。
ので時給2800円の百姓をめざそう。
朝から晩まで際限なく働く水のみ百姓をするつもりはないので一日7時間だけ労働しよう。一人当たりの年間総労働時間1500時間。
公務員よりも休もう。週休3日にして、月18日の稼働日数の悠々自適の百姓ライフ。
時給2800円×18=約50万円の月給となる。
年俸になおすと600万円。
これ位がワタシ本来の実力というものだろう。

年600万円。コレはあくまでほしい時給から考えた百姓としての手取りである。
販売高ではない。
収益性の高い百姓を、めざし収益30%を儲けよう。
収益を年600円儲けたかったら、2000万円を販売する必要がある。

花や野菜一個で考えると、
単価@100円のものを20万個売る必要がある計算だ。
単価@200円なら10万個。
単価@300円なら6.7万個。
単価@500円なら4万個。
ただし、@500円のキャベツなんて、見たことない!もとい・・・。

しかし、こういう風に、数字で自分の理想とする年俸や労働時間、稼働日数を計算してみることはいいことである。
これからやるべき方向性が具体的に見えてくるから。

ノンベンダラリンと朝から晩まで畑を耕す百姓にはなるまい。
農機具会社のいうままに最新鋭機なんて決して買うまい。
きっちり年間シミュレーションのできたベンチャー百姓になろう。
それが旧来百姓の持っていない、脱サラもんが社会でもまれてきた、すごい営農感覚に置き換えられると信じるから。


金のためにマシーンになってみたが

Dec.6,2005

サラミ工場でバイトをはじめてまだ3日だというのに、Oyazの右手と左手はかなりの筋肉疲労状態である。
畑や花卉栽培ハウスで重い土相手に重労働もしてきた。
毎日曜日は人一倍テニスに打ち込んできた。
並みの体力ではない、と自他共に認められている体のはずなのに、
8時間の工場勤務がこんなにつらい。

ひとつのラインに8人が付く。
1、入口にサラミを流し入れる人
2、計測された100~500gの一袋の量を袋に受ける人
3、そこに脱酸素剤を入れる人
4、それを封印する人
5、それを鉄板に打ち付けて平らにのす人
6、やぶれや不具合がないか最終チェックする人
7、それを一まとまりにたばねる人
8、出荷用段ボールに詰める人

それが3秒間隔で流れていく。
サラミ一袋が3秒に一回の割で出てくる。
ということは1分で20袋できる。
ということは60分で1200袋できる。
ということは8時間で8600袋、毎日、8人でこさえている。

Oyazは、自給700円のため、
一時間で1200袋を鉄板に叩きつける労働マシーンロボットとして、
この左右の腕を、サラミ工場に売ったのだ。
上から下まで真っ白なユニフォームに身をかためたマシーンロボットたちに人格は要らない。個性も、アイディアも、主張も、意見も、工夫も、愛想も、おべんちゃらも、計算も、心も、頭脳も、おしゃべりも、人としてもつソフトは何ひとつ要らない。
マシーンとして一つの作業を8600回均等にこなせる筋肉だけが要る。

学生の頃から様々なバイトを経験してきたので、この種の人間を否定するようなマシーン化した単純作業が一番つらいのはわかっていた。
わかっていたが、いざ、渦中のマシーンになってみると、やはり局部的筋肉酷使と完全人間否定の精神的圧殺は、相当につらいものがある。

このシャカイにはいろんな職業がある。

ノルマのきつい、しかし人間と話のできるセールスマンがいいか?
歌って踊れる太鼓もち、バスガイドや添乗員、旅館のおネーさんがいいか?
教室では唯我独尊、大統領、独裁者になれる教師がいいか?
人の骨や肉を切り、血管を切ったり繋いだり、ドイツ語を読んだり書いたりするドクターがいいか?
アサハラショウコウのためにも金になるなら弁護する弁護士がいいか?
みんなに感動を与える、毎日アトリエにもこりっきりの夢を作り出すマンガ家や画家、アーティストがいいか?
キャーキャ-騒がれて、街中で普通に買い物もできなくなるプライバシーをなくした有名人、芸能人がいいか?
へいへい左様でございます、とテメェでは銭を稼いだことがない慇懃無礼な税金ドロボーの行政官がいいか?
おてんと様しだいです、土と水と空気のおかげです、春夏秋を耕し、冬ごもりする百姓がいいか?

人はパンのみに生きるにあらず、という。
が、たしかに、
脳や心のチャッチボールする人との会話や
読書や映画・音楽・アートを見たり聴いたりや
みずから創造する喜びと感動
そして生かされている感謝と畏敬
そういうものがないと
人はいきいきとは生きられない。
そのように人間はこさえられているようであることをマシーンになってまじまじと感じている。

植物は人に関係なく育つ

Dec.5,2005

今朝はゆうべからの雨雪で、里の景色も銀世界となった。
きのう、山から20本ほどの大根をカミさんと掘り出しておいてよかった。

といっても、ウチのそれは、おおきいのから小さいのまで、完全無農薬規格バラバラダイコン役者たちの寄せ集まりだ。
中には、間引きしたものを植え換えしたものもある。
人に話すと、間引いた大根は根付かないと異口同音言われたが、
ほれみたことか、あにはからんや、常識クソクラエ、で、みごとにみな根付いた。
ただ根っ子の先端が、決まって螺旋状に捻じ曲がったり、二股気味になってはいるが、土から出ている葉っぱと首根っこの部分は、他のダイコンと全く遜色なく成長していた。
はじめは葉をクタリとさせて、やっぱり先輩諸氏の言う如く、間引き大根は根付かないかに見えていた。それがこんなにも立派になった。おじさんは大変うれしいし、一本根っこのダイコンのもつたくましさに、改めて感動を覚えた。小さい一粒の種から大きく育つ植物の強さ、土と水と空気と太陽の力、を思い知る。人間なんて植物を育てているわけじゃあない。付き添って、見ている、だけである。
「あの人の作った無農薬野菜」・・・ちがう。野菜と土と水と空気と太陽が共同してはくぐんだアンサンブルかシンフォニー、ただその大いなる結実なのである。
人間はそのために、なにがしかの準備をし、日々大きくなるのを黙って見守り、そしてりっぱに成ったものを感謝していただくだいている。それだけである。
人が作った?まさか!思い違いをしてはいけない。

聞き上手

Dec.4,2005

おしゃべりは銀で、沈黙は金と、今も言う。
自己中心的におしゃべりするのは好きだが、
他己中心的に話にじっと耳を傾けその気持ちをわかってあげることはにがてな人のほうが多い。それは簡単なことのようでいて実は本当に難しいことだからだろう。

一人の人は何を中心に回っているのだろう。
自我である。
自我は、その人となりを色づけ、確固たらしめる、その人独自の人格の核なのだと思う。
また自分自身が何故この世の何々という家に生まれ、死ぬまで生きていかねばならないのかを問い掛けるその人の「心」でもある。
それゆえに、それがわからないからこそ、その人の「煩悩」ともなっている。

人は皆、この自我をかかえたまま社会で生きている。
つまり、全ての人は、自己中心的な存在で、自己中心的に生きている。
その社会の中で、自分の「我」ばかりをとおす人のことを「ジコチュウ」と呼ぶが、本来は、人は皆もともと自己中心的な存在として生れついている。

だだをこねる、とは「我」をとおすことのことである。
筋をとおす、もその人なりの「我」をとおすことである。
意思を貫く、も「我」をとおすことである。

人の話を聞く。
それは「我」を出さずに、じっと相手の気持ちを自分に置き換え類推し、おもんぱかることである。そうして相手の気持ちを汲み、わかってあげ、手助けできる人を「聞き上手」と言う。この「聞き上手」の心得を忘れると「我」と「我」のぶつかり合いだけになってしまい、人はケンカばかりをやってしまうことになる。

ひと時黙ってうなずき、あいづちし「聞き上手」になれるかが、人と人とが仲良く暮らしていける秘訣となるのだろう。死ぬまでこの「我」という「煩悩」をかかえ、人は修行し、「聞き上手」の達人になるように、と神様から道を課せられているのかも知れない。
人はその境地に立てない「暗愚」な存在である。勿論ワタシも。


女工となって

Dev.3,2005

12月2日よりOyazはサラミ工場の工員となった。
正月の餅を買うため、出稼ぎに出たのである。

その工場のパートさんはざっと9割が女性。
お昼をとるホールの椅子から察するに300人はいるだろうか。

それが皆、頭の先からつまさきまで、白い帽子とマスクと上下の作業着とズックに身をかためている。腕時計も指輪もピアスも、カットバンさえしてはいけない。
背の高い低い、ケツのでかい小さい、眼鏡のあるなし、以外はほとんどわからぬ白づくめの人間もどきが300人。

その300人が止まらない機械のラインに配置され、機械のできない部分に組み込まれている。
おおもとでサラミをよりわける者、
それがベルトコンベアに乗り機械が自動計量した分量を2秒間隔で次々と袋に受ける者、
その袋に乾燥剤を投げ込む者、
それをシールド機で封する者、
中身の偏った製品をのして平らにする者、
やぶれや製造年月日の不備がないかを検査する者、
そのラインの果てに最終者が製品を箱詰めにしてトラックにのっけている。
ラインは何本もあって、皆ただ黙々とおんなじ作業を、8時間繰り返すのである。
それも人間もどきの格好で。朝の8時から夕方の5時10分まで。

よくもまぁ、こんなに人間はしゃべりもせず機械の一部になりきれるものだ、と感心して異様な工場内の景色を時々見てしまう。
Oyazなんぞはただの1ヶ月だけの季節労働者。
ところがおばさんたちは飽きもせず、これを何年も続けてきたのだ。
白の上衣のそでに刺繍ネームがなければ名も知らず、顔も見えぬ300人の女工たち。

それをリーダーとか、主任とか課長、次長、工場長代理なんぞという、一握りの男たちが管理する。
「この世の中は男が支配しているようでナンカおかしいと思ったんです」と言う市民団体を立ち上げて活動している方の記事が思い出された。
なんで管理官はほとんど男で、工場の機械の歯車は女なんだろう、野麦峠の製糸工場の時代から、最先端機器の現代まで。

5時10分のブザーが鳴る。
女工たちが白尽くめから、普段着に着替えて色とりどりの格好に変身してマイカーで帰っていく。その姿は、ようやっと人間にもどったような、そこここに普通にいるおばさん、おネーさんとなっていた。


突き詰めたデザイン

Dec.2,2005

突き詰めると、えてして、つまらい、ごく普通、に行き着くことがある。

幸せってナーニ?・・・家族みんなが健康である
           ・・・きょうも一日、家族みんな、事故に会わずに、丈夫であること
           ・・・労働の後の一杯と家族とのゆうげ
           ・・・平凡

究極のデザインって?・・・素粒子、原始、ケヤキの繁み、卵、宇宙、すべて「球」

だから、ユニヴァーサルデザインとは、ワタシにとってはこの「球」のことである。

全ての究極の美しさには、必ずこの「球」状の曲線がともなっている。

そのごく普通を磨き上げた果てに、卓越したしかしシンプルな匠の伝統工芸品の感動、がそなわるのだろうと、今は素直にそう思える。


Flower Craft 

Dec.1,2005

山あいに河が流れており、その曲線になった浅瀬で少年たちは水浴びをしていた。
その奥には陽当たりの良い土手があり、遺跡万里の長城の断片のような壁が昔はそこにあったのだという。
そこから目の前にある民家の2階をつたい、階下へとおりていく。
そこは工房と展示室になっている。
先日来2度目にお会いする師匠がクラフト台にボクを招く。
こまい年輪を刻む硬く、しかし表面の木肌模様が鮮やかで繊細な木を削り始める。
グラインダーの音がまわる中でボクが尋ねる「素材はなんなんですか?」
「・・・」
「えっ?サクラですかっ?」うるささにかき消された答えを訊き返す。
「ツゲです」

「あっ~、そういえばお屋敷に大きなツゲの木がありましたもんねぇ・・・」「・・・」と
居合わせた女性客2人が、ボクたちを遠まきにしながらしゃべっているが背中に聞こえた。

立方体のガラスショーケースの中には、赤いつやつやの万年筆が飾ってあった。
美しい職人技の極みのようなその万年筆は、「3万円」なり。
そのほか、かわいらしい小さなミニチュアの自動車や乗り物が楽しげに精巧に作られており、それがきれいに展示されている。ああ、こういう世界もあったのだ、と鮮明すぎる夢を見ながら、ボクは思い出した。

「そうだ!民芸だ、職人工芸だ、クラフト、本物の質感だ!」とボクは起きてから直感的に思った。

もともと工作が好きなのであるが、今春会社を辞め、百姓見習となってからは、日々、ただ、夢中で、山で、畑で、花ハウスで、作業することばかりに明け暮れてきた半年だった。
ものづくりの肌合いや素材のもつオモシロさを加工して木目を活かした作品に作り上げる工程から、すいぶんと遠のいてしまっていたことに改めて気づく。

鉢花の栽培だって、ただの農作業や製造工場だけでは、味気もへったくれもないし、第一こんなにきれいなものを作り上げれるのだから、だた出荷して金取って終わり、ではもったいなさすぎる、とふと思えた。

ならば、○○園芸を「花卉工房○○」や「FlowerCraft ○○」と言い換えればいいんじゃぁないか、と思い至る。

今までにない、新しい花卉栽培工房のビジョンが少し、見えてきた今朝である。
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話す・聴く、授ける・受ける、作る・使う

Jan.31,2006

『蜆(シジミ)売り』の演目で桂福團冶という落語家が精彩なく高座にでてくる。
開口一番、「疲れはりまっしゃろ」
「・・・わてかてもう疲れましたヮ・・・40年もやってまっさかィ・・・からだが一番大事でっから、みなさんも適当に聴いてヤ・・・こっちも適当にやりまっさかい」
心もとなく弱弱しくも、風体も目鼻立ちも貧相でパッとしない、が、陰気なオカシミをかもし出していた。
チャキチャキの五代目志ん生が好きな東北いなか人は、この手の上方落語は、ハナから気乗りがしない。
つまらそうに、聴くでもなく、聞き流しす。

「アチャリィ~・・チジミッ!・・・・アチャリィ~・・チィジミッ!」12~13歳の坊やが凍てつく吹雪の中、蜆を売りにくる。
寒風吹きすさぶ川から採ってきた蜆を、ザルに山盛りにしたのを天秤棒でかついでいる。両のザルの蜆の山が雪をかぶって真っ白だ。坊ずのやせこけた手が、こごえ、かじかみ、ちじこまる。ハッーと息を吹きかける。耳が冷たいを通り越し、痛い。吹雪に目がよく開けられない。
「アチャリィ~・・チッジミッ!」
向こうに赤い火鉢を囲む大人たちの姿が障子越しに見える。
『あったかそぅャなぁー・・・・そや、あん人たちに、こうてもらおっ』
「オッチャンっ!ちじみコーテっ!」
「いらんッ!!」―――――(ピシャリッ)

・・関西弁の間、丁丁発止のやりとり、その調子に乗って、次第次第に話が活気づく。疲れて枯れていた始めの落語家はみるみるうちに名調子語りの講談師となり、力強く息づいてきた。何の道具建てもない舞台に、上手には天秤棒を担ぐ蜆売りの子どもが雪の中をはだしの草履姿で歩いて来、下手にはそれを買わん出て行けという大人たちのいきいきとした関西弁がまくし立てられる。十人も居ようという人情芝居が、たった一人の噺家の口車で、まるで眼前に浮かび上がるように見えてくる。その話し手・桂福團冶がもっているのは、閉じた扇子と手ぬぐいきり。

文字どおり裸一貫、ふんどし一丁、徒手空拳。落語家は、口とセンスと手ぬぐいだけで勝負する。それは俳句や短歌にも通ずる日本独特の文芸の一つといえるのだろう。柳生宗悦が民芸運動で言及した「器はそれだけでは8割しかできていない。食器も道具も使う人に使われて初めて完成する」に相通じるものがあるようにも思える。聴き手、読み手、使い手が、「参加して」はじめて成り立っている。ゴテゴテと装飾し、大道具・小道具を取りそろえて形作るのではなく、シンプルな道具建てのなかで「互いに心のやり取り」をして初めて成り立つ日本の芸。茶の湯、能、狂言、落語、俳句・・・肉体ではなく「心」、金をかけるのではなく「感性」・・・貧しくても絶えなかった日本の文芸とはなんだったのか、合点できそうな、そんな一席を聴いた。笑って、引き込まれ、そして最後に、ほろっと泪。

またひとりウソこぎバカニッポン人(バカポン)登場

Jan.30,2006

こんどは『東横イン』の西田が、ウソつき、偽装、ハートビル法・建築基準法違反である。
そのバカ社長の西田憲正は「車を運転していて60kmのところ67~68km出ていたが、ま・イッカ~って感じで」{部下がした}改造を認めたのだとTV記者会見でシャーシャーとふんぞりかえり経営者然としてしゃべっていた。「金で人の心も買える」と書いたゴーマンホリエも変だし、「オジャマモンならぬオジマモンと呼んでください」と偽装事件の渦中にいながらインタビューで一人はしゃいでいたバカも変だったが、今回の‘いい気になりすぎたシャジョー’も超、かっなぁり「ヘンっ!」である。

