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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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「板垣死すとも自由は死なず」って???

2007-09-12 02:22:00 oyazの投稿 
我々日本人は確かにオザワが言うようにまだ本当の

「議会制民主主義の成熟を見ていない」のである。


たとえばアメリカのブッシュはある企業や産業界の代表として

政治家をやっているのであって、あるグループの利益が上がるように

法律を変えたり、外交的圧力を加えたり、核で威嚇したり、国連を

無視して単独でもイラクやアフガニスタンというよそ様の国に暴力団まがいに

ジェット機とミサイルで攻め込み、市井の人々さえ殺めることさえ行っている。

つまり、政治家とは、極めて偏った、ある利権団体の組頭なのである。


だから、日本のように、

八方美人的な、博愛主義者の万人受けする政治家なんて本来

いないはずなのである。

「自民党」はTOYOTAや松下やCanonなどの鉱工業等の産業経済界を

代表する主張団体なのであって、決して労働者や百姓の味方ではない。

だから、我々庶民である百姓や、会社勤め人たちが、選挙のたび毎

「オレは今度は自民党の小泉がいいと思う」とか

「私は今度は同じ自民党でもシンゾーはダメだと思うわ」とか

そう言うこと自体まことにナンセンスきわまりないのだ。


何故ワタシのようには貧乏ではないにしろ、多くの日本「貧民層」が

富裕層の代表である自民党の「だれそれがいい」とか「悪い」とか

自民党を選ぼうと議論するのか?不思議でならない。

「貧民層」に属するほとんどの庶民は庶民らしく

共産主義者の山田洋二監督や、

「ご苦労ーさんっ労働者諸君!」と連呼する寅サンよろしく

労働者や一市井は、われら貧民たちを大切にしてくれる党に入れれば

いいだけの話である。「中流」とは決して経営者でも金持ちでもないのだから。


「板垣死すとも自由は死なず」的な

カッコよさや美しさ、潔さ、に日本人は弱いが

政治家とは本来、どっかの偏った、グループや層を代表する圧力団体。

そう、きちっと認識して、初めて、こらからの日本では

ようやく政治力学のバランスを考えた「選挙」を我々はできるようになる。

三島由紀夫とPapa

2007-09-10 04:12:04 oyazの投稿 
自分が中学2年の秋

三島由紀夫は東京市ヶ谷で、楯の会の憂国の士として檄を飛ばし

現代人である我々が初めて目にする「切腹」という衝撃的手段で果てた。

ワタシは即座に「三島は芸術のために死んだのだ」と同級生たちに語った。

35年以上経て、その考えは、基本的には今も変わらない。



「Papa」と愛称されたヘミングウェイも自らをライフルで撃ち抜いた。

自分が生きたいように生き、作品も、名声も、才能も、常人でない彼らが

なぜ最期の「生き方の終わり方」に自殺を選んだのか?



では「芸術のために死ぬ」とはどういうことか?

他からの要因、老衰でも、病死でも、事故死でもなく、

「自らの人生を自らの手で幕引きする」自らのエゴで死ぬこと。

その死を敢行するまでの筋書きと舞台は異なるが、

自らのエゴを押し通して死ぬことに決めたのだ。

結局、三島もPapaヘミングウェイも、そうした。


「ぼんやりとした不安」のために自殺したと言われる芥川龍之介、

その彼を敬愛してやまなかった太宰治もまた自殺で果てる。

「美しい日本の私」でノーベル文学賞受賞の講演をやった

現代日本文学の「美」を生み出して見せてくれた川端康成も

三島由紀夫の死に衝撃を受けたらしいと言われながらガス自殺した。



1億人の中のほんの一握りの人しか立てないお立ち台に立つ人でさえ

最期に「自殺」をして果てるのは何故か?

エゴという「強烈な自我」の自己主張を自身抑えられない結果か?

「長生きしたい」と思う多くの凡人とは違う彼らの目には

世の中はどう見えているのだろう?

少なくとも彼らは「平凡な幸せ」に安住できるような「平凡な自我」は

持ち合せていなかったのである、生まれた時から。


誰にとっても生きるとはある意味「修羅」を生き続けることではあるが。







人類みなショウガイ

2007-09-09 04:11:25 oyazの投稿

娘が不登校からひきこもって6年。

赤ちゃん帰りを経て、今や、堂々たる知的障害者。

勉強はモチロン、身の回りのことはほとんどできなくなった。

下のことさえ、自身コントロールできないことも。

最近は四六時中母親であるワタシのパートナーにまとわり付いて

「キスしましょっ!」「やめなっ気持ち悪いっ!」の応酬が繰り返されている。

勿論、そんな娘だから一緒に畑に連れて行っても何一つ手伝えるわけでもない。


一時は、そんな娘が、将来自立して食うに困らないために、

と思って始めた花栽培農業でもあったのだが、「娘のために」は

まったく余計なおせっかいだったな、って最近思いなおしている。


さて、最近気づいたのは、いつかは皆、障害者になるんだってこと。

「自分だけはそうはならない」と思っている人ほどあぶない、とか

「考えてみれば歳をとれば足腰が弱りやがては障害者になる」とか

そういう意味合いのことを言いたいわけではない。


「人間のひとつの能力としての、障害になる能力」のこと。

それまであんなに活発に外で自転車に乗り、バスケで走り回り、

毎朝本読みを欠かさなかった子が、対人恐怖症のようになり、

家から一歩も外に出ようとしなくなり、社会から自らをシャットアウトし

そうこうして4~5年経つ間に、運動能力を司る能力が衰え、

反射神経が衰え、まともな会話ができなくなり、知的障害、発達障害

という様子があきらかになってきた。

いわゆる「まともになる」「もとのような健常者に快復する」様子はない。

むしろ、どんどん知的障害が進んでいる観さえある。


そうして気づいた、娘は実は「障害者になろうとしている」のでは、と。

「故意に演じている」というのではなく、自己防衛のため無意識に

脳が「障害を発症することでこの子を守る」的に作用しているのでないのか、と。

人は何か生きにくいことがあった時、生きにくい障壁があった時、

その壁を乗り越えるために「病気を発症する」のではなかろうか、と。

だから一見知的障害、精神障害に「陥る」ように見えるのは

そういうネガティブな意味で「陥る」とか言って扱うのではなくて、

むしろポジティブに「変身して」その人はその困難を乗り越えようと

している。人間のひとつの能力を持っているのではないか?