ハートビル法(高齢者と身障者が円滑に利用できるように基準を定めた建築促進法)では、ホテルには身障者用駐車場1台分以上と、身障者用客室を2室以上設備することが定められている。今回の東横インの横浜市中区に新築したホテルにはそれらを全て設備し、市の立ち入り検査も受け、営業許可がおりてから、その後すぐの改装だったというのだから、極めて悪質で意図して行った故意の重大犯罪行為そのものである。そういう意味では悪いこと・法に違反すると自覚しながら法を犯す最強タッグ‘ホリエモン&宮内リョージカルテッド’と姿勢はまったく同じである。そりゃぁわれわれ一般庶民だってスピード違反もすれば、ちょいとだけって駐車違反もしますよ、しますけれどもだ、それはその時その時の交通の流れに乗って逆に流れを損ねない「ハンドルの遊び」や「すんません、すぐもどりますからっ」ていう常識・良識の範囲内なのであって、今回のアンタの言う「67~68km出ていたが、ま・イッカ~って感じで」高齢者や身障者施設をとっぱらうのとは、まったく訳が違うのだ。これからますます高齢者がホテルのお客さんになろうというその矢先、われわれ東横インでは「高齢者と身障者はいりません、ほかのホテルにお泊まりなさい、ウチでは泊めません!!!」って日本中に振れ回ったようなものである。自分で自分の首を絞め、墓穴を掘ってしまった。アガスケ、増長、傲慢もはなはだしい、バカの骨頂を見る思いである。

思い返せばかくいうワタクシ、一度だけこの会社に願書を書き、山形駅西口店の支配人になろうとしたことがある。その時の求人広告には【90%が女性の職場です】ってわざわざ大きく但し書きが書いてあった。今にして思えば、それは【男性の方お断り!!!だから応募しても無駄よっ!】ていう、やはり、偽装まがいの求人広告だったんだなぁとわかる。今回の違法改造同様、はじめっから男子を採用する意図なんかさらさらなかったのだ。こんな求人広告の狡猾な表現方法ひとつ取ってみても、今回発覚した事件と、まるで経営体質がおなじだったんだ、と強く感じた。一度とはいえ、こんな不良な会社を選ぼうとしていた自分が逆に恥ずかしくさえ思えた。

いったい1億2千万人ニッポン人の何千万人がウソツキなのだろう?この先、あと一体どれだけ有名偽装社長は登場してくるのだろう。国土交通省は日本の全民間会社を一斉総点検してみたらいい。そして総務省は「ウソツキ国勢調査」でもしてみたらいい。結果は「総ウソツキだらけのニッポン人」「ジャパンイズウソツキ№1」だろうか。なさけなくも、下の下のゲまで、成り下がってしまったこのニッポン民族デアル、嗚呼わが祖国ヨ、である。
「♪カ~ネノタメなら~・エーンヤコーラぁー・モ し と っ おまけ-にィ~・・・」(NHKスペシャル・国宝:ニッポン金もうじゃ炎熱地獄図)

(^O^)人のもつ力

Jan.29,2006

週末、カミさんが病院から外泊許可をもらって戻ってきた。
来週から始まる抗薬点滴投与用に、鎖骨下にカテーテルを埋め込む手術を前日おえたばかりだった。
4cmの縫合キズを見れば、麻酔の切れたあとがいかにも痛そうだ。
痛み止めと睡眠薬を処方してもらってきていた。
朝、花やに出かける前にワタシはカミさん宛てにメールを送っておいた。「カテーテル埋め込んだ左胸痛くない?大丈夫っ?」
「うん。痛み止めの座薬をいれてもらって、睡眠剤も飲んだからよく眠れたよ。
部屋の人とも仲良くなって夜はおしゃべりをして、笑いあったし・・気を付けていってらっしゃーい!」

花やの仕事からあがり、2月1日から勤め始める老人ホームで打ち合せをし、そのあと病院にカミさんを迎えに行く。

家に戻り台所に立つ。19時になろうとしていた。すっかり腹がへってしまった。おいしいOyazのディナーを待ちくたびれた3人と2匹で夕餉の団欒を囲む。
末の娘の安心感と、ワタシのそれは当然にしても、
我が家の白ネコ君二匹も「いるべき人がいる」安心感を味わっているように、落ち着いているのに気づき不思議に思えた。
動物にも伝わっていたカミさんのもつ優しさや包み込むあたたかさ、自分たちをかわいがってくれる愛情、そんなものがこのネコたちにはわかっているようだった。オレには一度として来ないのに、カミさんにはチョコンと膝の上におさまる2匹だった。

ひと時の平凡でささやかな貧しい、だけど幸せな我が家の夕食風景。4人部屋のおなじように重い病気を抱えた、けれどめげながらも明るく快活な人々の話がカミさんの口から次々と繰り広げられた。3~4日いただけなのにこのカミさんたらもう1ヶ月も入院しているみたいに仲間に打ち解けているのがよ~くわかった。それが彼女のもつ長所のひとつでもあった。そのおんなじ悩みをもつ仲間に勇気と希望をもち、互いに励ましあったり泣いたり笑ったりする病院生活という環境が、逆に彼女を明るくしているようだった。身の回りをめんどうみてくれる1番接することの多いナースの皆さんたちも他病院とはまるでちがうスマートさと笑顔とあいさつが身についており、とても感じが良かった。この病院には名医がおり、快活な折り目正しいナースたちがおり、その雰囲気に包まれて自分たちも明るくなっていく病人と同じ境遇の仲間たちがいた。みな深刻で重大な病気を抱えた人々なのに、なぜか、日増しに、元気に、明るく、健康に、なっていくように、ワタシの目には見えた。人間の持つ「気」の相乗効果って確かにある、と考えていた。

『500分の1の奇跡』

Jan.28,2006

‘アメリカの良心’と言われる人:ノーマン・カズンズ、カリフォルニア大生物学教授。博士はある日、強直性脊椎炎という難病にかかる。原因が見つからない病気だった。遺伝子に問題があるんじゃないかと研究が進められたが、原因不明。その病気になると5%の人が急速に進行し、重度の障害を受け寝たきりになる。

主治医に、博士は治しようがないと宣告される。医療では治しようがないので、自宅に帰り寝たきりの生活を続けてくださいと、医者から見放されたのだ。それで博士は、毎日ベッドの上でただ天井を見つめる生活を送った。そうすると、友人・知人がだんだんお見舞いに来なくなった、あの博士はもうだめだ、一緒にいても何の役にも立たないと、どんどん離れていった。最後には家族にも見放され、愛していた大切な奥さんも去っていった、子供たちも。たった独りぼっちになった、そういう経験をした博士だった。

それから博士は、不治の病の宣告を受けたあとの自分の心の働きを、生物学的見地から自身で分析していく。そうしていく中で、彼はその難病から奇跡的に、どういうわけか、まさに奇跡的に機能を回復させてしまう。そして再び大学の教壇に立つのである。そしてまた、世界各国を回りながら、講演活動を始めた。しかしその後再び不幸が訪れ、心筋梗塞でまた入院し、ベッドの上の寝たきり生活を余儀なくされた。けれどもまたして彼は立ち直ってしまう。そういう「奇跡」の先生である。75歳まで生きた。

その「病気を克服する」自分を記録したのが『500分の1の奇跡』という本である。難病に打ち勝ったその奇跡をもたらす妙‘薬’とは、一体なんだったのだろうか?

それは、誰もがた易く手に入れることのできる、たった2つのものだった。
しかしそれは、病院の薬局では処方してくれない。
そしてそれは、何億円も持っている大金持ちが、買えないものでもあった。
むしろ金なんか一銭もかからぬ、それは、まさしくタダの「笑い」であった。人は笑うことで「心」や「精神」が活き活きとしてくる。すると自然と肉体までもが元気づいてくる。そのことに、その、人に組み込まれている奇跡の法則に、博士はこの時気づいたのである。

もうひとつの‘薬’も、それこそ種がこぼれりゃその辺にたくましく自生するパセリだった。細胞を活性化する働きのあるのは(ビタミンC)であるから、それを多く含む「パセリ」を食べれば、細胞の一つ一つが元気になるはず、と博士は考えた。「パセリ」を食べるだけで、人はレモンの数倍のビタミンCが摂れることも確認していた。

難病に打ち勝ったのは、たったこれだけだった。たったこれだけだったが、これで、「ブッラクジャック」も治せぬ病気を治してしまった。ノーマンカズンズは科学万能の時代に生きている我々に、人の原点:「自然治癒力」と「肉体をリードする精神」を考えさせつづける。

品格なきシュールブー:日本、この国の形

Jan.27,2006

20数カ国の外国を見た。その末に、自分は原点の「日本の百姓」に立ち返りたいと思った。

そう思うようになったのは、日本の南北に細長く自然の恵みの多様さ豊かさを持つ東の際のこの島に立っていると、四季のうつろう美しさ、肥沃な土の黒に緑のコントラスト、どこでも飲める水と川、樹木と山菜に覆われる山里、その向こうに連なる雪山の峰々、湿り気の多い空気と雨、その環境が織り成す人々の風情と情緒、それらが、決して世界のどこを探しまわろうとも見つからない、ふたつとない、希有な奇跡だ:と、ようやっと、今更、ボンクラ頭にも気づいたからだ。けれど、たいへん遅すぎる気もする。・・・まだ気づかないあふれかえる超ボンクラに比べれば、月とスッポンほど違って、マダマシなのかも知れないが・・・(「勝ち組・負け組」という拝金主義時代はまもなく終わりを告げる。その次に「文化的階層社会」が訪れる。金にとりつかれた「バカ」は絶対に「文化的階級」には決してのぼれない。そんな「バカと文化を隔てる壁」ができてしまう時代だとか)・・・この国の農業の滅亡に私の非力な参加が何の役に立つのかわからないが、やってみようを思うのである。・・・今日もどこかの百姓のせがれが、日本の田園風景からシャコタンでをさっそうと去っていく・・・(世界一美しい黄金の島の農業を見捨てて・・・ホトホト・・・文化的貧民であるっ、キミたち!!・・・「精神的シャッターガイ」と呼ばれるゾっ!!)・・・涙が出るこの国の「バカ」の形。

「汗」をかいて「心」をつくせよニッポンジン

Jan.26,2006

23日夜ホリエ逮捕。
24日朝刊朝日新聞1面‘極秘で捜査’「・・・昨年4月、大鶴基成特捜部長は就任記者会見でこう強調した。額に汗して働く人が憤慨するような事案を困難を排して摘発していきたい」。
故後藤田正晴のような一徹親爺がまだ日本の特捜部にはいた。

人間「金」じゃぁない。
「頭」じゃぁない。
「汗」である。
「心」だ。

時価総額7000億円まで稼ぎ上げたマネーゲーム世代の象徴的な男ホリエは紙面トップに踊り出て、逮捕されて、あっというまに自家用ジェットのベッドからブタバコの煎餅布団に入れ変わった。まるで「王様と乞食」ゲームの主人公だ。「ネットで世界一の会社になる」と豪語していた若者。世界一の大富豪にまで登りつめた西武の堤義明もそうだった。「金のもうじゃ」の顛末とはいつもこうなのか?あれだけ騒いでいた世間が、もうホリエモンのことも堤のこともヤオハン会長のことも、誰も口にしなくなった。

人生、明日は何が起こるかわからない。
半世紀近く生きてきた私たち夫婦にもそれは突然来た。
昨日まで元気にしていたと思っていた妻が、実は病気を病んでいた。
こんなちっぽけで、金のない、つつましく、平凡な、普通の家に、なんでこんな大きな試練が突然投げ込まれなければならなかったのか。
本人にも家族にもあまりにも大きすぎる困難に思われ、みな「事実を受けとめる」だけで精一杯で、青息、吐息で、本当はいまだに力が入らない。

「そこを乗り越えろ!」と神が備えた壁。しかしなぜそんなにも高いハードルを準備した?
「おまえ達なら乗り越えられる」とでも言うのか。
乗り越えられるからこそ与えられた‘試練’だと言うか。大きすぎる残酷な試練だ。
貧しくも美しく燃えよとでも言うか。
全く人生の折り返し点に、私たちは待ったなしに立たされた。
ふたりともタイムリミットに向って前向きに明るく「汗」して「心」を尽くして生き抜くだけだが、頭でわかっているのと実際は違うのだ。時々、なかなか力が入らず、威力が、踏ん張りが、効かない。もどかしくも、そこにある物が、手が、指が、こんがらがって、取れない。


現実を事実と受け止め、明るく生きる

Jan.25,2006

人間の価値は「お金」ではなく
人の人生の豊かさは「出会い」に依るのだ、と思うようになった。

突然、ニョウボは重い病気をかかえていることが告げられた。
予定していた手術が当面見送られ、抗薬の点滴療法に変えることとなった。

インフォームドコンセプトのための説明が、主治医からあった。
冷静に、ゆっくりと、しかししっかりとした口調と論理で、その先生は我々に語られた。

重い現実で、逃げられない事実にニョウボは思わず涙した。
事は一段と深刻な事態にまで及んでいることをふたりともよく理解した。

原因細胞が全身にまわっていること、局所を摘出しても生存率に変わりはないこと。
ならば抗薬投与をまず行ってみて、薬が効くかどうかを確かめてみるほうが良いこと。

ワタシはキリスト者であり、祈る者であり、念仏も唱え、お不動様にも頭を下げる。
そのワタシとニョウボと我々家族に「なぜ?この試練?なぜ今なんだっ?」と、天の采配の無慈悲と残酷さを恨んだり嘆いたりしたいところだが、今は不思議とそうは思わない。

それはあらたなドクターAとの「出会い」があり、彼に任せよう、という信頼が我々に芽生えているからに違いないと思った。事は重大・深刻だが、先生はまっすぐな目で、淡々とした中にも余裕とあたたかい笑みをまじえながら話してくれた。何十何百という病人と家族に、いつもこの先生は逃げることなく向き合ってきたのだと思った。落ちこむ当人と家族に、真正面から真剣に面倒くさがらずに、手を抜かずに、時間をかけて根気よくお話をし、そして納得と信頼の上ではじめて彼は処方し、オペを行ってきたのだ、とよくわかった。その誠実さが伝わってきた。彼に任せよう、とふたりとも思った。

ニョウボもやっとふっきれたように、腹をくくった。
あとは明るく、気長に、あせらず、病気と付き合っていくだけである。
「ニョウボも、そしてこのワタシもどうかあと十年、生かしてください」と祈るようになった。



数年ぶりの休肝

Jan.24,2006

23日、妻を病院へ送った。
今日から娘とふたりっきりである。
娘もさぞ心細いだろう。
花やから夕方もどる。
電話が鳴る。
おとといドタバタと蔵王の麓を駆け上って受けた就職面接先からの採用の知らせだった。2月からは、夜勤に入る。
朝あらかじめこぬかで下茹でしておいた雪堀り大根に、練り物を加えて味付けしたアツアツのおでんを一品。
サンマを三枚に下ろし、娘用に片栗粉をまぶしてソテーにし、あとはネコ君とOyaz用の焼き魚ができた。
頭も骨も出刃包丁でこまかくしてあげ、やったのに、猫たちはいつにもまして食べても食べても「腹へったコール」をやめない。
そんな、めずらしい、ふたりと2匹の静かな夜。
いまごろ妻は味気ない病院食を食べているのだろうと思った。
一人、酒を飲んでも、虚しかろう。
お笑い見ても笑えぬだろう。
大酒飲みが酒をやめ、ニョウボの好きな琴欧州をまね、ヨーグルトを食べて、寝た。
外は静かに冷たく、雪は降っていた。

ゴドーを求めて

Jan.23,2006

スーサイドする人は突然死んだ訳ではない。
雨が石を長年穿ち穴をあけるように、自殺者も長年の蓄積の果てに果てるのだ。
と、不条理をえがいたカミユは言った。

何の変哲もない貧しくも時折笑い声の聞こえる平凡な普通の人々の日常が、
「あなたはコレコレという病気です」と宣告されたばっかりに、
きのうまでとは全く違った心持ちとなり、世の中が全く異なる世界に見え出し、人格が変容してしまったかのごとくになることがある。

東京のオジの訃報がきのう届いた。
腰が悪く買い物にもいけないそのつれあいが、子もなく、言葉どうり「天涯孤独」となって一人この世にとり残され、狼狽していた。

亡くなったオジの弟は、1週間前、盲腸が破裂し腹膜炎を起こして入院していた。
だからアニキの葬式には出られない。代理の奥さんも足が悪く、アルツハイマーで出られない。一人残され、オロオロしていた。

アルツハイマーの母親を仙台にいる息子の嫁さんが埼玉まで迎えに来た。
つれあいのダンナが退院するまで面倒を見るためだ。その息子夫婦の次男は自閉症だった。嫁さんは来月子宮ガンの摘出をする。

大学の友人が最愛の奥さんを昨年突然亡くした。独立開業した矢先のことだった。それでも彼は毎日朝から晩まで仕事をこなした。レジには奥さんと友人が仲良く立って客を迎えるはずだった。そこに今は自分一人だけが立ち、そして1年が過ぎた。

その彼からハガキが届いた。気丈な文面だった。でも心が寂しさと空虚で充満しているのが自然と伝わってきた。サミュエルベケットの『ゴドーを待ちながら』を思い出していた。







急転直下

Jan.22,2006

おととい接骨院に行って来た。
昨年12月の1ヶ月だけバイトしたサラミ工場で痛めた左手親指の軟骨らしきものがポコリと突き出たからだ。亜脱臼ぐらい放っておけばそのうち治る、と思っていたが一向に力は入らず、カクンカクンと第1、第2間接共に音がする状態のまま一月がたっていた。診察結果は「腱の亜脱臼」。マッサージし、電気をかけ、テーピングで固定した。親指の腱も、右手中指のそれも使いすぎが原因だという。荒廃した畑の開墾、サラミ工場でののし方、いずれもこのいずれもこの手この指が働いてくれたおかげの“名誉の勲章”には違いなかった。

昨日、老人介護施設の夜間宿直のバイト採用の面接に急遽出かけた。
10日の勤務で、月70,000円になる。
夜勤といっても仮眠もできる。
日中はほかの仕事ができるし、
泊りこみだから、禁酒もできる。
無収入の続く今の状態で、少しでもお金の補充が必要だった。
早晩、銀行口座はマイナスになるだろう。
「餓死して死ぬほど今の日本で難しいことはない!みな何かしら働いて食べてたくましく生きているんですよ、だからあなたも・・・」
ラジオから聴こえていた人生相談コメンテーターの言葉がふと思い出されていた。

妻にそのことを報告する。
中2の娘を夜ひとりにする気か、と意外なことに詰められた。
今の妻と争いごとはしたくなかった。その話は一方的に、こちらからよしにした。
逆にいらぬ心配をかけたと話したことを後悔した。
なんでも正直に話してはいけない場合もあると自覚した。

介護施設はスキーのメッカ蔵王の麓にある。
きょうは急な面接で、たまたま車がなかったので、腹をくくって、雪道に自転車を飛ばし、背広姿で山道をドダドダとかけのぼった。面接時刻にギリギリ間に合い、氷点下の空の下汗だくでかけこんできた百姓面の男に面接官もあきれ顔だったことだろう。終了後、急いで帰宅。2時間半が過ぎていた。外はとっぷり暮れていた。久しぶりのクロカンに両太ももが悲鳴をあげていた。無性に泣きたい気分だった。世の中が真っ暗に思えた。


水が浄化され貝が生きかえり誤診が減る

Jan.21,2006

 「マイクロバブル」という革新的技術装置があることを知り、そんなにも養殖漁業で有効なら、施設農業にも応用でき、相当有効になるに違いないと、ピンと来た。

・・・「ホタテの貝柱の品質向上が得られた。これは食べてみるとすぐにわかったが、マイクロバブルのホタテは、やわらかくておいしく、グリコーゲン含有量が増加していた。ここでの壁は、カキと同じように、その成長促進と体質改善の原因を解明すること、とくに、水槽内実験で行ったホタテ体内の金属物質の除去問題の検討であった。・・・成長促進、とくに稚貝の成長促進が著しく、その程度は、従来の養殖期間を半減させるほどのものであった。すなわち、2年かかる養殖が1年でいけるほどの成長促進が得られた・・・」

これだけ読んでも、ただならぬ「魔法の薬」が使われたのかと思ってしまう。ところが、それが私たちの周りに普通にある空気の「泡」なのだと知り、一層、ビックリした。

そしてもっと驚いたことは、「マイクロ」だとか「ナノ」だとか呼ばれる域まで達すると、何ミリかを境に、「泡」同士が合わさって次第に大きくなって行くのとは反対に、「泡」がどんどん分化して益々小さくなる性質を持っているということ。これは、宇宙で起こっている「爆発」の逆の「爆縮」に似ている。星が合体を繰り返しある大きさを超えてしまうと重力世界に存在すること自体が不可能となり「爆縮」が起き、ブラックホールになるというあれである。

その夢のような万能泡は、さすが「強欲ニッポンジン」、すでにいろんな分野に応用し金儲けに役立てられていた。工場廃水の浄化装置、牡蠣・ホタテ養殖の有酸素泡装置、美肌泡風呂、銭湯の除菌装置、農業用潅水装置などなど。そして何よりも画期的な最新の応用のひとつが、超音波装置に映し出される断面図を従来よりも倍以上に鮮明に映し出す「血液投与剤」に使われ、実用化されたことである。このことにより病院での超音波診断による「誤診」が格段に減少するだろうといわれている。

勿論、そんな技術とが別個に、普通の平凡でつつましく小さな幸せを守っている庶民の生身の人間である我々は、ひとたび身近な大事な家族に何かがあれば
「どうか神様、誤診であってくださいっ!」
って、逆に切に
誤診を
願って
やまないのであるが。

特捜のキレモノが怒った

Jan.20,2006

一足飛びに儲けを出して、巨万の富を得る者が居る。
彼らを見ていると毎日コツコツと働いてあっという間になくなる給料しか得られない者は、腹が立つなら、愚弄された気がするやら、馬鹿らしくなるやら。

数年前『金持ちとーさん貧乏とーさん』という本が日米でベストセラーになった。
その現象が象徴するように、少なくともアメリカ人と日本人は、「金持ち」=幸せ(勝ち)という価値観を持つ人が相当数にのぼるのだとわかる。

そうして今回の「第2次株式バブル」である。今回の景気は明らかに「バブル」だ。
PCから携帯から、手軽に株式や先物に売買注文できる「ネット取引」がひろがっている。それは、我々ごく普通の貧乏人一般大衆が、携帯電話を(ワタシ以外)みんな持つようになったように、みんな一攫千金をモクロミ、ネット取引に参加しだしている、ということである。だからこそ、最近の株や相場の動きが過剰反応し、上下にジグザグに揺れるのである。ホリエが買うそうだと聞けばホリエの買おうとする株に便乗し、殺到し、アレはウソだったそうだと言えばマズイマズイとオロオロと「狼狽売り」して大損をするはめになるのである。それもこれも一般庶民個人投資家が生半可な知識とニセも含めた情報に始終耳をそばだてながら、せっせとせわしくピコピコと何万人もが1分1秒をきそってネット取引をくりかえすために起こっている現象なのだ。腰のすわったまっとうな投資家はガタガタと「狼狽売り」などはしない。プロなら、本当に社会に貢献する会社であるのか、将来性ある会社か、環境に配慮した会社か、普通の庶民の平凡な幸せな毎日に寄与したいと考えている社長かどうか、ちゃんと見て、投資先を決めて、十年後の成長株かどうかを選定しているのであるから。今の一般大衆にわか投資家の9割はいずれ大損をして市場から去っていくだろう。10数年前にバブルが一気に崩れた頃のように。そして今回の破綻が来るのは前回と違ってもっともっと早いような気がする。それは以前のにわか投資家は、ある程度所得のあるおとっつぁんやOLたちだったのと違い、今回の墓穴組は、金のない若者たちが多いからである。みんな第二のミキタニやホリエを夢見て、金持ちとーさんを気取っている。けれど残念ながら間違いなく9割は失敗し無一文になって「更なる貧乏とーさん」に生まれ変わることだろう。

そもそも我々一般大衆と六本木ヒルズ族を一緒くたにすることからして、まずスタートが間違っている。彼らは極悪人だが、やっぱり、庶民とは違う頭脳の持ち主なのではある。ハーバード大出であり、東大出であり、書棚をまとめ買いする・百科事典を読破してしまう・六法全書とプロの税理士の知識を持つ、並でない頭の良い連中なのである。ただ「心が貧しい」のだ、いやしいのだ。まだ人のしていないことをやったり、人が気づかないうちに儲ける盲点を見つけ出したり、抜け道を見つけたりすることが得意に思う頭でっかちのこまっしゃくれた生意気なガキなのである、百姓から言わせてもらえば。だからこそ、こんなOyazと気持ちを同じうする東京地検特捜部のある「キレモノ」がきっと動いたに違いないのである。

「ホリエー、今回は『想定内です』なんてぁ言わせんゾッ~!特捜にも東大出のビッガビッガのキレモンが居ることを思い知らせてやる。ナメンナヨッ小僧っ!」
そんな凄みが聞こえてきそうな、天下国家あげての獄門ホリエ召し取り物語だ。


戦後現代史は悪行史

Jan.19,2006

 37年前、北九州市の米ぬか油製造会社「カネミ倉庫」がカネミ油症事件を起こした。米ぬかぬか油にPCBが混入、熱せられたPCBは猛毒のダイオキシンとなり、それを人が口にしてしまった事件だ。「ダイオキシンを食べた」歴史上例のない最悪食品公害事件である。過去に数々の人間人体実験まがいの重大犯罪をおかしてきた同じ我々日本人は今日も、こりもせず、会社ぐるみで犯罪を犯しつづけている。そんな大人を見ている今の日本の子どもたちがどうして良い人間に育つっていうのだろう。育つっ訳がぁ無いだろうっ!!!!て大声で叫びたくなる、悲観する、ことがある。

<カネミ油症事件>
1968年に九州を中心に発生した米ぬか油による集団食中毒事件。カネミ倉庫の米ぬか油製造工場で脱臭のため熱触媒として使っていた鐘淵化学工業製のPCB(ポリ塩化ビフェニル)が食用油に混入したことで発生。カネミ油症となった母親から生まれた子供も胎児油症となり肌の黒い”黒い赤ちゃん”が生まれた。ダイオキシンを食べた人は体のあらゆることろが侵される。カネミ油症は究極のダイオキシン被害である。

<チッソ株式会社の水俣病事件>
高度成長期の企業優先・工業優先の「日本株式会社」が犯した象徴的恥ずべき・悲惨な公害事件である。
1932年日本窒素肥料株式会社水俣工場(現チッソ株式会社)がアセトアルデヒドの生産を開始し、1941年まで無処理のメチル水銀を熊本県水俣市の水俣湾に排出していた。そのメチル水銀は水俣湾内の魚介類で「食物連鎖」により濃縮され、沿岸住民がその魚介類を食べて有機水銀中毒になったのである。「食物連鎖」による濃縮で最も毒物が溜まる部位は卵巣である。重度の障害を負った赤ちゃんが生まれた。

<森永ひ素ミルク事件>
1955年6月頃から8月にかけて、近畿地方以西の西日本一帯で、乳児の奇病が発生した。「人工栄養児に奇病!原子病に似た症状」「ドライミルクの恐怖、各地に死者続出」と新聞がいっせいに報道した。被害児数は12131人、死者は130人(1956年6月現在)にものぼった。被害者が乳児であり、被害も大規模なものであったことから、人類史上例を見ない悲惨な事件となった。守る会は、森永製品の不売買運動を国民に呼びかけるとともに、民事訴訟を提起して闘った。不売買運動は燎原の火のごとく広がり、裁判も世論から大きな支持を得て、森永乳業はついに謝罪した。

<今現在も日本で進行中の野菜殺人事件?>
フリージャーナリスト宇佐見利明氏は専門誌『農業経営者』第27号で【硝酸塩】の多量摂取の危険を警告している。
宇佐見氏は、長男のアトピー性皮膚炎を改善させようとして、大手有機農産物宅配会社の会員となり、「有機野菜」を購入していた。しかし、【硝酸塩】の危険性を知らされ、自分自身で測定してみると、コマツナに1kg当たり、16000㎎の硝酸が含まれていた。東京都が20年間行ってきてデータをつい最近まで隠していた「野菜の残留農薬等の検査結果」と、奇しくも、宇佐見氏が測定したコマツナの検査データが一致した。
宇佐見氏が検査したコマツナは、青汁にして飲んだ場合、1日でコップ1杯(180㏄)で中毒症状を起こし、コップ2杯以上で死亡する危険性があった。仮に有機肥料を使っていても、必要以上に有機肥料を土に投下すれば土中に「窒素成分」が大量に混じり我々が口にする「野菜に硝酸が残留する」のである。

1990年代以降、環境ホルモン(内分泌撹乱物質)が注目されてきたたが、野菜に含まれだした【硝酸塩】は、環境ホルモン同様、子や孫の世代まで悪影響をもたらし、現に我々が買い物に行くスーパーの棚に、そして我々の食卓の目の前に迫った危険なのである。

日本人はいつのころからなのか?どう考えてもおかしくなった。
今日も、アネハが、オジマが、ホリエモンが、TVをにぎわせている。


ブドウ園主からの手紙

Jan.18,2006

 つい最近、ぶどう園の持ち主に手紙を書いた。
「この春をもってお借りした旧ブドウ園と野菜畑をお返ししたいと思い、早めにお知らせする次第です。趣味では、農業で食っていけないことが、ド素人にもやっとわかったからです。今年からは水田もお借りしたいとお願いしておりましたが、それもできないことをご容赦ください・・・」

 「お手紙拝見しました。水田も耕作すると言っておられましたので、種籾をどうしようかとちょうど考えていたところです・・・荒れた葡萄園を一生懸命草刈りし、苗を植え、頑張っておられる姿を感心して見ておりました。百姓は昔から草との戦いだと言われておりますが、作物も雑草も自然も恵みの中で精一杯生きています。また虫も鳥も光も雨も風も、人間の自由にできるものではありません。そして自然は美しくもあり、残酷でもあります。そんな自然と一体になって生きていければ本当に幸せなのですが、生活していくには非常に厳しいものがあるのです。農作物が商品として売られお金を手にすることは並み大抵のことではありません。・・・逆に、あなたに、荒れた葡萄園に無駄なお金と労力をかけさせてしまったのではないかと心苦しく思っています。・・・畑を返すこと、気になさらないでください。春になったら、またワラビを自由に採りにきてください。そして子育てが終わって、また耕作ができるようになったら、いつでもおっしゃってください。それまで健康に気をつけて、ガンバッテ・・・」

 ワタシは思わず泣けてしまった。心で手を合わせた。百姓をやった人だからこその思いやりあるお言葉をかけてもらった思いがした。そして10年後、またこの人のところにブドウ畑を借りに行こう、そうオモッタ。

 

人間が作り出した毒を食べる人間が作り出した菌

Jan.17,2006

 京都大学の村田幸作教授が、ダイオキシンを食べるスーパー細菌を作るのに成功した記事を読んだ。これまでもダイオキシンを分解する菌はみつかっていたのだが分解速度が遅くて有効ではないと取り上げる人がいなかった。村田教授らのグループはその菌にバイオ技術で別の細菌を組み合わせ、ダイオキシンの分解速度が2倍になる新種を作りあげたのだという。

 この世に、人間が原因で、バラまいてしまった、それも土に還らぬ、悪い意味で安定した、人工物質が3つある。ダイオキシン、PCB、DDTの有機塩素化合物だ。人間が「進歩」だ「便利」だと勘違いして大量に作って売ってきた、今現在も売っているビニールやナイロン、ポリ製品、農薬、枯葉剤など。それらを作り出す過程や使用中、焼却時にそれらはこの地球に放出され、循環の中で、知らず知らずのうちに我々人はその化学物質を体内に取り込み、病気になっている。癌、皮膚病、奇形、生殖矮小などの原因として、これらの化学的人工物質が原因ではないかと疑われてきた。人間が自分の自らの手で、自分自身の体を蝕み、その子や孫の末代までその環境を引き継がせる悪行を犯してしまったのだ。まさに因果応報の極みである。滑稽なほど間抜けである、金儲け・科学万能現代人。

 わが国では、ダイオキシンの約9割がごみや産業廃棄物を焼却する時に出ると言われて、平成9年12月から、大気汚染防止法や廃棄物処理法によって学校の焼却炉の使用や野焼きが禁じられ、町や民間工場の大規模焼却施設の煙突から出るダイオキシンの対策が始まった。

 ダイオキシン、PCB、DDTの有機塩素化合物と、は虫類や鳥類の卵の孵化率に相関が見られたとの研究報告もある。ダイオキシンは脂肪に溶けやすいので、脂肪分の多い魚、肉、乳製品、卵などに含まれやすくなっている。食生活の違いから、わが国では魚から、欧米では肉などからの取り込み量が多くなっている。いずれの国でも、体への取り込み量の7~9割程度は魚、肉、乳製品、卵に由来しているという。

 野菜については、根から水を吸い上げることによってダイオキシンを濃縮することはあまり考えられないとされており、魚、肉などに比べれば、野菜から取り込まれるダイオキシンの比率は低い。

 ダイオキシンがひとたび体に入ると、その大部分は脂肪に蓄積されて体にとどまる。ごくわずかな量が、分解されたりして体の外に排出されるが、その速度は非常に遅く、人間の場合、半分の量になるのに約7年かかるそうな。

 ダイオキシンは、廃棄物の焼却炉など、物を燃やすところから主に発生し、大気中に出ていく。大気中の粒子などにくっついたダイオキシンは、土壌に落ちてきたり、川に落ちてきたりして土壌や水を汚染していく。さらにプランクトンや魚に食物連鎖を通して取り込まれていくことで、生物にも蓄積されていく。それを取って人間は毎日食事をしている。そうしてやがて病気になる。これがこの世の「食物連鎖」の典型である。PCB、DDTに関するこの「食物連鎖」による人間への悪影響を本で読んだのがもう30年前になる。その後、PCB、DDTよりも更に始末が悪く猛毒性物質ダイオキシンが確認され、騒がれたのはTV、新聞で衆目の知るところである。日本人は30年前から更に「進歩」したのか?