そうワタシは考え始めているそう考えれば朝青龍もそうかもしれない。

人が「患う」のは逆に何かを乗り越えるためのステップを踏んでいる

そういうことなのかも知れない、と思うようになった。

「死」が近づいて「ボケる」のもまたしかり、

死という恐怖や苦痛を乗り越えるための人間のひとつの能力なのである

きっと、だから、人は皆、障害者になる、

その能力を持っているのである。


台風9号がまともに来る

2007-09-07 03:51:54 oyazの投稿 
日本の皆さんは認識しているだろうか?

山形県ほど災害の少ない県はないってこと。

お隣の新潟県はここ数年、豪雪と地震にダブルで見舞われ、

弱り目にたたり目的に、ものすっごくつらい苦難をこうむった。

山形もいつ地震が来てもおかしくない「空白地帯」を抱えており

新潟同様、いつ天災に襲われるかはわからないのだが。


さて、今回ばかりは話が違う。

この台風9号は、現在、その「災害のない県」にも

まともに突っ込んでくる形勢であり、ちょっと楽観視できない状況なのだ。

ワタシのような農家はことさら心配が人並み以上に募る。

せっかく昨日まで順調に生育してきた稲も果樹も花も

風速30~50mの暴風雨が通過していけば

被害甚大なることは火を見るよりも明らかだから。


昔っから、百姓は、自然の脅威の前には「なすすべがなかった」だろう。

森の鎮守様、お不動様、カミサマ、ホトケサマにおすがりするほか

手はなかったのだろう。現代とて同じ。このコンピュータ時代にも

人は災害を阻止できない。


超強大国アメリカさえ、核兵器を持とうが最新鋭迎撃ミサイルを持とうが

「カトリーナ」の暴風雨とその被害を防ぐことは全くできなかったように。


人は傲慢になったのか?

人為的に何でもできると勘違いしだしている。

縄文時代が、何の進化も変革も遂げずに(実に不思議なことだが)

2000年続いた歴史をもう一度考えてみる時に来ているのかもしれない。




ヨカン

2007-09-05 05:48:53 oyazの投稿

「平凡が一番」

「一人の人と死ぬまで添い遂げる難しさ」

「この世に生き続ける苦行修行試練」

「ブラザーサン&シスタームーン」

「この世でしか価値のないお金」

「人間関係の煩わしさ」

「ハイジのオンジ」

「予感」


ワタシの生きる価値観のモノサシになっているキーワードを

アットランダムに思いつくまま並べてみるとこーなった。

己の価値観も頭脳も人間性も、所詮こんな浅薄さしかない。

しかし、いかに博覧強記な脳の持ち主だろうが

商売にたけ、大金持ちになろうが

(すぐに辞任せざるを得ない)大臣に上り詰めようが

どんなに世界中を旅しようが

パートナーを何百人取り替えようが

人のこぶし大のアタマはそう変わるはずもなく

思考が急に深まるわけもなく

寝る広さが拡大するわけでも

三度三度フランス料理のフルコースを美味しいと思うわけでもない。


畳半畳にあぐらをかいて

茄子漬のふたきれやダシで

あったかいご飯をいただく「幸せ」を

人は本能的に本当はみな分かっている。



首はクルマのハンドル

2007-09-04 06:44:02 oyazの投稿 
今時の人は「首ブリッジ」って知ってるんだろーか?

プロレスラー(今はK1ファイター?)たちがよくやる、アレ。

手を使わず、首だけで体を支えてブリッジする技。

2年前、ワタシも久しぶりに体を鍛えようと、若い時にしていた

「首ブリッジ」をしたら、突然左腕がしびれて思うように使えなくなった。

「すわっ!」と、あわてて血相かいて整骨院に駆け込んだ。


「Oyazサン、何をしました?」

「え~、、、、首ブリッジ、、」

「はぁ~?、、、、あのね~Oyazサン、、今時、首ブリッジて誰もやらないですよ

トレーニングジムでも。すでに首の筋肉の強化できているプロレスラーや

柔道家なら大丈夫ですが、そうでない素人さんが

いきなり首ブリッジなんかやったらアンタ

神経断裂して、こんなふーになるに決まってるでしょうがっ!!!」

「(ボーゼンとしながら)ハー、、、」としか言えなかった。

「神経が2~3本切れたんですな、その首のところで」

と、人の神経を簡単にセンセーは切って捨てて、電気マッサージをONにした。


そんなことがあった。

簡単に切れるンだソーダ、神経って。

今でも、農作業で体を1ヶ月も酷使しつづけていると

左腕全体と指先がしびれ、痛く重い感覚麻痺状態になる。

そんな時はあの無情なセンセーの言葉を思い出して、

首筋を揉んでみる。すると不思議なことに痛みが和らぐのである。


そうして悟る、首はクルマで言えばハンドルなんだと。

エンジンは心臓、コンピューター制御装置は頭脳、手足は両輪、、、

中枢部分は確かに大事なんだが、それはハンドル操作一つで

いかようにでもなるわけで、その操作の要であるハンドルが大事なんだと。


そー言えば、「首相」というのも「首」と書く。

さしずめ内閣官房は心臓で、幹事長が頭脳ってーところか、、、

鬼門の農水大臣をはじめ各閣僚を一箇所で束ねて握っているのが「首」相。

初心者マークを付け忘れたヨーダ、安倍心臓クンッ!