天と地と人の理

Jan.16,2006

物理。成績2。
物理、それは物のことわり。
この現世の自然界の法則のことであった。

ワタシは歩く。
家から駅まで1時間。
歩いて、往復2時間かかる。時速5km/h。
物理では、その距離およそ10km、とわかる。


長女が昨日帰省した。
東京から山形まで3時間。
新幹線で帰ってきた。時速120km/h。
物理では、その距離およそ360km、とわかる。

わかっちゃいるんだが、不思議に思う。
ワタシがウチから駅まで3回歩いているうちに
娘が雪のない人間ごっちゃごっちゃのあの東京の雑踏から
テンコ盛りドガ雪に埋もれるこの山形に着いてしまっていることを。
タイムマシーンにでも乗ってきたかと、不思議に思う。

オレみたいなド素人が、いまどき鍬だけで畑を耕す。
土の成分さえ知らない。化成肥料は、もっていない。
貝を潰してまいた。埋もれ木や枯れ草の灰をまいた。
こんな菜種の粒が、ホント-に物になるのかと訝った。
暑い日差しの中で芽は覆土を破り、空中に顔を出す。
一粒の種が見事なネギとなり大根となり大きくなった。
この現世の自然界の法則のことである。

手塩の畑を捨て、凛として

Jan.15,2006

「COCO FARM&WINARY」というワイン農場レストランが栃木県足利市にある。その完熟ブドウを使った芳醇な味わいの赤ワインがすばらしいのだと、テレビで一流ソムリエが口八丁で(何と言ったかは忘れたが)紹介していた。それをOyazはちょうど1年前に見た。そして、すぐにインターネットで調べた。

経営しているのは川田さんという随分年配の、強欲そうではないオーナーだった。聞けば、私財をなげうって「こころみ学園」という障害者施設を開設していた。傍らでは、遅すぎた経営者「川田」と嘲笑されてもいるのだとか。

ブドウを育て管理していたのは、その学園で学び・働き・共に日々暮らしている老若男女の「Charenged」たちだった。そのことを知ってワタシは正直、大変、ショックを受けた。そもそもオーナー自身がどっかの施設に厄介になっても不思議でないそんなヨボヨボの爺さん、である。そして、障害を生まれ持った何十人もの人たち、である。彼らが、未開の山を買い求め、そこを北海道じゃァあるまいし斧・鉈・鍬・鋤で人力で開墾し、何千本ものブドウの苗木を一本一本手で植えていき、それからその実のなる4年後をじっと待ち続け、やっと収穫にこぎつく辛抱をしてきたのである。それから、ようやく一丁前になった葡萄の実をみんなで取って、集めて、斜面から一輪車で運び、下り、ころげ、して、ワイナリーに運び込み、そんな苦労の結晶をしぼり出し、押して踏むづけ、重石をかけたのである。濾過した果汁を、寝かせ、大気に漂う菌を頼りに発酵・熟成させ、ただ流れる時間の中でじっと待って来たのである。その生徒たちが、4年間待ちわびた、ようやっと収穫できたブドウをもとに、ついに完成したいとおしいまでのワインをていねいに瓶詰めする日が訪れる。そしてそれにラベルを貼って第1号を世に出した時の感激とはいかばかりだったのだろう。手塩にかけた自分たちの葡萄酒が、手づくりのワインが、少しずつ売れ始め、次第に時代とともに評判が評判を呼び、ついに「COCO FARM&WINARY」 というブランドが知られるまでの地位に高まり、育っていく。ここまでに至る、なんとも気の遠くなる、「Charenged」たちと園長らの日々の地味な労働の積み重ね、その収穫できた・買ってもらえた時の喜びや歓喜。そんな八百万もろもろの物語を想像し、ワタシはショックだっだ。そうして、ちっちゃくていいから、似たようなことはできまいかて漠として憧れを抱いた。

そうこうするうち、そんなことも頭から消え去り、日本サラリーマンのノルマとストレスの日々はまた疾風怒濤の如くおとずれた。もう20年近く営業を続け、疲弊し、ついに会社をやめるまでに企業老戦士はオンボロボロリンと追い詰められていく。正念場だと腹を決めた。48という若さで辞表を出す。体と心が完全にボロ切れになる前に、やめようと決心した。しのこしたこともあった。「晴耕雨読」と「絵を描くこと」だった。未完だった。

それから、「Matilda Club」仲間の有り難い知己を得て、旧ブドウ園を借りることとなる。こうして百姓Oyazの、2反部ばっかしの、放置され荒れ放題の葡萄山開墾は始まったのだった。再び思い出していた「ちっちゃなココファーム」を作ってみたいと。

 1年前、その山は一面、プラスチックのような山笹の群生と茫々たる雑草と頑強なツルでびっちりおおわれていた。刈っても刈っても広がらない雑草畑に、全身汗まみれ、草息れでモウモウたる中、呆然とすることしばしばだった。傾斜25度の、デコボコの斜面を、足に自信の元スキーヤーが、往復してふらつく。同じ斜面を隣の70歳農夫がひょいひょいとのぼりおりしている。簡単そうに始まった2反部開墾だったが、十年前に潰れ毎年の雪に埋もれつづけたブドウ棚の栗の木と、縦横に張らめぐらされた・雑草に埋もれ・隠れて見えない赤さびた針金の何百本かを一本一本をとりのぞくことに、草取り鎌は、いつしか大鎌となり、営林署の下草刈り用巨大鎌となり、とうとう大嫌いな農機具屋の電動草刈り機にいたる。それでもなお、笹とツルと雑草との、刈る生える刈る、のいたちごっこに、大の大人のこの男は、一人力でなんとたっぷり4ヶ月もかかったしまった。そして4度目の草刈りを終え、ようやく生い茂る勢いも終息し、まわりに秋色の枯れススキが舞い、ようやく人も入れぬ雪山に静まりかえった今の銀世界。去年の4月に遠くまで買出しに行き求めた20本のデラウエアの1年子の苗は、盛夏に「産めよ増えよ」とガンバッタ・カナブンと茎食い虫たちのカッコウの御馳走となり、喰われ、侵され、変わり果て、半数になってしまっていた。

それでも、山の斜面にたたずみ、のぞめる真正面の蔵王も、自転車で帰る道々見える奥羽連峰の連なりと、北へ西へと続く葉山・月山・湯殿・羽黒の山並みが、雄大にして、壮麗な景色だった。ワタシの目と心は満足していた。気に入っていた。

その一方で、やろうとしている農業では「日本では食ってはいけない」とささやかれ、「無農薬栽培」では市場価値の無い・売れないしろものだ、と身をもって理解した。

まもなく、新たな春がまた来る。近々に、ワタシは決断しなければならない。ホントーにこれから、実際、何で「食っていくのか」を。一人力では、悠長に山で草刈りでございます、同時に花農家で勉強を続けます、金はないので夜な夜なバイトもこなします。なんぞという、スーパーマン離れ技は到底不可能であることは、物理的・時間的にも、明々白々だった。1年やってみて、それがよおっ~くわかった。そんなOyazに、もはや、3兎は無論、2兎を追う余力も才覚もないのは明らかだ。残された道は、それも期限付きで、背水の布陣で、必ず1兎をしとめる、マタギのような真剣さと神聖さだけである。手塩にかけた汗水しみこんだ「ちっちゃな夢」の遊び場を、ワタシはこの春捨てるだろう。「食っていける」仕事を、死に物狂いでするために。

工場で作られ始めたゾ、米も野菜も

Jan.14,2006


◆植物工場で栽培される野菜
完全制御型植物工場では、完全無農薬、新鮮で栄養価の高い野菜を、狭い土地で大量生産することができる。
 植物工場では環境がクリーンに管理され、水耕栽培なので土壌を使用しなく、また、農薬を使わないため、細菌の数が非常に少ないので、洗わずにそのまま食べることができる。あるいは水をさっと表面にかける程度で料理をするか、葉菜類についてはそのまま食べることが可能。いずれにせよ料理の手間が大幅に省け、水道水の経済化がはかれる。
 肥料の管理も行き届き、環境条件を好適に制御しているので、ビタミン含有量がとても高い。販売店までの運送が迅速に行なわれることにより、新鮮な状態で消費者に届けることができる。

◆植物工場実用化の動き
 野菜の栽培は工場生産の形を取るので、季節に関係なくいつでも旬な野菜を提供できまる。さらに生産調節ができ生産性が高いという特徴がある。市場の予測により、計画生産が適確に行なえるといったことが植物工場製品の大きな特長といえる。いま実用化が進展しており、必要な技術をもっていれば商用化寸前のところまできている。近年、有機農産物に人気が集まっているが、生産物の総合評価では「工場生産物」の方が一般的には優れていると言える。

◆インテリアにもなる花の栽培
 試験管のような容器の中で、組織培養により花を咲かせるということも可能になってきた。高品質に花を保持することも組織培養技術の特徴で、インテリアとしての利用も考えられる。造花と比べても本物であるという事実がなによりもうれしく、光源に発光ダイオードを用いることで、夜間には花と光のコントラストが楽しめる。

 こんな野菜工場やオフィスビル水田なるものが日本に出現し始めている。
たとえば鉄鋼会社のFJEは7年前から野菜の水耕栽培の研究に取り組み始め、実用化し、すでにスーパーに卸し始めている。たとえば人材派遣会社のパソナは、昨年2005年に東京大手町のオフィスビルB2Fに農場をこさえ、太陽光に近いランプを照射して、室内で水稲を無農薬栽培し、先日稲刈りをする様子がニュースで伝えられた。そのほか、赤色の発光ダイオードを照射してレタスを育て、今冬のような野菜品不足による高騰などない、安定価格の作物を一年中店頭に供給している例もある。

いずれも、共通点はみな、太陽の光を見なかったり、土を使わなかったり、従来の農場で作る農作物ではなく、工場・ビル内育ちだというこうだ。「日照」にかわる「光」を、日本人は人工的につくれるようになった、とでもいうのか?水の成分をコントロールするだけで作物の栄養化を自在にできるようになった、というのか?自動車やICチップをつくるように、生き物をオートメーション制御の工場で大量安定生産できるようになった、と。

解釈しながら、百姓1年生は、うろたえ、躊躇する。そして、どこかがおかしく、どこか人間の傲慢な臭いがし、金勘定の打算が読み取れる事例を見ながら、そっと眉にツバをつけた。

妻と家族と、この人生

Jan.13,2006

妻の49年の歩みを振り返ってみる。彼女は19歳でワタシに出遭い、ふたりで大学を過ごし、就職1年半後には結婚、見知らぬ山形の地で辛苦をなめながらも、めんごい3人の娘を産み、育て、ようやく上の娘2人は東京で一丁前になりつつある年ごろを迎えるまでになった。ワタシたち夫婦は30年をかけてようやく夫婦らしくなり、お互いを認め合える落ち着いた大人になってきた。そんな人生というマラソンの折り返し地点を迎えつつあった今日このごろであった。

ワタシは昨年、会社を辞め、新規に農業をめざそうという文字通りの転換をし、代わりに生活のため、妻が稼ぎに出かけ日々の暮らしを支えてくれていた。その彼女が、今、病院にしばらく入院せねばならないことが、わかった。彼女の体の転換点だったのか。昨日まで「どこの農地を借りて、どんな農業をしようか」と、春にむけ営農計画に思いを巡らせていたワタシの思考が、一瞬パタリと止まる。そして自分たちの49や50という齢が、古来、人の節目の歳であったことを、身近な大事な人を通して、初めて思い知った。

その病気の妻のことを思った。もうすぐ入院する彼女と、家にひとり残される3番目の娘のことが思われた。そして東京で心配するふたりの娘たちのことを。

これまで過ごしてきたワタシの毎日も、花農家への研修も、明日の農業へのチャレンジも、お不動様の水汲みも、無農薬野菜やワラビ採りも、すべて、元気な妻があっての話、彼女が元気であることが大前提の話であった。その前提が突然崩れる。妻とワタシと家族の前に、「ちょっと立ち止まって考えてみないか」と、急な神様からのブレーキがかけられた。節目を迎えつつある夫婦と家族にアプローチが準備された。

Oyazはあらためて、人の弱さ・心もとなさ・はかなさを思った。そして、一度きりのこの世の生を、50からの後半生を妻と、家族とどう生きるべきかを、再び考えさせられた。

つれあいが病院に入院しなければならないという現実に直面すると、その事実はこの世のまぎれもない「現実」となり、それはどんなに信仰が篤くても、神様仏様キリスト様が一瞬にしてその「現実」を打ち消す奇跡を起こしてくれる訳ではないことをあらためて知った。そして、心細く不安な当の本人を支えられるのは、その神様仏様キリスト様ではなく、同じ人間の、つれあいのワタシであり、同じ人間の、身近な子どもたち、家族たちなのだと再認識するのだ。

6年前に親爺が逝ったように、ふたりの母たちにも、そして将来は、ワタシにも妻にも、遅かれ早かれこの世を旅立つ日が必ず訪れる。それまでは、人はその日がくるまでは、もがこうが苦しもうが怒ろうが泣こうがわめこうが愉快に笑おうが元気溌剌だろうが閉じこもろうがしゃべるまいが、誰でも人はひとっこ一人のがれることなく、この現世で、息をし、水を飲み、口から生き物をいただき、出し、その循環の中で死ぬまで、生き続けなければならない。それが現世の定めなのだ。

そう思いをいたす時、今自分が生かされている不思議がまた思われ、そしてこの家族たちに巡り合い、日々の暮らしを続けられてきた自分たちの過去の、なんという奇跡的なまでに希有な「現実」かがあらためて思われた。

30年前には妻とワタシは二人きりだった。その私たちのまわりには、今は大きくなった娘たちがおり、りっぱに生きている。そして入院を控えた妻に「お母さん、大丈夫っ!?」て声をかけてくれる。みんな心で心配してくれている。家族なんだなァって実感する。苦しい時の神頼みではなく、1番効くのは、人の、人を思う「思いやり」なのだと気づく。そして人は、人のために「神様」に祈る。

聖書でイエスはこんなことを言っている。
「死んだ人に神は要らない。神は生きている者のための神である」
つまり神様はこの「現世」にこそ要るのであって、居るのである。あの世には居ない・要らないのだ。

その「現世」にいる神の見守りと宇宙の律の中で、男と女は出遭い、暮らし、子を育て、やがて逝き、「愛」をバトンタッチしながら、幾世代もがこの繰り返しを繰り返す。すなわちこれが、神の定めた「永遠」と「幸福」なのだと、思った。

人はみな心弱く、はかない肉の存在である。止まらぬ、まして、さかのぼらない時間の刻みの中で、長いような一瞬のような一生を終える。だからこそ、人は、目に見える宇宙と大自然の営みに感動したり打ち震えたりしながら、その目には見えない神を畏れ、信じようと思う。そうすると目には見えない神様が、目には見えない「愛」という薬を家族のひとりひとりに、生きていく過程の中でそそいでくれる。妻の入院という現実は、ワタシたち家族を、謙虚に厳粛にさせたが、その一方でそのハードルを家族みんなで乗り切れよ、そして逆に愉快に、明るく、快活に、共に生きろよって、神様が言っているような、そんな思いがするのである。

キジ国から長安、そして日本

Jan.12,2006

先日、仏教の伝来を再勉強したところ、特番『アジア・仏の美100選』なるものを期せずして見ることとなった。これもまた不思議なこの世を律するご縁かと思い、もう一度「仏教伝来」をトレースする。

特集では、まず、釈迦国の王子ゴーダマ・シッダールタが出家した6年の足跡が辿られた。飲まず食わずの苦行をし骨と皮ばかりとなり死と向き合うもなお悟りは得られず、それから瞑想することによりはじめてブッダ(覚者)となっていく過程である。悟りを得てからの49日、彼はその余韻に浸っていたことが語られ、これが今日の葬儀の後の「49日」になったことを解説者は暗に我々に教えていた。その彼の教えを「経」と言い、戒めを「律」と言い、後人のそれらの解釈を「論」と言って、3つをもって仏教では「三蔵」と呼ぶのだそうだ。「論」を漢訳し、仏教を中国に根付かせた歴史上の人物に、キジ国の鳩摩羅什(くまらじゅう)という人がいた。中国人ではなく、大雑把に言えば、インド人と騎馬民族のハーフである。その彼の、数奇な運命が、今日の日本の仏教に、政治に、庶民の生活に、そうしてこれからきっとワタシの人生に、大きく影響を及ぼすことになる。

■鳩摩羅什 (くまらじゅう)
西暦350頃亀茲(キジ)国に生まれる~409年中国の現・西安(長安)で没す。中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。インドの貴族の血を引く父と、亀茲(キジ)国鳩摩(くまら)の王族の母との間に生れ、7歳で母とともに出家。384年、亀茲国を攻略した中国の捕虜となり、以後18年間中国涼州での生活を余儀なくされる。そののち、401年、後秦の姚興(ヨウコウ)に迎えられ長安に入る。以来10年間、精力的にインドサンスクリットの経論を中国語(漢語)に翻訳し、多くの門弟を育てた。
 東アジア仏教は、この鳩摩羅什によって基本的に性格づけられ方向づけられた。『般若経』『法華経』『維摩経』など大乗経典35部294巻におよぶ翻訳を完成させ、門弟は三千余人に上ったという。