儲け方 変わる百姓

2007-09-01 02:44:45 oyazの投稿

お金の儲け方はシンプルである。

売上(販売高)に対して、経費(コスト)をいかにかけないで

利益を残すか、経理上はただそれだけの構図である。

ここ15年くらいの日本企業の動きを見ればそれは顕著である。


バブルがはじけ、消費者の購買力が弱くなった。結果、社会全体で

モノが売れなくなって、日本企業全体がマイナス成長期に入った。

その中で生き残るために企業はなりふりかまわずコスト削減に突き進む。

従業員の賃金を下げた、原材料や人件費までも中国やアジアに求めた。

工場そのものを賃金の安い外国に移す企業も多数現れた。

ユニクロがそうであり、TOYOTAやSUZUKIもそうである。

100キンという信じられない値段の店も登場し、今も存在している。

すべてコスト削減に成功したからこそ存続し、儲けを出せている。


「損益分岐点」とは要するに、

原価50円のモノを何個以上売れば利益が出るのか、その境目のこと。

だから企業にとっては、車なら「販売数がGMを抜いてトップ」とかが重要なのだ。

それもこれも、売上(販売高)-経費(コスト)=黒字、という儲け構造が

基本設定されて、できていることが大前提である。


そこにいくと、日本の百姓の「大間違い」は

「なんでもたくさん作ればいい」という感覚でこれまできたことである。

そして「コスト意識」が極端に希薄だったこと。

身近な例では、農業資材をJAに買いに行く。

すると百姓は年末に一括して口座から引き落とされなおかつお得な

ポイントが貯まるというJA買い物カードなるものでツケで買ってしまう。

ここが最大の「感覚麻痺」「コスト意識ゼロ」の温床になっている。

5000円も、5万円も、50万も一色単に年末引き落としのツケに

回してしまって、個々のコストを把握しないで日々の生産に汗している。

これではいくらコストがかかっているか分からないから、

何を、いくらで、何個売らなければならないのか、

そういう基本的な戦略が全くできていないことになる。

こういう点でもJAは生産者をJA生き残りの食い物にこそしているが

良きフィナンシャルアドバイザーには全くなっていない。

百姓も直接中国から資材を輸入したり、JA以外の小売業者に

見積り競争させたり、もっとシビアにビジネスしない限り

100キンやマックのように、低単価でも「儲けが出ている」企業のようには

なれない。


それにしても、マックの100円バーガーは瞠目だった。

100円でも50円の黒字を出せているとのことだったから。

単価は安いのに収益構造がしっかり計算されていた。

驚くべきことだった(何の肉なんだ?って話題にもなったが)


だから百姓も、一ビジネス企業として、JAとの馴れ合い

ご近所づきあいはやめにして、コスト削減に血眼になってみればいい。

そうすれば必ず、利益は残せる構造ができあがる。

流通業者も今までのお付き合い的な業者は切ってしまうことだ。

市場も手数料だけ取って、生産者に味方しない市場なら切ることだ。

生産者の百姓だけが赤字で、

JAも流通業者も市場も黒字、だなんてバカな「いじめ」から

そろそろ百姓はきっぱりと決別しよう。
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即物人間

2007-10-31 05:50:30 oyazの投稿 
ハボタンの出荷のピークを迎えている。

1鉢100円の時があったかと思えば

昨日なんか25円という人をバカにしたような

値段の時もある。そういう日は妙に落ち込む。

そして思う「ニンゲンって即物的だな~」って。

目の前のお金が多いか少ないか、

目の前のお菓子が多いか少ないか、美味しいかまずいか、

そのどっちかで、気分が高揚したりめいったりする、、、実に即物的で

単純なセンシビリティである。

そのレベルは犬猫と変わりないのじゃないか。


株の値段の上がり下がりに心みだされ

ガソリンが月ごとに値上がりしていくのに蒸気し

優しく諭しても力づくでひっぱってもガンとして言うことを聞かない娘に

時間も仕事も平穏な気持ちもひっかき回され、くたびれる、、、、、、


でも、ハボタンが安かろうが、ガソリンが高かろうが、ムスメが

どうしようもない病気にかかっているか、大バカであっても

別に、ワタシの腕を1本失ったワケではないし

足をなくしたワケでもないじゃあないか、

ましてムスメを亡くしたワケでもない。

だからそんなに目の前の事象に一喜一憂しないことだ。

もっと遠くを眺め、思い、深考し、直面する課題を飄々とこなし

雲に浮かぶ仙人の境地で、生きてみたいものである。


されど現実は、なんという低レベル、、、、

刻々と刻まれゆく時間の拘束の中で

確実に年を取り、じわりと消滅に近づいていると言うのに

いつまでたっても目の前の些事に心奪われ汲々とし続ける日常

ニンゲンがそんなにも即物的に一喜一憂するしかない存在として

何故カミサマはこさえなすったのだったろう?


さて、乗り越えられるか「即物」

そうして「高見」へ行けるだろうか、自分は。


「天才」Kandinsky、「天才」Oyaz

2007-10-27 03:11:51 oyazの投稿 

時々人から見ると「突拍子もない」発想がひょいっと出てくる、

「ワタシは最近、脳が天才化してきたかも」、、、とか、、??


天才ピアニスト:ホロビッツ、天才数学者:プレマン

天才宮大工:西尾常一、天才段ボール画家:日比野克彦

天才コピーイスト:糸井重里、天才文芸評論家:小林秀雄

天才画家:Kandinksy、Oyaz

、、、皆、何が天才なのかといえば一言で言えば

その「表現力」である。


結論から言えば、人間の真の喜びは「自己表現の楽しさ」に極まる。

自分に一番あっている方法や分野で、人は皆「表現者」である。

たとえばワタシの場合はそれが「絵」であったり、最近なら

「ハボタン」であったり、「ブログ」だったりで、自己表現している。


では何故「ワタシが天才化してきた」ように感じるか、というと

表現構成(バランスと色使い/線/形の妙)が陳腐でなく

計算づくでもなく、自然に、瞬間的なのに我ながらハッとするほど

「職人ハダシ」「芸術家裸足」的に“天才的”になってきた

からである。では何故そうなったかといえば、これまでに見てきた

世界中の景色や建物やオブジェや人間や食べ物や音楽やウイットが

自分の中で昇華され自分の感覚の一つとして身につき「我考えずして

作品あり」のごとくに、作品が出来あがるようになってきたから。

それはインプットされたものを脳がそしゃくし、新感覚シナプスや

俵屋宗達的熟達の技をマネブ脳が覚え自力化し、ワタシの腕を通して

表現できるようになってきたからに相違ないのである。

そういう意味をこめて言っていたかどうかは今は訊くすべもないが

「良い作品はみんなどんどん見れば良い」と小林秀雄は言っていた。

情報や方法をインプットし、脳蔵で熟成し、アウトプット(表現)する、

その繰り返しこそ、人間の表現生活なのであり、日々の「生きる」と

いう活動、そのものなのである。と今は思う。

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固定給と「商売」収入、二束のわらじのススメ

2007-10-26 09:29:55 oyazの投稿 
最近ようやくお金の何たるかを

冷静に見えるようになってきた気がする。


はっきり言って、現代流通の通貨はモチロン「金」ではないので

ただの特殊印刷の「紙」またはコインという「何の値打ちもない金属」で

しかない。であるからして「はじめ人間ゴン」のバカでっかい石の

お金と、現代ありがたがっているお金とは、本質が全く変わりはない。

むしろ今や電子マネーとかいって、売買の有無を記録さえ残せば

仲介物/媒介たる「印」としてのお金なんか実際に流通させない方向に

来ている。株も先物もデリバティブもおんなじ。「マネーゲーム」じみてる。

ただ「ゲーム」ではないのは相手がイッチョーマエの取立て厳しい店主

だったり1円たりとも庶民には負けない銀行員だったり

証券マンだったりするので、「大損」を出した時に「今のはほんの

ゲームでした、どーかリセットさせてください」とはいかないことである。

この現実世界はもともとが「現物主義」が基本だから

子どものゲーム機と違って「リセット」は勿論「過去に遡っての訂正」は不可。

「時間」と同じ法則である。「決して止まらない、まして逆戻りしない」


その時間の中で生きていくしかない我々は、だから常にお金も稼がなくては

いけないし、稼いだもので食べ物を買って生き抜くしかない、宿命にある皆。

さて、そのお金である。現在ワタシは4つのお金の稼ぎ道を持っている。

一つは日給7000円のパート、もう一つは9000円のパート、

主業の農業収入、そして株や社債などの不労所得/損失、の4つ。

その中で「農業収入」の部分が「商売」の分野である。

いまも昔も「商い」は「飽きない」でやるしかないし、良いものを作れば

高く売れるようになってくるし信用もついてくるってことが最近わかってきた。

たとえば一つ50円でしか売れないものが

良いものだからと100円で買ってくれるお客さんが出てくると100万円の

売上が倍の200万円に跳ね上がる。また40万かかっていた経費を

20万で済ますことができればまるまる+20万の黒字になる。

そういう意味では自分のスキルの向上でモノが高く売れ、仕入れの

工夫でコストを下げられる余地があるから、サラリーマンにはない

儲けのチャンスが「商売」にはあるのである。


高等数学に没入する孤高の人、ヒャクショー

2007-10-24 05:27:26 oyazの投稿 
おとといNHKTVで数学界のノーベル賞というのに選ばれた

ロシアの数学者プレマン博士が謎の失踪をするまでを追った

ドキュメンタリーを見た。100年間誰も証明できなかった数学の

難問をついに解き証し、しかし、その直後に数学の研究所からも

サンクトペテルブルクの住まいからも姿を消してしまう。

名誉も金も彼には何の価値もないようだ。


そんな点では日本には、自分も含む身近な周囲を見渡しただけでも

金とプライドにこだわる人々が捨てるほど、わんさといるというのに。

ワタシの「主業」である農業分野でも

金も儲からないのに「理屈」だけは百人百様の高等数学的「自慢」や

「一家言」「いこじな信念」を持っている人が山ほどいる。

おまけに皆がそれぞれ数学者のように一人一人独立して

他者とあいまみえない。トラクターやコンバインも各農家がそれぞれ買って

一年に一週間位しか使わないもんだから、百人が百人「儲かりっこない」。

そういう意味では結果的にはヒャクショーも「孤高の数学者」には

似てはいるのだが、、、。

決定的に違うのは

「金も名誉も喉から手が出るほどほしい」くせに

金も名誉もどちらにもまったく縁遠い、ということである。


「あ~ワタシたち百姓にもノーベル賞はいりませんから

もっとお金を!」

「進歩」なんかしていない現代ニッポン人

2007-10-22 04:39:10 oyazの投稿 
機械やパソコンが進化したので現代は「進歩」したかというと

そうではない、と「断言」すらしてしまいたくなる、このワタクシは

儲からないニッポンのただの一百姓。


何故そう思うかというと、たとえばニッポンだけ見てみても

子どもや若者に「元気」がない。大人はもっとそうかもしれない。

「活気がない」「人情もない」「楽しそうでもない」「やりたいこともない」

みんな良いクルマに乗って、ブログを作って、メールをやり取りし

そこそこの汚い今風のファッションに身を包み、マックやモスで

舌鼓を打ち、爪に仁丹や夜祭で売っているビーズのような装飾を施し

へそを見せながらチャラチャラと歩き、と思いきやいきなりメタボのデブが

おっかない目をむきながらくわえタバコで軽自動車のハンドルをきっていく。


本当に良いモノや、ニッポンの良い文化や風習をかなぐりすてて

アメリカでもヨーロッパでもアジアでもない「宙ぶらりんなニッポンジン」を

やっている。


でも「自分たちの感覚には自信を持っている」はずだし

「音楽は大人たちにはわからない飛んでるセンス」を皆がそれぞれ持っている

アイポッドなる類のものもみんなそれぞれ持っている、

自分世界が手元にいつもある、携帯と一緒に。


ダカラ、ソレガ、ナンダッ!?