■鳩摩羅什と『法華経』
 『法華経』には六訳三存といい、古来6種の漢文への訳出があり、次の3種が現存している。
(1)『正法華経』(286年訳出) 竺法護訳
(2)『妙法蓮華経』(406年訳出) 鳩摩羅什訳
(3)『添品妙法蓮華経』(601年訳出) 闍那崛多・達摩笈多訳
なかでも、鳩摩羅什が訳した『妙法蓮華経』が名訳で、『法華経』のなかでも圧倒的に流布した。『法華経』といえば一般に『妙法蓮華経』をさすまでになった。
 この『妙法蓮華経』は中国の隋の時代の高僧、天台大師智顗(538-597)の法華経を中心とした仏教へとつながり、日本の伝教大師最澄(天台宗)や日蓮聖人(1222-82)の仏教へとつながった。また、天台大師智顗とほぼ同じ時代、日本の聖徳太子(574-622)も鳩摩羅什訳のこの『妙法蓮華経』を読み、有名な『法華義疏』を著作された。 かくのごとくに鳩摩羅什という人物の訳した『法華経』が中国、韓国、日本に歴史的に多大な影響を与えるに至った。


亀茲(キジ)国は現在の中国でいうと、新疆ウイグル自治区のクチャ(庫車)という街にあったアオシス都市。仏教遺跡としての「キジル石窟」が世界的に有名で、その壁画にはアフガニスタンでしか採れないとされる高価な原石ラピスラズリ(lapis lazuli)の青色がふんだんに使われていた。壁画の様式も含めササン朝ペルシャの影響を色濃く残す、アジアらしからぬ仏教遺跡のひとつとされる。このラピスラズリの石窟といい、近年タリバンによって爆破されてしまったバーミヤンの(玄奘三蔵の通った当時は金色に輝いていたという)石仏群といい、仏教が中央アジアできらびやかなまでに隆盛を極めていた時代が垣間見える。

そして、1400年前にその法華経を読んだ聖徳太子が「和をもって尊しとなせ」と説いた教えも、世界最古の木造建築である法隆寺を完成させた工人たちの技術・智恵・美的感覚が、機械文明と拝金主義の現代をもってして、ニッポンから消え失せつつあることが思われた。中央アジアから仏教が消えていったように。

現にこうして使っているインターネットも含め、現代の、昔とは比べるべくもない情報量の多さは、ある面で我々の知識をかえって浅薄にしてしまっている。なぜなら情報が多すぎるため、新聞を読んでも、テレビを見ても、本を読んでも、本当の理解や納得に至る前に、我々の脳は「見出し」だけを覚え、知ったつもりになってしまっている「傾向と対策」になっているからだ。「明鏡止水」「石の上にも3年」そんな言葉は現代人はもう知らないし、車の騒音と音楽と携帯と映像に囲まれた環境で生きる現代人に、「瞑想」や静寂なんて、はるかかなたの別世界なのかも知れない。


「どび流し」「ジャバラタナゴ」の復活、日本あらためインド

Jan.11,2006

日本では儲からない稲作をやめ、花栽培に切り替える農家が多くなった。そのために、たんぼの近くにこさえてあった溜め池が放置されるようになり、溜め池の底にたまった泥を1年に一遍放流する「どび流し」を誰もしなくなった。そのために溜め池の底には泥が何年も沈殿し、やがてヘドロ化し、いままでいた「ジャバラタナゴ」や水の生き物たちが(馬鹿で貪欲で業突く張りなアメリカザリガニ以外)住めなくなり、死んでいなくなってしまった。

これも、人間の現金主義、経済至上主義がもたらした環境破壊そのものであり、日本人が日本人自らの手で日本の自然を喪失しつつある現実なのである。市民団体がもういちどその溜め池にジャバラタナゴを復活させようと立ち上がり、溜め池からヘドロをスコップですくいあげ、ようやく放水栓を探し出し、30回も「どび流し」を繰り返し、昔のような溜め池に、なんと2年がかりでようやっと戻したのだそうな。放水栓を開けるにもコツがあり、それを知る長老もよわい70を越えた人で、継ぎ手もいない現状だった。さしずめ息子らは工場に金取りにいっているのだろう、イカレタ車に乗って。こういう放置され、荒廃が進み、日本固有の生き物たちを死滅させつつあるこの日本の田園環境を、みなさんはどう思うだろうか?NPOが日本中にある全ての溜め池を復活できる訳もなし、第一こんなことはNPOがするべきことではなく、本来稲作をする農地を持っている農家たちがちゃんとみんな稲作をしていればいい話であったわけで、それができない、してもしょうがない、ってことになってしまっているところに実に大変な日本農業の大問題がある。

つまり、今の日本は、すべてが「儲かるか」「儲からないか」しかない社会になった、ってことです、断言しますが。そのことが、こんな身近な自然を見ただけでも、TVが「溜め池と水の生き物たち」にスポットをあてただけでも、まざまざと浮き彫りになって浮かび上がってくるんじゃぁありませんか、今の日本ってぇひでぇ国は。狂ってますよ、どこかが、それも、ものス~っごくっ!!です。

一方でワタシのような脱サラ男が新規就農しようと思って、農地を貸してくださいと言うと、なんのかんのと理由をつけて貸さない。それじゃその人が耕すのかといえばいっこうに耕さない。休耕田として放置したまんまだったり、転作作物を植えましたとばかりに形ばかりコスモス畑にして補助金をせしめてのうのうとしているのだ。その一方で後継者が育っているかと言うと、農業高校に通う高校生も含めて「農業はイヤだ」とほざいて、金取りダァ!?ふざけんなっ!アホくさくって、新規就農の意欲も、意気込みも次第に後退していこうってモンじゃぁあ~りませんか。

「日本では農業では食っていけませんっ!!」・・・???みなさん、コレって、ものスゴ~ク、変でしょ!!!食べ物を作っている農家その人が「食っていけない」だなんて!
今の日本、狂っていることは今やゴマン、十万、一億・・とあるコバクサイ世の中に成り下がってしまったが、その中でも「農家が農業では食っていけない」とはいったい、なにごとだっ! 政府は「食料自給率40%をもっと上げたい」ともう10何年言いつづけているが一向に上がってなんかいない。一方で米価の逆ざやを百姓に補てんすることを止め、規制もはずすからドンドン自由に何ぼででも売っていいよと体よく農業を見放し、自由化でございます、規制緩和でございます、民のやれることは民にでございますと繰り返す。

米も野菜も魚も肉も酒も、輸入国の表示義務を課しながら、どんどん輸入させている。表示すればいいって問題じゃぁないのに、国は何か表面的なことだけ工夫して核心を誤魔化している。スーパーにはニュージーランドのカボチャが節でもないのにズラリと並び、フィリピン産のおくらが農薬プンプンとして並び、ロシア産の魚がテンコ盛りで凍りつき、ブラジル産の鳥肉が10円の目玉商品としてニッポンの賢い主婦連をおびき寄せている。「Made in NIPPON」はお高いので買いびかえられ、ますます、100円ショップとユニクロ同様、海外の低賃金国から食料が日本の食卓に押し寄せ、蔓延している。アトピーや皮膚病、花粉症、昔なかった現代病の原因は実はこんなところにもあるのかもしれない。

その裏では「百姓は百姓では食っていけない」ので近くのサラミ工場で「部品」として時給700円の安いバイトに身を売る女と男。本当は、みんな日本の日本人の作った安心・安全なものを食べたい、買いたい、使いたい。それは山々なのだが、もうそれができない社会構造に変化してしまった、日本は。年功序列・終身雇用は骨董屋に入り、会社には一握りの正社員と、8割の安く不安定な契約社員とフリーター、派遣社員があたりまえのように働く。加えて財布は公的負担(消費税・市民税・固定資産税・国民保険料・国民年金掛け金・介護保険料)にあえぎ、それでも将来にそなえ個人年金積み立てをしぼり出し、庶民の夢マイホーム住宅ローンボーナス払いのためサラ金にまで走る。時給にすれば1000円くらいの負担が日本の庶民をがんじがらめにしている。安心・安全な食品は庶民からますます遠去かろうとしている。98円の「どこのでもいいから」1円でも安い卵を「買うしかない」個人の財布になってしまったのだ。1割のTOYOTAや銀行やホリエモン連が過去最高の利益とバブル期を越える株価の勢いだと大笑いしているが、9割のアンタッチャブルが貧困にあえぎ、材としてきょうも作業を繰り返す。カースト制インドになってしまったようだ、いつの頃からか、ニッポン。

「人材」の不元気、「人物」の元気

Jan.10,2006

経済評論家の内橋克人は、中小企業の中で、いまだに生き続けている会社には、ある共通項があるのだ、と言う。
それは、会社で働く人たちを「人材」というモノ扱いにするのではなく、人間として「人物」と見る、そういう受け止め方・考え方・姿勢なのだと。
な~るほどっ!!、てOyazは、大いに共感した。

学生の時、日本を代表する五反田の印刷会社にバイトに入った。夜8時から翌朝8時までの深夜勤務。印刷物が、オートメーションのラインに乗って流れてくる、それを台車にとって決められた箇所に運ぶ、というただ機械の一部に組み込まれたような仕事だった。ベルトコンベアーから、印刷物を取る、台車に積む、そして運ぶ、同じ場所でおろす、またラインに戻る、取る、積む、運ぶ・・・延々と、その繰り返しである。その単純作業を、機械の止まるまで、世が明けて人が起き出すまで、ただ黙々と、牢獄で鎖につながれ苦役をこなす囚人のように、あるいは映画で見た、奴隷船でムチ打たれ櫓をこぎづつけるしかない奴隷のように、夜中から朝まで、し続けるだ。人間にとって、機械同様に扱われるほど気が狂いそうな苦しいことはない、とその時わかったワタシは、バイトを3日で辞めた。続かないのだ、どうしても。人間として、しゃべりもせず、考える必要もなく、機械が停まるまで休むことも許されず、単純なただただ作業を繰り返し続けるマシーンに徹することが、当時のワタシにはどうしても、できなかった。こういう仕事は、人間への侮辱である、尊厳を無視した、機械扱いだ、と腹立たしかったのを忘れない。それから30年。昨年12月の1ヶ月だけ、Oyazは再びサラミ工場でおんなじ機械と化した。そして、やはり大学時代と変わらぬ感慨をもった。今回は生活費のためにじっと耐え忍んだものの、ラインの一部になることは、いまだに、人間性否定の何ものでもないし、管理する幹部たちも冷淡にそう見ていた。一生懸命しようが、先を見越した工夫をしようが、関係なかった。会社はその部署をこなすただの丈夫な部品がほしかっただけである。誰だってよかった。仕事が正確で壊れにくい人材ならなおさらいい、っていうスタンス。できようができまいが、陽気だろうが暗かろうが、先見性があろうがなかろうが、協調性があろうがなかろうが、判断力があろうがなかろうが、そこにあてがう「部材」や「歯車」がとにかく、あればよかった。マニュアル化された手順どおりにしてもらえば、提案力とか企画力だとか笑顔だとかユーモアだとか、まったく必要なかった。工場って似たり寄ったりそういうものかなって、19歳の時からもう30年も大人になっているのに、同じ憤りが湧いて、収まらなかった。

「人を使う」という言い方もまた、人を道具か機械扱いした言い方で、抵抗がある。むしろ「人を動かす」のほうがまだしもいい。「人が人を動かす」には、言い古されたことだが「ほめる」に限る。ただそれが、いろんな会社を見ていると、上に立つ人にはなかなかできないことのようだ。「ほめる」ということは結局その人の仕事振りや、工夫してやっている努力を、上の者がよく見ているっていうことである。「あぁこの上司は、自分のことをよく見ていてくれ、自分の工夫や努力を評価してくれているんだなぁ」って、人はそう思った時、その人のためなら何でもしてあげたい、っていう気持ちにますますなる。勿論、その反対の場合は、ますますその反対の気持ちになる。

NHK教育TV『日曜美術館』でたまたま古九谷焼を再現した金沢の【吉田屋】を特集していた。
100年以上も九谷焼の技術は途絶えていたのだという。誰も、あの輝く古九谷の黄・緑・青色は再現できまい、と言われていた幻の古九谷焼。その再興を思い立ったのは酒造業を隠居し、文人として余生を送っていたよわい72歳の吉田屋伝右衛門という人。文政7年(1824)のことである。彼は選りすぐりの職人を20人集めた。ロクロをひくもの、釉薬を調合するもの、絵付けをするもの、窯焚きをするものなど、専門特化させる。そしておもしろいことに「定」、現代の就業規則を定め、「午後4時以降は、お酒を飲んでもかまわない」という一文を設け、職人たちを待遇したのである。そうして吉田屋は、窯を興して1年目にしてあっという間に、幻の古九谷焼を再現してしまう。後にわかることだが、その背景には、職人の中に幻の古九谷の色の再現者天才調合師:粟生屋源右衛門がいたこと。そして大胆にして熟達の天才絵付師:鍋屋丈助の存在があったればこその偉業だった。それにしてもである、この吉田屋伝右衛門というリーダーが上に立つ者として優れていたからこそ、職人たちはみな「この人のためなら」と粋に感じ、嬉々として仕事ができていたに違いないことはすぐに想像ができる。現に、幻の古九谷焼を再現、それから時代のニーズにあった吉田屋九谷焼としてたちまち人気をはくし、商売としても繁盛していったその窯が、4年後に伝右得門が76歳でなくなると、急速に衰え、彼の死後3年で窯が閉じられたのである。「ほめる」そして「ともに喜び励ます」人を失った時、人は力を発揮できないことが、この吉田屋を見てもわかるのである。

ドクトルKの元気

Jan.9,2006

久しぶりに山形の上山病院医師ドクトルKこと桑山紀彦が全国版国営TVに出ていた。28の時に初めて国際医療ボランティアに参加して以来、ボスニアヘルツェゴビナ、アフリカの難民キャンプ、東ティモール、最近のアフガニスタンまで、実に17年間で53ヶ国の国をまわり、傷ついたり、やせ細ったり、熱が下がらなかったり、戦争で親兄弟を失ったりした子どもたちに接してきた。「自分の体重の半分くらいの重さの水タンクを背負って子どもたちが道を歩いてくるんです。苦しいとかイヤだとか、というのではなく生き生きとした目が輝き、笑いかけてくるんです。お母さんに水を飲ませてあげられるから、自分も顔を洗えるからって。困窮し、心も傷つき、やせこけ、爆弾と銃が隣り合わせの最悪の状況下で、子どもたちが見せる奇跡的なエネルギッシュなまでの笑顔と元気に、何不自由なく平和ボケした自分自身がハッとして、こんな12歳は見たことないって、逆に元気をもらうんです。この元気をひとりじめにするのはよくない。日本に、地域の子どもたちにコレを伝えなければ」と、そう思って歌い始めたというドクトルK。自ら撮ってきた映像をプロジェクターで映し出し、体育館で自作の歌をフォーク調で朗々と快活に歌い上げ、世界の子どもたちの生き様を、TVでしか知らない子どもたちにじかに語りかける「地球のステージ」コンサートを、Kは今日もどこかで展開している。

それを見た日本の子どもたちが言う。
「わたしたちがおもしろいことを見たり聞いたりする笑いと違って、彼らは心の底から生きていることを喜び、感謝している、そんな笑顔だと思いました」「自分も世界の子どもたちのために役に立ち、元気を伝える、あの人のようになりたいと思いました。」・・・

Oyazは聞いていて、な~んだ、日本の子どもたちも、どうして、まだまだ捨てたもんじゃぁないじゃないか!!、ってジーンと来てしまいました。「本物を知らないだけなんだなっ。もっと困っている、いろんな子どもたちがいる現実を、実態を、知らないだけなんだヮ。TVのお笑いと、貧困下でもキラキラ輝く瞳の違いを、ゲームと携帯と塾通いで、パッパラパーになってしまっていたと思っていた日本の子どもたちが、ハッキリとちゃんと感じとれるんだなぁ」って。そう感じたボクは、なんだかスゴ~ク、いちどきに安心してしまいました。そうして、今の日本の若者たちに、医者ではなくミュージシャンとして登場し、最新の映像機器と技術・共感して協力してくれるスタッフ・同じプロの伴奏者・編集者・自分の曲調、声、スタイルなど、一番若者たちに効果的な表現と方法を考えながら、「子どもたちに【感じて】もらいたいんですっ!」ていう目標に向って、自身表現者として楽しみながらやってきたNPO代表:桑山紀彦。あらためて、そんな山形身近びとを見、知り、認識し、元気をもらった一瞬だった。