進化でも進展でも発達でも深化でも真価でも新価でもない。

「自己実現」性が希薄になっている。

気がするのはワタシだけか?今の「社会が悪い」のか?

そんなら、社会を逆に渦中にいる君たちが変えてみろ!

ニートやワーキングプアなんて言葉でいつまでもくくられてないで

自分たちの行動で、今の社会の仕組みや形態を変えてシマエ!

いつまでも「オーベーカ」って、頭を小突かれっぱなしで

アタマに来ないのかニッポンジンッ?一人一人の生き方しだいで

社会って変わるんだよ、若い衆!社会は後からツイテクル。

「欧米流の企業」にいつのまにか飲み込まれてはいけない、若者よ!




人間世界の不確かさ

2007-10-21 00:28:51 oyazの投稿
ワタシは、言葉で

思いを紡ぎ、機で織りあげるように詩にすることもできれば

借りてきたり既成概念に凝り固まった無骨な鎧を身につけ

論客に向かい、かみ合わぬエゴなゴリオシで貫くこともできる。


そういう意味では言葉は絵の具である。

使い方や組み合わせ次第では、柔らかで心地よいパステルカラー

使いこなせぬ時には、汚い、濁った、悪寒のする組み合せが出現。


動物と人は何が違っているかって、

「表現力の豊かさ」なのだと思う。

しかし、その表現のモトイとなる人の心はいっつも「豊か」なワケ

ではなく、むしろ「無表情」だったり「乏し」かったり「浅薄」だったり

「苦悶」だらけだったり「混乱」だったり「悲哀」だったりする。

それは音の表現では「運命」だったり「喜びの歌」だったり「ピアノソナタ」

だったり、様々な表現にココロを見ることができる。


そういう様々な思いや感覚を「自己表現するスベ」

それを「創造」と言うのだ。


自由とは本来、

欧米的フリーダムでも、金の持ってるものが生き残る自由主義経済

でもなく「自己表現を、美しく創造するに用いる様々なる意匠や術」の

自由だった。

今の日本の子どもにも、大人にも、‘人間の美しさ’を教えたり

‘創造’こそ人が生まれた時から備わった偉大な力であり

‘心の自由なる豊かさなのだ’と説く人は、本当に稀になったのか。


木原光知子の衝撃

2007-10-19 06:47:31 oyazの投稿 
59歳、クモ膜下で逝く。

普通の人ではない、オリンピック選手であり、親子水泳の指導者、

楽しく健康を謳歌し、スポーツのある高齢社会のシンボル的存在の

ひとりだったはず。全身運動である水泳を長年ライフワークにし

新陳代謝能力も運動神経能力も血液循環力も人並み以上だった

はずの人が、「突然クモ膜下で60もかぞえることなく逝く」なんて、、、

50もすぎたら、明日はどうなるかわからぬ「無常」なことが

いつ誰に起こっても不思議ではない年齢世界、、、、そう捉えたほうが

いいのかも知れないと、今回のクモ膜下は教えているみたい。


ただ、ワタシは「死」を恐れるのではなく

「死」とは何なのかを若い時から考えてきたし、

自ら死のうと思ったこともあった。

そして最近は「死」とは死ぬことではなく

生きおわる、おえる、ことであると思えてきた。

「悔やみ」とは「苦止む」ことだと、落語で語られていたが

この世が楽しいことばかりではなく、むしろ人間にとって苦しい

修行の現世であるとするならば「苦止み」はまさにもろもろの

苦しみからの「あがり」なのであり、終点なのだ。

生まれしものは皆早晩、生きおわる日が来る。

先輩諸氏はその「生き終り方」を子や孫に手本を見せている。

最後の最期までどう生きるか、、、ワタシはそう考えるようになった。

イチアクのスナ、カナシキがんぐ、15の心

2007-10-18 04:59:04 oyazの投稿 
不来方(こずかた)のお城の下に寝ころびて空に吸われし 十五の心

ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく


                 
               石川啄木、本名を一(はじめ)。26歳2カ月で逝く。


かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る


             石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』
            と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、
            薬もくれないし、来てもくれない』という。自分で夜具の脇を
            あげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿。
            『これじゃいけない、何よりも、とにかくまず好きなものを食
            べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどこ
            ろか!米さえ…ない』と顔を歪めて笑った。(金田一京助)

             自宅に引き返し、自身の一ヶ月の生活費を持って駆け戻
            ってくる。『ほんの少しですけれど』と、うつむきながら手を
            差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言
            わなかった。『無躾だったか』と気遣いながら二人を見ると、
            石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。
            節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとした。


コンド、石川啄木記念館から啄木の詩集本の完全復刻版が出るそうな。

本人がいない今、どんなに本が売れても今更しょうもないことではあるが。

とはいえ、たった一行の詩が万人の人生の節々にふっと思い起こさせる

印象鮮やかな天才詩人啄木だが、一体何万行の詩をこさえたら本ができ、

その本を何冊出したら死ぬほどの貧しさから脱することができたのだろう、、

詩、それは分厚い一冊の本よりも確かに人の心に留まり生き方を変える、、



    けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ

    みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ

    (あめゆじゅ とてちて けんじゃ)