三浦敬三の元気

Jan.8,2006

三浦敬三が101歳でとうとう逝ってしまった。親戚でもなんでもないが、ボクたちスキー少年あこがれの三浦雄一郎のオヤジとして子どもの頃から知っていた人。大人になってからも折に触れニュースで見聞きする人だった。青森県の八甲田山を山岳スキーの草分けとして開拓し、シニア現役プロスキーヤーにして写真家、最近では最高齢プロスキーヤー・登山家として食生活や毎日の生活まで話題にされていた。90にしてヨーロッパアルプスのモンブラン山系の氷河を滑り、100歳にして70代の息子雄一郎とその子・孫との親子孫ひ孫4代、米ユタ州スノーバードスキー場:標高3000mから滑走する、そんな「ウルトラじっちゃん」だった。その驚異の体力と元気力に、ワタシは一日本人、東北人として見ているだけで元気をもらっていた、そんな存在だった三浦敬三が、逝った。

山形っこの自慢の一つに、世界的に樹氷で有名になった蔵王がある。有名にしたのは、トニーザイラーというスキーの金メダリストだ。彼が蔵王でスキーを滑ったのだと、話にだけは聞きながら、ボクたちは蔵王でスキーをしながら、大きくなった。

1956年の冬季オリンピックはイタリア。今年2月にあるトリノではなく、コルチナ・ダンペッツオという景勝地で開かれたそうな。その大会で、オーストリア・キッツビューエル出身の若者トニー・ザイラーがアルペンの3種目に全て圧勝し、スキー史上、初のアルペン三冠王となる。世界中がトニーに沸いた、という。そのトニーが、翌1957年(Oyazが産まれたての)春、桜の美しい日本に立ち寄ったんだと。3月いっぱいでスキー場の営業を停めていた石打スキー場が、トニー達のためにリフトの運転を延ばし、春のクサレ雪の中、世界のトップスキーヤーと日本の強化指定選手の合宿が実現した。ザイラーは、たったその1日だけのスキーの後、東京の桜を見て、オーストリアに帰っていったのだが、それから5シーズン、日本の雪上に再び彼は居たのである。トニーザイラー主演映画が日本で作られることになったから。映画名『スキーの王者』がそれで、その舞台こそ、山形県の蔵王スキー場であった。樹氷をバックに滑るトニーの勇姿が世界の人々に日本のスキー場を、そして地元山形県蔵王のスノーモンスターの魅力を、伝えたのである・・・。

 その後、68年2月のグルノーブル冬季大会で、地元フランスのジャン・クロード・キリーがスキーのアルペン競技史上、トニーザイラーについで2人目の三冠王となると、当時11~12歳だったOyazたちスキー少年はキリーに夢中になった。「キリーみだいにすべっだい!」と、ますますスキーに入れ込んでいく東北のいなかっぺたち。スキー人口減の一途をたどる今では考えられない、大人も子どももスキースキーだった時代が蔵王にもあった。

国内では、世界最高峰のエベレストを、スキーでパラシュートまでつけて滑降してしまった冒険家三浦雄一郎という男が世間の度肝を抜いた。当時の日本の男たちは皆、その雄一郎にあこがれた(おばさんたちは裕次郎に)。その雄一郎とは似ても似つかぬダサイメガネのおとっつぁん、それが最初に見た三浦敬三の印象である。冒険野郎をとおして、ちょっぴりだけ知ったその敬三とは、こんな人だった。

■ 明治37年2月15日 青森県青森市生まれ ■ 北海道帝国大学(現在の北大)農学部卒業後、青森営林局に勤務する ■ 青森林有スキー部の選手、部長(営林署時代、岩手・宮城・東京を転勤している) ■ 昭和30年51歳で営林局退職 ■ その後、東京・練馬に移動 ■ 全日本スキー連盟の技術委員を務めるなど、日本スキー界の草分けの一人であり、「八甲田の主」と呼ばれた ■ 毎年11月から5月まで、1年の半分近くを国内外のスキー場で過ごした。 ■ 現役スキーヤーと共に山岳写真家の顔も持つようになる ■ 還暦(60歳)で雄一郎のキロメーターランセの応援を機会に海外初遠征。 ■ 古希(70歳)でエベレスト最大の氷河、シャングリ氷河を滑降■ 喜寿(77歳)には家族でキリマンジャロ登頂及び滑降 ■ 傘寿(80歳)オートルート前半滑降 ■ 米寿(88歳)オートルート後半滑降 ■ 卒寿(90歳)でヴァレーブランシュ滑降 ■ 白寿(99歳)3世代にてヴァレーブランシュ滑降 ■ (100歳)米ユタ州スノーバードの標高3000mから親子孫ひ孫4代で滑降 ■ (101歳)1月5日、東京都文京区の病院で死去。死因、多臓器不全。101年の人生の一巻の終わり。
 
■ 三浦敬三の日々の運動の基本は8つ。
1.首の運動 2.口開け運動 3.呼吸法 4.体操 5.ゴムチューブスクワット 6.スキー体操 7.深呼吸 8.ウォーキング
さらに若さを維持する独自の運動として、口を大きく開閉させ舌を思いっきり伸ばす 「舌出し体操」、よい香りを取り込み、右脳を活性化させボケを予防する 「香り呼吸法」などを、すべて自ら考案してトレーニングしていた。

■ 敬三の食卓には数多くの食材が並ぶ。
骨ごと食べられる鶏肉のしょうゆ煮、ピーマンのひき肉煮、キムチ納豆、佃煮、鯛のお頭煮、麹を生かしたみそ汁、イカの塩から、発芽玄米のご飯等々。
すべて敬三自身の手料理だった。「一度の食事で多くの種類をバランスよく食べる」「よく噛み、食べ過ぎない」を旨としていた。

かくのごとく、三浦敬三という人の生き方をふりかえって見てみると、人は何かに「打ち込んでいる姿」「地味だがコツコツ努力する姿勢」に胸を打たれ、元気をもらうのだな、と思った。ノンベンダラリンとなんにもしないで、携帯片手にボーッとしてないで、「打ち込んでみろ!」「鍛錬してみろ!」「できた時の喜びは格別だゾッ!」って、あの世に旅立ったウルトラじっちゃんは寡黙に、そう、我々に最後の明治男の元気さをもって、語りかけているようである。

温故知新つれづれ

Jan.7,2006

高松市で「マイ箸運動」を展開している若者をニュースで知った。
いいことだなぁと思った。が、以前にも「マイ箸運動」は全国的にひろがり、割り箸を使わない共通認識(コンセンサス)が日本人の間に形成されたはずであった。が、いつも間にか日本人は忘れてしまった。「今回は、まっ、イッカッ~」って店で割り箸を使い始め、今回が、2回となり、3回となり、毎回となる。来ない天災のように、人々は忘れる。

「日本の割り箸は間伐材を使っているんだから、いいんだよ」って言う人がいる。それは日本製の割り箸のことで、日本で消費する割り箸のたった2%にすぎない。日本人の平均使用数が一人年200本だと言うから、間伐材の割り箸はその内のたったの4本だけっていうことである。あとは中国ほかからの輸入品。だから、中国の緑の山をハゲにしてしまった功罪を、現代日本人はひとっこ一人まのがれない。中国の箸は竹かプラスチック、韓国のそれは銀かステンレスでいずれも洗って繰り返し使う。日本人だけがである。コンビニ弁当、カップ麺を含め、世界で1番使い捨て割り箸を使っているのは。IT世界一ではなく、割り箸世界一なのだ、小泉クンッ!

輸出入をしていなかった江戸時代、庶民は箸をどうしていたのだろう?落語には、夜鳴きそばの話も出てくる。市中には居酒屋も茶屋もあったわけだから、一体店ではお客さんにどんなふうに箸をだしていたのだろう?さっそく文献を調べてみると、こんな解説をみつけた。

【「麺類雑学辞典より」  江戸時代、そば屋が使っていたのは丸箸。洗って何度も使う箸である。竹製の丸箸は一般に普及していた。『和漢三才図会』(正徳二年・一七一二)には竹箸の多くは漆の塗り箸として流通しているとある。そば屋の箸が塗り箸だったのかどうかは定かではないが、何度も使い回す丸箸だった。

一茶の句に、「陽炎やそば屋が前の箸の山」というのが(文政六年)ある。そば屋の店先に箸の山という光景だが、これより少し前の文化六年刊『江戸職人歌合』には、天秤棒にけんどん箱を下げて出前をするそば屋の担ぎ(出前持ち)が描かれている。そして、その担ぎが通り過ぎる横にあるそば屋の箱看板の上には、ざるに入れられた箸の山が置かれている。

 さて、飲食店に割り箸が普及し始めた大正から昭和初期のころ、杉の割り箸はまだまだ高価なものだった。そこで東京のそば屋では、特別な種ものやご飯ものなど値段の張る注文の時だけ割り箸を出し、ふだんは丸箸を洗って使い回すというのがふつうだった。店仕舞いの後、銅壷の湯で洗い、翌日、日当たりのよい店先などで乾燥させたものだそうである。】

 ということで、今の使い捨て割り箸を一般的に使用し、近隣諸国の環境破壊を爆発的に促進してきたのは、まぎれもなく、この昭和・平成時代の悪しき御世になってからであったのがこれを読んでもわかる。しかし、「日本人は、たいへんな事をしている」と思う人は、間伐材割り箸と同じ2%くらいなのだろう。自分一人くらい、って、日本人はいつのころからか、利己的で、自分に都合のいいようにしか考えなくなった。日本人の誰も、車を運転することを罪だとか、公害の加害者だ、などとは感じていないし、クーラーをガンガンきかすことも勿論罪悪だなんて思っちゃいない。今に、韓国も、インドも、シンガポールもタイもベトナムもカンボジアもインドネシアもスリランカも、13億人の良くも悪くも巨象の中国さえ、早晩、そうなる。地球はバカあたたかくなってしまうだろう。二酸化窒素減・温暖化防止の世界レベル協定:京都議定書に世界のトップランナーを随所で自認して来たアメリカその人が批准しない。「おまえんところだろうがぁ~もともとこの地球に自動車を誕生させ世界中に蔓延させガソリンを浴びるように使ってきた張本人はっ!!!」って叫んだところで、今のアメリカは馬耳東風・馬の耳に念仏だ。「そういうお前んところだろうがぁ~!?アメリカで車をバンバン売って、世界一だったGMを衰退させ、米車販売数シェア過去最高の37%を占めるようになったのは!?そして今度は中国だぁ~?インドだぁ~?公害撒き散らし悪徳商人そのものの日本人がえらそうに、おんなじ顔で京都議定書ったぁ~笑い草だぁ!!」

江戸時代は、実に自然の中の循環(リサイクル)がうまくいっていた時代だそうである。稲作が生活の基本だっだから、ワラが上手に使われていた。草履をはじめ長靴、蓑、かさ、ござ・畳、納豆のわら筒、こぬかと混ぜた温床、それらが古くなれば焼き、その灰は灰汁として山菜のあく抜きや火鉢に使い、畑にまいて有機肥料にした。花咲じいさんにいたっては枯れ木に花まで咲かせた。

植物を食べ、植物で道具を作り、植物を焼いた灰で生活し、土に戻した。人は植物をいただき、生き、排泄し、下肥を土に戻した。そこには、土に戻らぬビニールもプラスチックも発泡スチロールのトレーも農薬もなかった。「自然との共生」や「循環」とはこんな江戸時代までのことを言うのであって、現代日本で使える場所はもうない。車や電化製品から熱と排気ガスを大気に放出し、何十年も除草剤を土に残留させ、チッソリンサンカリをゴマンと畑に入れ込みつづけ、薬に負けないかつてはいなかった強力な虫たちを育て上げ、ビニールマルチシートで土をおおい、そしてそのまんまビニールごと土を耕作してきた日本の大地に、もはや聖地などはなくなってしまった。農機具メーカーが悪い。農薬メーカーが悪い。金を貸す農協が悪い。尻馬に乗る農家が悪い。そうして「きれいなもの」「便利なもの」「安いもの」を追求し続けてきた、そしていまだにそうしている消費者が一番、もっとも、悪い。「経済のことは市場にまかせる」と首相は言う。市場経済とはそういうものである。消費者が1円でも安いものを求めるのなら、適正価格で経営できていた農家は潰れ、安い中国東南アジア野菜がどっと日本に蔓延する、農薬たっぷりかけられて。消費者が1円でも安いものを求めるのなら、ユニクロもジャスコも中国で衣料を生産させ、日本の衣料メーカーを倒産させ、気がついたらそこに勤めていたトーサンを失業させたカーサン、という構図になる、市場経済下では。

日本人は、いまさら、ラーメン屋で、そば屋で、食堂で、割り箸を使わずに、他人の使った丸箸や持参するマイ箸に変えられるのだろうか??それもズッ~と???
スーパーのレジ袋にしたって、現実、マイバックを持ってきている人は10人中2~3人だろう。10人中10人にならなければ、意味がない問題なのに。

ワタシは決してペシミストではない。むしろ陽気な酒飲み楽観Oyazである。ただ、今の日本に身を置く一人として最近特に、「温故知新」という言葉をもう一度使ってみないか、と呼びかけたくなってきた、そんな時代だ。

現代はASH文化

Jan.6,2006

「飛鳥白鳳文化」に対して、我々の生きてきた戦後昭和・平成を、そのアメリカかぶれした時代を象徴して英語表記で表すとAfterShowa&Heisei、その頭文字をとって「ASH文化」と名づけてみる。

「ASH文化」の特徴は、①鉄筋コンクリートとアスファルト②自動車を筆頭とする様々な機械③3電(電気・電子・電波)である。その変遷は、戦後の「どんどんいけいけ」からスタートして、高度経済成長期、所得倍増計画、3種の神器の国民総獲得、受験戦争、農業をかえりみない工業ビジネス社会の成熟期、ネコも杓子もマネーゲームのバブル期、バブル崩壊・ゼロ金利時代、ネコも杓子も車と携帯電話の現代、税金掛け金不払い時代、結婚しない・産まない時代、GDP中国韓国1・2位で日本は後進国に転落時代、人の住まないor強度弱く耐用年数短く住めないマンションゴーストタウン時代、子どもがいないので学校閉鎖・ディズニー閉鎖・教師とその他の大失業時代、ジジババと犬猫だけ時代、そうして西暦3300年、絶滅危惧種の日本人:ついに最後の一人逝く、日本人絶滅・・・おあとがつづかぬようで、と、こうなる。

そこには人間的な魅力や自然との協調が見られない、感じられない。戦後の日本人は今日まで、ただただ金儲けの才覚と金属機械だけを磨き上げてきた。山を切り倒し、ダムをこさえてきた。川を、海を、土を、コンクリートで力づくで捻じ曲げ、固め、押さえ込み、車と機械優先の社会基盤(ファンダメンタルズ)を整備してきた。農をさげすみ疎み、だが一流の農機具を作り、便利さと引きかえに百姓を農業機械借金地獄にひきづりこんだ。そんな、工業と車と便利さを追求してきた日本人の、職人としてのスキルの高さと、一方で資本主義というアメリカ馬にまたがってしまったばっかりに、日本人固有の美徳も文化も風習も武士の魂も、生ゴミと一緒に捨ててきた愚かさ・バカさが、ありありと見える。そうして、庶民はいつの間にか「礼節」を忘れ、「幸せ」を見失い、「神」を軽んじ、家庭を築くことさえやめてしまった。滅びいくしかない一途を、今、我々は現実に歩き始めている。なのに、多くの人がそのことを、リアルには、ピンッときていない。ホントーに気がつかない人もいるのだろう。心が鈍ったのだ。

辞書で「ash」をひいてみた。期せずして、あまりにもピタリと、戦後昭和・平成時代の末路を言い当てている。
「ash」:①灰、廃墟②遺骨、なきがら③蒼白・・・・・・・・・・かつて「日本イズNo.1」だった国の、なんとこれが、あっという間の終焉である。

Ashジダイ・カレキニハナヲサカセマショ・ゼニモウケダケガジンセイサ・アトハノトナレヤマトナレ・「サヨナラ」サイゴノニッポンジン・

聖徳太子の飛鳥白鳳から2700年

Jan.5,2006

 十七条憲法は604年、推古天皇の摂政だった聖徳太子によって作られたという。今から1400年も前のことである。今の憲法とは違い、天皇を中心とした日本の政治をつかさどる官僚たちの心得を説いたものである。

一条 和を以って貴しとし、逆らうこと無きを旨とせよ。
二条 三宝を敬え。三宝とは仏(悟り)・法(真理)・僧(仏法を広める者)なり。
三条 天皇の詔(みことのり)を受けたならば必ず謹めて実行しろ。
四条 上に立つ者は下の者に、下の者も上の者に、互いに「礼」を以って基本とせよ。
五条 享楽を絶ち、欲を捨てて、明らかに訴訟(うったえ)をさだめよ。
六条 悪を懲らし善を勧るは古の良典なり。
七条 各人には各任務が有り、己の任務をよく掌(つかさど)り、みだれざるべし。
八条 誰でも、早く朝(まい)りおそく、退でよ。
九条 信は是れ義の基本なり。事毎に信あれ。
十条 心の中の怒りを絶ち、表面の怒りも棄て、人の違いを怒らざれ。
十一条 功過を明察(あきらか)にし、信賞必罰を必ず明確にせよ。
十二条  国司・国造、百姓に「オサメル」ことなかれ。
十三条  諸(もろもろ)の任せる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ。
十四条  誰でも、「ウラヤミネタム」こと無かれ。
十五条  私を背きて公に向くは、是れ臣の道なり。
十六条  民を使うに時を以ってするは、古の良典なり。
十七条  大事を独り断(さだ)むべからず。必ず衆と与(とも)に宜しく論(あげつら)ふべし。