雨にも負けず 風にも負けず 雪にも 夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ、、、、、


東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず

苦にもされず そういうものに わたしは なりたい


『下ノ畑ニ居リマス』賢治

 

                      


                             

人間は宇宙の塵からできている

2007-10-15 01:47:41 oyazの投稿 
地球の歴史は約46億年だそうな、、正確に言うと

45億3000万年前、、、だったかだそうな?いずれにしても

随分とおおざっぱな「約」である。7000万年も四捨五入されては

人間の歴史なんて無いに等しく、微塵だな、と思われた。


さて、「宇宙」のお話をするBS2の番組をさらに見聞していた。

我々人間を形作っている細胞の元素は宇宙にある元素からできている由。


混沌とした銀河系で、ある時、巨大な星が最後を迎えて起こすと考えられる

「ビッグバン」が起き、その大爆発によって星と星がぶつかり、

合体吸収を繰り返され、今日の太陽系ができあがり、地球も誕生する。

しかし最初から地球に人間がいたわけではなく、恐竜が支配していた。

メキシコのユカタン半島に彗星みたいな大きな星が衝突し、気象が激変。

その「恐竜の住む地球」は「哺乳類が幅を利かす地球」へと変貌をとげ、

今日のわれわれ人間の住む地球が誕生した、、、、、、と

科学者は、見てきたような嘘を語るようにもっともらしく解説した。


ただワタシは「ビッグバン」の大爆発で粉々に飛び散った元素と言う塵が

今日の我々も形作っている、ということには、素直に納得できた。

人間はそのひとりひとりが、言わば「小宇宙」であり、

46億年以上も前に計算や法則という姿に変えて存在する神の

ムゲンダイの一、くらいの分身であるはずなのである。そうして

たかだか80~90年の人間と言う生命体が終わりを迎える時

人は元素となって再び宇宙に渦巻く塵に帰る。

そう考えていたワタシは、この番組を見てさらにそう確信した。





感情VS.論理的思考

2007-10-13 06:50:39 oyazの投稿 
思いやりと知識

愛情と知力

ぬくもりと機械

ソフトとハード、、、、、


どんな天才秀才の頭脳の持ち主だろうと

優しさやいたわり、人の気持ちをおもんぱかる「心」「愛」がなければ

人が人としてお互いに暮らす日々、生きる毎日はきっとちっとも

「楽しく」ない。


赤ん坊が乳を飲み育ち、ヨチヨチ歩きしだし、「ア~、、チャン、、」と

言葉のような呼びかけを発し始め、モノを認識、自覚し始め、大人から

良い悪いの基準を教えられ、学校で「一つの形」に型にはめられ、

そこから反抗や暴走し、紆余曲折して、人間はやっと一人前になる。


その過程は一筋縄ではいかない。うちの3番目は、学校で型にはめられる

途上で暴走し、離脱し、社会からドロップアウトし、精神がゼロにリセットされ

1から出直し、赤ちゃんからもう一度人間をやり直している最中にある。

彼女は今小学校4年生レベルまでようやく生き直したどりついているみたい。

TVやその他の情報を瞬時に吸収し、言葉にしてしまう能力たるや

「天才タケコ」かとミマゴウーばかりで、舌を巻く。

だが一方で一番大事なはずの母を拘束したり、こずいてみたり、

困るような要求をしきりにおねだりしたり、モノをわざとちらかしたり

機械を壊したり、徘徊したり、鍋を焦がしてみたり、ご飯を炊飯にしないで

いきなり「保温」に入れメッコ飯にして台無しにしたり、、、、枚挙に暇がない。

それもこれも「思いやる心」「思慮」の欠如、に思える。学校や本から

知識は吸収できても、「愛」を教われない子どもたち。

「愛の学校」はなかなか無いのであり、あっても時間がかかるのである。

「愛は時間をかけてはぐくむもの」、、、19歳の時そうワタシは考えていた。

教育という「モロハノヤイバ」「二律背反」

2007-10-10 20:35:49 oyazの投稿 
机に足を投げ出した姿を見たワタシは

思わず「なんだその行儀の悪さはっ!」と怒鳴っていた。

「なんだ~このおやじ~??!」と若い衆は憮然ガオ。

一言でやめない若い衆に、血が上ったおやじは

「なんだっ!ってんだ!この足は、犬猫だってそんなこたーシネーゾッ!」

って逆上して若い衆の机の脚を力づくでなぎ払う。

「そーゆー横暴が気にくわねーんだっ、コノ、スットコドッコイッ!!」って

若い衆が本気でおやじにケリを思いっきりお見舞いする、「デュボッ!」


と、まー、戦後のりっぱな教育を受け、躾が肌身にしみこんだおやじと、

アメリカナイズされたフリーダムを享受して育った世代との

「馬鹿みたいな力と力の戦争」が始まる。


どんなにハーバード、ケンブリッジ、オックスフォード出の優秀な大人でも

いまだに、この現代においてさえ、「馬鹿みたいな力と力の戦争」をやめない。


何のための知識、何のための力、何のための躾や教育なのか、

「バカナ我々ニンゲン」はもう一度、考えてみよう、、、