よくわからないところも多いが、しかし、要するに、1400年前も今も、人の基本は変わっちゃいないことはわかる。そして、むしろ、我々現代人は、「礼」を忘れ、享楽と欲ばかりを追求し、和をもって貴しとしていないところが数々あり、「退歩」しているのだなぁとはっきり認識できる。

現代の三宝は、さしずめ、ゼニと携帯と車、ということだろう。(「棺おけに入れて持ってけよっ!にーちゃん」)

世界一のIT先進国をめざす、と小泉純一郎は言った。走れるようになったロボットHONDAのアシモ君が新聞やTVをにぎわしている。

一方で、2005年をピークに、日本は人口減少国に転落し、今の1億2千万人が2050年には9000万人にまで落ちこみ、現在の出生率ペースで試算すると、西暦3300年に日本人は絶滅するそうである。あと1200年少々で、ついに日本は絶滅する。その危機の現実が具体的数字となって社会に発表されてしまった。そのため、「少子化対策」だ、と厚生労働省が「産めよ増やせよ」と旗振りを始めているが。しかし、もう遅すぎるし、そんな表面的な旗振りに乗って、人は結婚したり、子どもを量産したりはしないだろう。なにか問題を履き違えているっ、政治家さん!政府は品不足に陥ったといってTOYOTAやHONDAに「日本車をもっと増産たのむ」って言うのとおんなじように、国民に子どもの増産を働きかけようとでも言うのか?年金が破綻するから共済年金も厚生年金も国民年金も一緒くたにするって?国民年金を20歳以上の学生もフリーター問わずに「かけろっ」て言ったばっかりなのに。一元化になって、もらえる金額がいくらになるかもわからないし、第一もらえなくなる可能性のほうが高いかもしれない不安を抱え、稼ぎが全くないor少ない若者が払えつづけられる訳はない。単純にそう思う。そうして、「3300年絶滅」発表、だもの、NHK受信料同様、若者の国民年金掛け金不払いは益々エスカレートしていくばかりに思われる。IT世界一も、使う国民自体がいなくなるわけですが・・・「シュショー!このまま続けていっていいっすかねぇ~まもなく任期もおわることだし、ねぇ」・・・根本的なところで日本は道を踏みはずした。

過去の膨大なツケを負わされ、未来もお先真っ暗な数字を突きつけられた、今の日本の若者は、いまさら、どう考え、どう行動していけばいいというのだろう。やがて死にゆくものではなく、現代の子どもたちと、未来の日本人が、実に問題だ。

日本の仏教伝来

Jan.4,2006

年のご用初めに合わせ、精神修養を兼ね、日本の仏教伝来についてを考えてみる。

仏教は今のインドでお釈迦様が教えられたものをまとめた教え。
一方、キリスト教は、今のイスラエルのエルサレムで説いたイエスキリストの教えをまとめたもの。

キリスト教は12使徒たちが小アジア・アフリカ・ヨーロッパ各地に伝道して広め、主にローマを起点にヨーロッパに根付いた。
一方、仏教は釈迦の十大弟子たちによって広められ、シルクロード沿いにインドより西域へ、そして東の中国・朝鮮半島・日本へと伝播した。

日本に初めて仏教をもたらしたのは5度の航海で失明した鑑真によるのだったろうか?
一方、キリスト教をもたらしたのはフランシスコザビエルだったか?
ワタシの浅薄な知識ではこんなもんだから、少し文献を紐解きながら、あらためて再認識を試みる。

【仏教の創始者はしゃくそん】
釈尊(しゃくそん)=釈迦牟尼世尊の略(釈迦国の尊い人)、本名はゴータマ・シッダールタ、いわゆる:お釈迦様。インドのネパールの国境付近に釈迦族の国があった。その王子としてゴータマ・シッダールタは生まれ、生きた。彼は青年時代に、人の生・老・病・死などについて苦悩し、出家。6年の苦行や瞑想の末、仏陀(覚者)となった。紀元前6世紀または5世紀ころのこと。80年の生涯。その弟子たちがインド各地に仏教を広め、紀元前270年ころインドの宗教として仏教が推奨される。日本には紀元後の538年前後にに百済から伝えられた。

【仏教小史と日本への伝来】(「仏教の歴史」より)
仏教は、釈迦(しゃか)の創唱した世界的宗教の一つ。キリスト教、イスラム教とともに世界3大宗教。根本は、釈迦が菩提樹下で成道し、80歳で入滅するまで北インド各地で説いた教え。仏の教えという意味で「仏法」、仏となるための修行の意を含め「仏道」と呼ぶ。
釈迦の本意は、自らが悟った真理を広く社会に教え、苦悩に沈む民衆を救うことにあった。当時インドで大勢力を誇っていたバラモン哲学を打ち破り、カーストによる差別を認めない立場を貫き、人間の平等を訴えた。
「釈迦は人間の価値は現実の人間の存在と行為によってきまるとし、真理を発見し、真理に基づく正しい生活を確立しようとした。よって、仏教の最大の特色は、神と人との関係において宗教が成立するのではなく、人間自身に根ざし、人間自身の生き方を根本問題とするところにある」とする視点もある。
釈迦を中心として出家信者の集団が構成され、それに在家信者が加わり、釈迦の教団は次第に広がった。釈迦の死後、その教えは数度の「経典結集(けつじゅう)」を経て、三蔵(大蔵経)という形で膨大な経典にまとめられた。
第2回経典結集の前後から(釈迦滅後100年ごろ)、戒律の解釈をめぐって仏教教団に分裂が起こり、戒律の規定に厳格な立場をとるのと、寛大な立場をとるグループの争いとなった。根本二部分裂の時代である。
さらに、マウリヤ朝時代も分裂は続き、上座部が12、大衆部が6部の18(あるいは20)の分派に分かれた。これを枝末分裂という。上座部系統は次第に思弁哲学的傾向を強め、閉鎖的な僧院生活に閉じこもりがちで、小乗仏教として大衆部系統から排斥された。
大衆部系統は大乗仏教興起の運動を起こし、上座部系統の流れをくむ部派仏教の出家信者中心のいき方に対して、在家信者を中心とした民衆救済を目的とする活動を展開した。このころ「般若経(はんにゃきょう)」「華厳経(けごんきょう)」「維摩経(ゆいまきょう)」「法華経(ほけきょう)」「大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)」などの大乗経典も成立した。
2世紀末、南インドに現れた竜樹(ナーガ-ルジュナ)は空観を中心として仏教の体系化をはかった。「中論」「十二門論」「大智度論」などを著し、後の中国、日本の仏教に大きな影響を与え、「八宗の祖」と呼ばれている。
さらに、4~5世紀に出た無著(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)の兄弟によってインドにおける大乗仏教は完成された。兄弟の開いた唯識派は、竜樹の開いた中観派とともに大乗仏教の2つの流れを形成したが、7世紀以後、仏教はヒンズー教、イスラム教などに押され、インドでは衰えた。
その後、仏教は世界各地に伝えられ、各地独自の発展を遂げた。スリランカ、ミャンマーには上座部仏教、ジャワ、スマトラ、ボルネオでは大乗仏教、カンボジアでは大乗仏教のち上座部仏教、ベトナムでは大乗仏教が伝わった。シルクロードの諸国では西域仏教が行われ、チベットではラマ教として発展した。
仏教が中国へ伝来したのは後漢の明帝の永平10年(67)とされるが、紀元前後にも西域諸国を通じて、すでに伝えられていたと見られる。天山南路、天山北路などのシルクロードを通って、仏教は中国に伝来した。
当初は一部の貴族や知識階級に広まり、大きな勢力となることはなかったが、後漢末から魏・西晋時代になると、インド、西域から来朝する僧も多くなり、経典の翻訳も行われ、次第に世間の注目を集めるようになった。
呉の支謙、西晋の竺法護ら優秀な漢訳者に加え、西域から鳩摩羅什(くまらじゅう)が入朝し、経典を数多く翻訳、中国独自の仏教の発展に大きく貢献した。法顕(ほっけん)、玄奘(げんじょう)などインドへの求法者も生まれた。
6世紀には達磨(だるま)によって禅宗が伝えられ、臨済宗、曹洞宗の2大派が生まれた。
隋代には智〇が「法華経」によって天台宗を開き、吉蔵が三論宗を大成した。唐代には浄土宗、法相宗、華厳宗、真言宗などが成立、仏教は黄金時代を迎えるが、会昌の法難(842年)を機として、次第に中国の仏教は衰退していった。

日本へ仏教が正式に伝えられたのは欽明天皇13年(552年)とされるが、『元興寺縁起』などでは538年になっている。いずれにせよ、それ以前から民間に仏教信仰が伝えられていたことは間違いない。仏教を受け入れるかどうかをめぐって蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)が争ったが、結局、物部氏が滅びて、崇仏派が勢力を伸ばした。その後、用明天皇の皇子だった聖徳太子は仏教興隆に力を入れ、「法華経」など三経を講義し、法隆寺、四天王寺などのたくさんの寺院を建立した

【Oyaz感想】・・・結局、日本人の精神的柱をたてたのも、世界最古で理にかなった美しい1300年以上経った今も健在な木造建築物を建てたのも、日本に初憲法:17条をすえたのも、すべてこの聖徳太子の飛鳥時代だったことがあらためてわかった!

子は宝だが、所有物ではない

oyazJan.3,2006

ワタシとカミさんには子どもたちへの共通認識がある。
「子どもは自分たちの所有物ではない。1同じ人格を持つ人として、たまたま我が家に生まれた。生まれたのが我々より遅いか早いかだけの話で、1人格者であることに何の変わりもない。」そういう共通のスタンスで、ワタシたち夫婦は子どもたちに接してきた。
殊にウチは娘3人だから、男親にして我が家唯一のオスであるワタシは、ドラマで描かれるような「ウチの娘は絶対によその男になんかくれてやらんぞっ!!」なんぞと頑張る、娘溺愛オヤジには絶対にならない、と決めて今日まできた。

何故我が子を猫かわいがりしたり自分のモノ扱いにしないかといえば、自分自身が「何故この親の子どもでなくてはならなかったのだろう、何故この家の子どもでなければならなかったのだろう?」という強烈な自意識を幼い頃からもちつづけているからにほかならない。
それは「自分とは何か?」「生きるとは何か?」「家族とは?社会とは?この世とは?あの世とは?」と考えるワタシの、自分探しの原点・起点である。

48年生きてきて、今、はっきりわかることがある。

* 人はどんな人も、植物が枯れるように、やがて死ぬ。次の子らにバトンを渡し、逝くのだということ

* どんなにお金をためてもあの世には持っていけない。天国があるとすれば、大金持ちは絶対に天国には入れないことになっているってこと

* この自然界では人だけが唯一、思考・創造力を持つ生き物であるということ

* 様々な宗教があるが、人だけが神を信じたい、という信仰心を持っているということ

* 仕事でも、音楽でも、絵・彫刻でも、創造し、思ったような自己表現ができた時、人は一番の満足感が得られるようにできているということ

* 自我や自意識・思考力・意思が、神がさづけた人の持つ「神性」であるということ

* 神はその「神性」として与えた総合創造力で、人にも芸術をおもいっきり楽しんでほしいと思っているに違いないということ

* 神の総合芸術作品でもあるこの地球を、暗愚な地球人である我々が破壊し、汚染し、温暖化し、狂わせ始めているということ

* 「神性」を金儲けばかりに使いすぎて、世界平和どころか、この地球を各国が利害確執と利己中心的対立と戦争の舞台にしてしまっているということ(利益が各国の目的の中心にある“国益”を尺度にすえた今の政治家たちの力による綱引きやかけひきは、根本が間違っている)

* 人は人に対しても自然に対しても見えない力に対しても、もっと謙虚でなければいけないっていうこと

* 人の肉体も時間のなかの法則によって生かされ律されているのに、人の意思だけはその認識を欠き、鈍く、好き勝手に私利私欲追求につっ走っているということ

* 様々な機械・電気・携帯電話・自動車・リモコン一つで何でも制御できる住宅、それらを手に入れることが進歩だ、と人は勘違いしている。とんだ間違った方向にものすごい「スピード」で突き進んでいることに気もつかずに、人類は滅びに向ってなだれこもうとしているっていうこと

* この世のものは全て、円・球から成り立っているっていうこと

・ 人の愉悦とは、芸術家としての自己表現・自己実現にある。
・ 人の幸せとは、平凡な家庭の居心地のよい営みにある。
・ 地域の平和とは、その愉悦と幸せを維持するために、互いが認め合い、尊重し、相重なる部分は協力・相互扶助しあう関係であるべきである。

長女のフィアンセのTakuちゃんは、ギターを奏で自己表現し、シルバー細工を極める職人たらんと日々努力している。そうして娘とささやかな日々の営みをおくり、幸せそうだ。親は、そういう価値観でいいんだよ、と言ってあげたい。

ワタシの「壁」、アンタの「壁」

Jan.2,2006

1月1日の穏やかや新年を迎えた。
さっそく朝一番で山のお不動様にわけいる。
そこは、だーれも除雪なんかしない雑木林のただ中にあるので、50cmくらいに積み上げられた雪道をラッセルしながら、300mほどをゆるやかに登っていく。
ところどころでは倒木が道をふさいでいる。
「森の守人」を任ぜられているOyazは、今度来る時は、この倒れた丸たんぼを大鋸で切り倒し、道からのける作業をしなければならない。
昨年末に誰か一人、この道を歩いたらしい。一筋、雪原にくぼみができていた。
あとは不規則に、斜めに、てめぇ勝手に、自由闊達に、ウサギの足跡が数匹、交錯している。

それにしても今シーズンは異常に雪が多い。
大晦日に一晩で30cmを越す雪が降ったのは30年ぶりくらいだろうか。

Oyazは毎冬、自宅の中庭に雪をかき集め、2~3mの高さのそりすべりスロープや様々な雪の造形をこさえるスノーアーティストになる。
ケッコウな雪運びの重労働を伴うのだが、仕事ではないし、遊びだし、設計計算書も無ければ、鉄骨も無く、偽装も無い。ヌードモデルもいなければ、佐藤忠良も船越保武もいない。設計図無しで、自由に、好きなように雪造を創っていく。今年は「ベルリンの壁」ならぬ「Oyazの壁」をこさえてみた。その壁のところどころに三角や丸や四角の穴を掘り、ローソクを点ける。ほのぼのとかわいく、きれいだ。雪と火という相性はなかなかよいものである。

グローバル化がナショナリズムを喚起し、あちこちに「壁」ができる、という記事が特集になっていた元旦の分厚い朝刊。期せずしてOyazも12月31日に我が家の「壁」を築いた。可視的にも、心にも、人は、他人に干渉されたくないので「壁」を作り始める。
畑にも本当は「壁」を作りたい。無農薬で、葉っぱボロボロのキャベツや白菜やジャガイモを、人がどう作ろうが、他人からかまわれたり、意見されたり、好奇な目で見られたくはないから。てめぇがてめぇの好きなように植え、育て、てめぇで食べるんだからなんだかんだ「かまねでけらっしゃいっ!」。

9.11以来、アメリカでは「Gated community」という、高級住宅街をすっぽり壁で囲んだ地区ができ始めたという。1対1の米ソ冷戦の時代よりももっと深刻な事態を迎えている。イスラム原理主義的無差別テロ対米国先進諸国の対立。アメリカは今や見えないテロの攻撃を恐れ、壁で、武力で、自国を「鎖国」し始めた。イスラエルがパレスチナ領土に家を建て壁を築いて封鎖したように。

アメリカは自分たちが一番自由で、正しくて、フロンティアスピリットも兼ね備えた模範的人間だと思っている。実力のある人はどんどん仕事をやって何億でも収入をあげアメリカンドリームを実現したらいい。こういう実力主義と自由な経済活動を世界中に広めようとしてきた。

イスラム教の教義の核心は5つ。
1、唯一神アッラーと最後の預言者ムハンマドだけを信ぜよ
2、日に5回メッカの方向に向って祈れ
3、断食をして身を清めよ
4、肉体的的金銭的に可能ならば一生に一回メッカに詣でよ
5、喜捨

この最後の「喜捨」の精神がことさらアメリカとは異質なのである。
喜捨とは、持たない貧しいものに、持っているものが恵み与えることである。そうすることが徳を積み、あの世で祝福されると信じられている。だからイスラム圏では貧しいものが富んだ人に物乞いを堂々とするのである。日本人観光客は彼らからすると「富んだ人々」だから、当然、ぼったくってもいい存在となっている。日本人観光客の一人が小銭やキャンディを一人の子どもにあげようものなら、次から次へと子どもたちがわんさか集まってきて「オレニモ、オレニモ」と千手観音のように手を伸ばしてくるのは、あんたが現地人に人気がある訳でもなんでもなく、そういう訳である。持っているものは持たない人に恵み分け与えることが神の言いつけであり、持たないものは持っている者に徳を積ませるためにもおっきな顔で堂々と物乞いをする、物乞いをあんたのためにしてあげている、ということである。イスラムの社会は平等はこうして保たれている。個々人の自由と平等とは異なる、相互扶助の精神と公平な社会への意識がある。むしろ「宗教のある社会主義」と言ってもいいかもしれない。