にんげんバトル

2007-10-09 06:17:42 oyazの投稿

「自我の意思」を持つ人間同士が一つ屋根の下、

暮らし続けるって、平穏な日々ばかりではない。

まして成長期/思春期/反抗期の子においてをや、、、


内向的にマイナス方向に引きこもっていたムスメが

ここ1週間ばかり前からがらりと、外交的にプラス方向へ

180度転換した。散らかっていた部屋や棚の整理に始まり

TVやパソコン、電話機、自転車をいじくりまわし、動かしこそ

しないが自動車の運転席にすわり機器のスイッチを操作する真似をする。


突然、一緒に乗っていた車から降りて歩き出したり、逆にドアに足を

はさんでドアを閉めさせなかったりする。ドアの前にしゃがみこんで動かない

こともある。そうした場面でワタシが渾身の力を振り絞ってもドアにかけた

足をどかすことができなかったり、しゃがんだムスメが岩になったかと

思われるほどの力で抵抗するので持ち上げることが不可能になる。

「子泣き爺じい」がムスメに乗り移ったかと本気で疑ってしまう。

それほどに、今の攻撃的に外交的なムスメは強力である。


昨晩もバトルが繰り広げられた。2日~3日、徹夜で眠らないムスメに

付き合わされてヘトヘトに疲労困憊しているつれあいにゆっくり休んで

もらおうと、夜勤のないワタシが寝室への階段やドアの前で弁慶のように

門番を務めて、ムスメがつれあいの安眠を邪魔しないように見張りについた。

しかし、「なんで~!!」といいながら「子泣き爺じい」のものすごい力は

そんな弁慶を押しのけ、掴まれた腕も振り解き、バリケードを突破してしまった。

起こされたつれあいも巻き込んでふたたび長い夜のバトルが繰り広げられた、、、


「自我の意思」を持つ人間には、自身、制御できない、うまくわれの肉体を

コントロールできないことがしばしばある。まして肉体と精神の成長過渡期に

ある若者においては、なおさらである。共同作業を課せられた家族はそんな

爆弾のような子の成長に付き合わざるを得ない宿命があるし、バトルがある。

一筋縄では「平凡な幸せ」「普通」というのは手にはいれられないのである、

カンタンそーなのに。




刻々変わりゆく

2007-10-07 15:40:08 oyazの投稿 
ここ1~2週間前からの朝晩の寒さが

ハボタンを元気付け、硬くしまって、色づかせ始めた。

一般大衆の皆さんは、花屋さんやホームセンターの園芸コーナーで

完成した大人の花やリーフものしかお目にかかることがないだろうが

ワタシたち生産農家は、赤ちゃん苗から大人の親になるまでの

その成長の過程を逐一見ており、双葉から始まる形の成長する様子や

摩訶不思議な「色づきの七変化」を目の当たりにできることが役得。


「プロセス」をこそ楽しんで、感動できるのが、本来のガーデニング。

そういう意味では、人間も同じであると思える。

きのうのワタシは、同じワタシなのだが、きょうのワタシではもはやない。

若かりし頃あんなにふさふさとあった髪の毛も、今はない。

そんな形の変化ばかりではなく、人間は植物同様に、色や性質が

刻々変わってゆく。

それは、カミサマがその固有種に与えたプログラミング済みのソフトに

したがって基本的には変化して、成熟し、やがて老い、枯れていく。

プラス、人間の場合そこに個の「自我の意思」が変化の道筋に大きな

針路変更をかけることも大いにありうる。

しかしどんなに強力な「自我の意思」があったとしても、

眠らずに1週間仕事をしつづけたり、老いることをストップしたり、

不死身の肉体を手にすることは、どんな権力者でもかなわなかった。

ピラミッドを築いたエジプトのファラオもミイラになって副葬品をゴマンと

添えさせるくらいが関の山だったし、不老長寿の水を探していた仙人は

不老長寿の水と称して日本酒を飲んだくれていたし、極楽浄土に行ったら

黄金の部屋で暮らせるように豪華な仏壇を勧める坊主はきっと仏壇屋から

みつぎものをもらいつづけて、われら衆生をだまくらかしてきた。


小さい時一見ダメな苗も、丹念に手をかけ、根気強く水遣りを怠らずに

つきあってあげれば、その種のもつ強さによって、見事に大成する。

だから人を「今がダメだから」といって見限ったものではない。

人間ってそれほど「ダメじゃない」、むしろすごい能力もセンスも

ウイットも持っているのである、どんな子も。


東北人への誤解

2007-10-06 05:17:50 oyazの投稿 
絵ろうそくは、戦国時代から日本では作り始められたそうな、、、

会津若松のそれにしても、鶴岡、新潟産の絵ろうそくにしても、花柄が多い。

「長い冬のため、光に対する憧れと、花に対する憧れがあった、と思う」

と現代絵ろうそく職人が、とってつけたようなことを言っていた。

しかし、ワタシはそれは「ウソだ」と思う。


この手のことがしばしば語られるたび、ワタシは妙に反発し、誤解だと思う。

「東北人は、厳しく、長い冬のために、言葉数が少ないのだ」

「単語が短い、寒いからあまり口を動かさずに済むように」、、、冗談ではない

昔から冬になると東北人の口は凍って開けられなくなったとでも言うのか?

東北人は冬の間会話らしい会話をほとんどしてこなかったとでも言いたいのか?