これは「権利が平等に公平に与えられている」民主主義国家の「平等・公平」の概念とは異質な「平等・公平」である。むしろ、同じ言葉なのに相反する「平等と公平」である。だからアメリカ民主主義とイスラム原理主義とは、絶対にかみあわない。そうしてもっとも深刻なことには、どちらも、自分たちの主義や思想や宗教が一番正しいと信じて疑わないことである。

たとえばイランのテヘランに身を置いていると、遠くのほうから弾道弾ミサイルやスカッドミサイルを隣国イラクに平気で撃ち込んで来るアメリカって国が、世界の保安官でもなんでもなく、悪魔に思えてくる。日本人観光客のワタシでさえそう思えるのだから現地で生活している人々においてをや、だ。だからオサマビンラディンがどんなに極悪非道な悪魔の化身のような存在だとしても、イスラム教徒からして見れば、アメリカのブッシュやイギリスのブレアはそれ以上の悪魔だと言える。

アメリカの民主的自由と個人の経済活動を開放してきた拝金的資本主義は今や日本にも完全に根づいた。わらぶき屋根の民家と牛馬が姿を消し、日本古来の風習やしきたり、文化も、消えようとしている。それを惜しむワタシを人は懐古主義のナショナリストと呼ぶだろうか。それでも言いつづける「日本人はもう日本人でなくなりつつある」ことを。


百姓一揆

Jan.1,2006元旦

12月30日、31日、2日つづけて朝の6:15。
『新日本紀行ふたたび』というNHKテレビをたまたま見ていた。
小学生の頃、親爺はいつも『新日本紀行』というつまらないNHKを見ながら朝飯を食べ、勤めに出て行った。
「おもしゃぐないこだな番組、なして大人は見るんだがな~?もっとおもしゃいマンガ見っだいなぁ、三馬鹿大将も見っだいなぁ、ナショナルキッド見っだいずぅ・・」と、子ども心は思っていた。

そおして40年。
Oyazは『新日本紀行ふたたび』を中年オヤズ顔で見ている。その音色に情緒を感じながら。
その番組には、今の自分が愛してやまない日本の自然の美しさも風物も、田舎の文化も祭もあった。
そして大学時代、カミさんと出あい、初めて行った鎌倉の七里ガ浜や湘南電車が切り取ってあった。
明治35年創業の江ノ電。その当時は結核療養所があったり作家が住んだりする閑静な保養所であり江ノ島電鉄は庶民には縁遠い高貴な乗り物だったこと、初代の300型と呼ばれる緑とクリーム色の電車が2005年9月に引退したことが語られ、昭和52年放送の『新日本紀行』をふたたび再現して見せていた。もう1本は、愛媛県今治市菊間町に伝わる子どもが騎乗する馬の祭がとりあげられていた。昔から農家にいた馬は農業機械にとって変わられ、18頭だてで子どもがたずなをさばく、米の収穫を祈願した神事競馬ができなくなる危機を描いた『新日本紀行』だった。岩手のチャグチャグ馬こみたいな馬の飾り。これまた明治時代、1頭につき今の金で百万円かけて衣装と馬具があつらえられたものだと聞き、驚いた。

『特集:小さな旅 忘れ得ぬ山河』だとか『ふだん着の温泉』だとか『百歳ばんざい』だとか、日本や日本人のぬくもりや知恵や美しい営みをNHKはよく丹精に根気づよく切り取って映像として残していると思う。こういう面では、民放にはない情緒と堅物さを残しながらいいものを作っている。そんなNHKが日本の宝と言えるものを撮り集めていることには大いに感心している。ただ受信料を多くの人が払わなくなったは、一部の不心得者が我々の受信料を不正に私物化しているから、が一つ。そして、次のような疑問と意見を持っているから。今やどれだけの人が『紅白歌合戦』を楽しみに見て除夜の鐘を聞くのか?誰がそんな巨額な予算で大河ドラマを作ってくれって言って、見ているのか?国民の何割が通勤通学の時間帯に流される『朝の連ドラ』を見れるのか?そしていまやNHKも放送会社の選択肢の一つに過ぎなくなったのだから、たとえばNHKは報道専門テレビまたはラジオだけに特化し、受信料を大幅に下げるべきだとも思うのである。そんな二つの大きな理由が表にはある。そして、隠れた本当の三つ目の理由がもう一つある。これが実はもっとも大きい理由である。それは、国民はいつの間にか貧乏になってしまったということ。ジワジワと公的負担が過重になってきているのである。だから余裕のあった昔なら言わなかった公務員批判やNHK批判がゾクゾク噴出してきているのだ。国民は、百姓は、民は、貧して頭にきだしている。これから迫り来る大増税のおふれまでまわっている昨今、なおさらだ。犬年の今年は、ますます吠えられッゾー。NHKの職員の皆様はじめ、国会議員も市町村長議員も行政官も学校の先生たちも隠れ天下り財団法人も、暴風並みの風当たりが強くなることをカクゴし、鍛錬、修行、日々精進する必要がある、ということですナ。百姓一揆に気をつけらっしゃいよぉ~公務員諸君っ!!!(民はもっと貧しく苦しいんだじぇ~)

満たされた須川橋

Feb.5,2006

山形県知事斎藤弘は、ウソこきではなかった。
きのう1週間ぶりにお不動様に湧き水を汲みに行ったのだが、その途中にある須川橋(正確には門伝橋)の欄干に、転落防止の鉄パイプが組まれていたのを見つけ小躍りした。昨年12月に大雪の中その橋を徒歩で渡り、川底に落ちる恐怖を感じ、柵を講じてほしいと陳情した訳だが、あれからふたつき。思ったとおり時間はすごくかかったが、市井の一個人の要望はついに県知事に聞き届けられた。その実現をワタシはまざまざと自分の目で目の当たりにし、実に、ひとり感慨深かった。

ワタシは思う、きれいごとではなく「人生金が全てじゃぁない」って。
この須川橋の落下防止柵の要望にしたって、ワタシ「個人の私利私欲から出た」類のことではない。ワタシが個人的に金が儲かるとか儲からないとかとは全く関係のないことである。しかし、そういうことって実現してしまう。反対に言うと「個人の私利私欲から出た」要望でないからこそ、公共工事というのはかなうのであると思った。

ワタシにも「個人の私利私欲から出た」類の金儲けに身をやつした時代がある。一瞬にして何十万を儲け、一瞬にして何百万も損をした。死の淵も垣間見た。だが様々なご縁に支えられ生き長らえた。そして今日まで生きることができた。「平凡が1番の幸せ」という言葉を若いときはまったくのナンセンスだと取り合わなかったが、今はその実現と継続がいかに難しくありがたいのかを感じる。

突然はじまった自分の心の整理法だったが、しばらくキーボードを閉じることにする。



 

バンつぁんたちと、終の棲家でお泊り

Feb.4,2006

2月1日から「軽費老人ホーム」の夜勤宿直員見習いに入った。
2月3日、2回目の見習い泊りである。

いわゆる要介護認定3とか4以上でないと入所できない「特老」と言われる「特別養護老人ホーム」に対して、「軽費老人ホーム」は、ふつうの健康なお年寄りが個人の事情で入所している老人施設である。だから多少体や頭に支障のある人がいるにせよ重度ではないから、その辺の近所のジーさんバーさんたちが50人ほどまとまって共同生活している「共生の家」なのである。また一方で、平均年齢70以上の彼らにしてみれば、この「共生の家」がイコール「終の棲家」でもある。

ある意味ではわがままし放題に生きてきた70数年の果ての人間は、勿論、できた人生の大ベテランでもあるが、死に向って心身ともにアカンボ帰りする「わがまま頑固マイペース」の達人たちでもある。

そんな個性の塊:仏様になる前の確固たる信念の生き物:ジーさんバーさんは、日常生活それ自体がそれこそ個性のぶつかり合いの最後の憩いのお遊戯の場でもあり、時にバトルリングの場にもなるのだろう。

7時半に朝食。7時10分ころから、足の悪い人とそうでない人が歩行器に寄り添ってEVから仲良くおりてくる。となりの階段からはジーパン姿のカメラ好きジーさんがさっそうと下りてきて、すがすがしく挨拶をしていく。腰をかがめてかすりのバーさんが杖を突きつき過ぎていく。正面切って折り目正しく挨拶する人もいる、伏目がちに下を向いて無言で通り過ぎる人。ちょっと距離を置いてふたりで来る夫婦がいれば、独りぼっちでブツブツしゃべる人もいる。「いただきます」が始まる。電話をかけてもいっこうに来ようとしない人も何人かいる。この老人ホームが「最後の自分の家」にもかかわらず、決まった時間にご飯を食べ、決まった時間にラジオ体操をし、限られた時間で入浴をし、決められた日でないと街に買い物に出るシャトルバスを出してもらえない。そんな不自由が伴う「我が家」である。50人所帯だから、不満もそれぞれ山ほどあるだろう。・・・「ナニナニさんたらっ何回言っても直らないのよ!だからまた言っちゃったヮヨっ!!(プンプンッ)」そんな類の愚痴を介護員や相談員にかげでこぼすバーさんたちも多数。まぁ逆に仙人然としていなくて最後の最期まで、人間臭く、感情的で、元気で、たくましいのだから、いいことである。

新時代がたしかに来ている

Feb.3,2006

「時代は繰り返さない」というのが、マルクスあたりの唯物史観とは違う、Oyazの歴史観である。一見歴史や流行は「繰り返す」ように見えるのだが、決して同じではない。似た部分があるだけで、脚本家・監督・デザイナー・舞台音楽家・衣装係・俳優・スタッフたちがまったく違うのだから、おんなじテーマを演じるにしても、全く実の違うものができ上がっている。それは「歴史の相似性」ではなく、「歴史の唯一無二性」「時間の遡逆不可性」とでもいうべきものである。

もっと身近に一人の人生に引き戻して考えれば
「人は一回こっきりしか生きられない」し
「時間は決して止まらない。まして遡ることは決して、ありえない」のである。
そんな大鉄則のうえで、人間は、金儲けにあくせくするもの、土を耕すもの、学び巣立とうとするもの、病に立ち向かうもの、ハンディを背負ったが前向きに生きるもの、平凡を守ろうとするなど、様々だ。

ホリエが捕まった時から、株バブルは、短期間に「終焉」を告げたような気がする。
バカシャジョー西田憲正が身障者団体に頭を下げる‘ふり’をした時、これまでのいい加減なバガ社長はニッポンから消えろ、と善良な庶民がニッポン丸の舵を切ったのかも知れない。オジマをマンション購入者たちが逆に「破産宣告」するよう申し立てた時、主導権は、上前をはねる泡ぶく銭経営者の手から、額に汗する庶民の手に移ったのだ。

そういう現象を見るとき、えせニッポンジンが、本来の自分たちに立ち返って、日本人として再び歩み始めたような・・・Oyazとしては、希望的観測に過ぎるのかも知れないが、少しくそう思える。

誰かが言ったが、たしかにこらからは、金儲けのためなら嘘八百語っても執着しつづける金のもうじゃの「バカ連」と、芸術や野の花の美しさや可憐さ、自然の厳しさに素直に驚く本来の感性を持ちつづける「自遊人」に2極分化するのかも知れない。

頭の良し悪しの「馬鹿」と「利口」ではなく、
金の有る無しの「勝ち組」と「負け組」でもなく、
「バカ」と「自遊人」の壁が、できあがりつつあるのかも知れない。
それさえも気づかない、バカまるだしの西田というシャジョーの哀れな最後が、テレビには映っていた。

「ネット取引は罪悪だ」と何故誰も言わない?

Feb.2,2006

現代ニッポンジンを更にダメにし始めたものがある。
「ネット取引」だ。
記憶に生々しい「ホリエモン事件」、それはネット取引をするニッポンジンの多さをも露呈した。
何故ホリエモンがつかまっただけで、東証のコンピュータ処理能力が限界寸前まで追い込まれたのか?

その第1は、今まで最低50株単位、100株単位でしか取引できなかった株を「100分割」して売り出したライブドアの日本証券史上かつてなかった「学生でも買える手ごろな単位」に引き下げたことがあげられる。それを考え出したのは現ライブドアに今もとどまり代表権を持った取締役である弱冠29の若造:熊谷ナニガシだ。(ホントーは彼も捕まるべきだった!)

第2は、高校生あるいは中学生でもふつうに(というか、片時も手離せない中毒症状を呈している)携帯電話の「決して芳しくない」万人への普及が背景にある。証券会社、先物会社が競って「ネット取引」の網をこさえ、手数料を店頭の10分の1、20分の1へと割り引きして、顧客を増やしてきた。

このふたつの要素で、ライブドア株には、何千、何万もの主婦が・ニートが・フリーターが・営業マンが・大学生が・高校生が、1株単位の何百円単位で手軽に、そしてメールをやりとりしたり携帯ゲームするのと全くおんなじ感覚で、東証コンピューターへ一斉にアクセスを始めていたのである。

だから「ホシエモンショック」が襲って、それらズブの素人さんたちが「株価が暴落する前に売り抜けなくちゃ」と右往左往し狼狽売りに走った4~5日間、東証の一日の全取引量の90%がライブドアonlyとなり、証券史上始まって以来の異常事態は起きたのだ。政府の金融庁長官みずから東証の社長を呼んで、コンピューターの処理能力を今すぐ引き上げろっ!世界№2の証券市場がナニやってんだっ!外国人投資家にソッポ向かれたらドースンダッ!コケンにかかわるぞっ!なんぞと怒鳴りちらす始末だ。携帯端末を操作するそこらへんの学生が、おとなりの主婦が、ニートが、フリーターが、ニッポン政府の要人と、ニッポン経済の中心をつかさどる人々をガタガタ言わせる構図ができあがった瞬間である。庶民が政府と経済界をゆさぶる意味では大変コキミ良いが、実体のないマネーゲームで一攫千金をモクロミ、汗して働くことを止め、端末操作に一日中のめりこんでいく安直庶民が増殖しつづける実態が浮かび上がり、バカポン国の行く末がますます真実味を帯びて、危うく思われた。ハッキリ言って、モノすご~クッ、あぶないゾッ、このニッポンていう国!!!

その世界の大火傷も経験してきた海千山千Oyazだからこそ、まだ染まっていないみんなにははっきりと言うぞ。
「ネット取引は罪悪である」
「一日中PCと携帯電話にとりついて離れないのはビジネスではなくて、ただの麻薬中毒と一緒だ」
「そんな端末機械で心身ともに廃人になる前に、額に汗してケンメイに働けよっ!ロードー社諸君!コツコツ働くことをコバカにすんなよ。まじめさを忘れんなよ。平凡でつつましくも誠実な家庭が、この世で1番幸せなところである、と知ることだ。わすれんなヨ。」

ホリエモンノヨーニ、ブタバコニハイッタリ、シャッキンアリジゴク、ゴクモンハリツケ、ニナラヌヨーニ、アナタハ、ケッシテ、ソノセカイニアシヲフミイレテナリマセヌ(モリノオババ)

ズンつぁん、バンつぁん、ケンちゃんと

Feb.1,2006

現代企業に求められるものは【①スピード&②若さ】である。
と、経営者や経営指南書は異口同音にそう言う。

いや、これから先、そうじゃない部分がますます増えてくる。
と、逆にOyazは思っている。

知的障害者が働ける場をこさえ、ケーキ屋を始めて、今は9人の「知的障害従業員」に月給7万円・ボーナス5ヶ月分をあげるまでになった店がある。
と、新聞で知った。

Oyazは今年の6月からビニールハウスで‘葉牡丹’栽培にとりかかる。作るのは3万鉢。11月の出荷時期には何人、人がいても足りぬ、‘ネコの手’状態になるだろう。出荷前の鉢のひとつひとつから、下葉の枯れたのや雑草を取り除いて、出荷商品として整える手間がゴマンと要るからである。そこには、若くて頭の切れる口八丁の俊英社員など、必要ない。おしゃべりしながら作業台を囲む、ジッちゃんバッちゃん、少々頭と体がスローなケンちゃん、がいればいい。スピードだの若さだの、東大出だの、ITだの、偽装だの、マネーゲームだのは必要ない。ただ黙々と、単純ながら根気強く、作業をこなせる人、そういう仲間ならだれでもオッケーだ。

だから、これからOyazがやろうとする農場には、「若さ」あふるる切れ者や「スピーディ」な要領のいい奴なんて要らない。ジジババたちと、Oyazがハゲ頭なようにほかの部分に障害のある者たちの、いこいの作業場たりうる、そういう所にしたいのである。老人と障害者も働ける場所。こういう形態こそ、これからの時代に適合するものだと思える。月7万円はとても支払いはできないが、一日中働いても「1000円」くらいにしかならない多くの働きたいハンディキャプたちと元気な熟年にとって、少しはましな、明るく、楽しく働ける場所になれれば最高だ。そんな、ちっぽけながら、ワタシなりに、ワタシのできる‘Oyazの作業場’を、身近な自分の地域で実現してみたい。
今はそう思う。
「スピード」ではなくむしろ「スロー」で、「若さ」ではなく「老い」で、いいのである。


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