「冬→雪→寒い→言葉少な→暗い/内気→光や花への憧れ」

一見正しいようでいて、まったく東北人を単純化し、誤解した発想連想である。

「寒いから」なんて「そんなのカンケーネー!」のだ。


子どもたちは雪が降れば犬のようにはしゃぎまわり、竹スキーや

雪だるまや、雪合戦に興じ、カマクラを作ってはその中で餅を焼いて食べ、

爺ちゃんや婆ちゃんが昔語りを語り聞かせ、お手玉やオハジキ、

パッタやスゴロク、剣玉、独楽作り、竹馬作り、凧作り、などなど

をして、東北の子どもたちは、むしろ冬を大いに楽しんで遊んできた。

四季がはっきりしている分、感受性/情操豊かで、表現力があり、

むしろ他の地域の人々よりも多弁なのではないかと、おっかちゃんがたの

他愛のない、延々続くおしゃべりを聞くともなく聞いていると、そう思える。


「寒いから言葉少な」、、、そんなに単純な構図ではないし、

その言葉でさえ、東北人が同じ東北人の言葉を理解できないほど

バラエティに富んでいる。むしろ東北人の言葉は豊かなのであり、

それは、東北の自然そのものなのであり、節々の四季の美しさを享受し

反映しているとさえ思えるのである。決して熊のように冬の間は

活動を停止し、冬眠し、口を閉ざして生きてきた、わけではない。

むしろ雪ウサギのように「色」を変えて、雪原を駆け回って遊んでいた。

それが、東北人の正しい理解、であろう。


感性/Sensibility

2007-10-03 06:06:29 oyazの投稿


たとえば、このひまわり。

この画を見て、ゴッホのひまわりを連想する人はあまりいないのでは

ないだろうか。なぜならば、このレモンイェローの柔らかく暖かく

透き通るような天真爛漫な鮮やかさは、ゴッホの感性とはあまりにも

隔たった次元の感性で切り取られた作品になっているから。


これはpapikoさんの『毎日キラキラ*ポラロイドカメラが好き』の最近の写真。

ワタシはこれを見た瞬間「ハッとして、黄色と伸びやかな構図に魅了」

されてしまった。ひまわりの花びらの上と下が切れているなんてのも

普通の写真家や画家なら「許されない」構図取りの原則かもしれないのに

それも見事に破ってしまっているにもかかわらず、一層魅力が画面

いっぱいに(というより画面からはみ出して)いきいきと輝いている。


人の感性の面白さに出逢うって、楽しいモンです。

それはもしかしたら、自分自身の感性の幅を広げ、磨かれていく

ことに結果的になっていくのかもしれません。昔、小林秀雄が

「いい絵や作品は若いときからどんどん見ておきなさい」と言っていたが

要は、そういうことを教えたかったのかもしれない。

このひまわりに出逢い、感動し、また自分とは違う瑞々しい感性に

接し、自分もまねしたいものだと憧れる、そんな自浄作用が

自分の中で起きるのを感じながら、今はそう思えるのである。

風変わりなノー業家

2007-11-29 07:00:44 oyazの投稿 

ワタシは自身のことを「百姓」とか

「百姓Oyaz」と呼んでいるが、実はそんな名称とは似ても似つかない

絶世の美男子にしてアーティスト、、、、な~んて~ことた~勿論ない。

冗談はさておき

別にいつまでも旧態然とした大昔のドン百姓や水のみ百姓のまんまで

甘んずるつもりはない、、、、、、、。

ムロン、農業を志した初志は通したい。

美しい日本の田畑と山野の風景をなくさない為の億兆分の一を担い

その上に、自分の作りたい物を機械貧乏に陥ることなく、できる限り

無農薬で済ませられるならそうする「人としてごく自然な農業」をやり

たいのである。しかし、生活するためにはどうしても現金がいる。で、

花卉栽培を実業として始めたが。、、、儲けをなかなか出せない現実。


赤字を出すために花卉栽培をしているわけではないし、ましてや

資材納入業者や運送会社、市場経営の手助けにボランティアで事業を

続けているわけではないわけだ。なんとかかんとかここまで来た初冬。

起業2年目にして収支+-0までに近づくことができ、黒字にこそなら

ないが、2年目で初期投資をすでにほぼカバーできたという意味では

上出来かもしれない。でも、肝心な、家族の人件費、自分の収入

である「儲け」が残せなければ起業し事業を継続しているイミはない。

だから「儲け」を出せるようになる為に、ワタシはこと花卉部門は

「水のみ百姓」に甘んずるつもりはまったくないのである。農業を

ベンチャーととらえ、既存の考えややり方ではない色々な

方法や切り口、農業らしからぬ発想で、実際に実践して失敗し

ながらも、儲けを残せる方途を懸命にいつも試行錯誤しながら

モガイテいる。


表面だけは、風変わりなそこらにいる百姓オヤズにしか見えない

かもしれない「おっさん」だが、実にその頭の中には

固定観念も、しがらみも、師弟関係も、農協も農業委員会もなく

何者にも縛られない未開拓地に挑む飢えた冒険者がいるのである。

未開の原野に近代文明の利器はない。

なければあるのもので工夫するまでだ。

たとえば野牛がいたら捕まえて飼いならして耕運機代わりに田畑を

耕させる。モチロンそんなものはいないので自分の肉体を牛馬にして

人力一馬力できょうもうない、うなるだけだ。


徒手空拳で、固定観念にとらわれないのが自分の強みだ。

人に笑われようが、時代遅れと嘲笑されようが、鼻で笑われようが

馬耳東風と、気にしない。失うもののない風変わり者の強みだろう。

さあ、風に吹かれていこう。目下、金はないが

風の吹き方一つで、天気さえわかる

そんな嗅覚、臭覚を百姓ノー業家は身につけ始めているから。



要る事業、要らない事業

2007-11-29 05:32:31 oyazの投稿 
ワタシの町の道路はここ数年デコボコ。

市が進める下水道工事の業者が入れ替わり立ち代り

掘ったり埋めたりしている、その結果。


業者はスズキ組だったり山花工業だったりイマイチ建設だったり

今まで聞いたこともない零細、中小の地元企業らしいが各エリアを

ほぼ公平に分担して工事をしているふうに素人には見える。

国も地方自治体も財政再建/行政改革の大号令の御旗のもと

公共工事を減らし続けてきた。それに群がってきた建設関連業者が

食っていけなくなってきた。倒産する企業、廃業する企業も増えてきた。

そんな趨勢の中、「決して必要性が高くない」下水道事業を県と市は

推し進めている。本菅部分は県や市の公共工事予算で行うが

敷地内の配管工事は我々市民が100万も200万も自己負担して

任意で業者を選定し、施工依頼し、金を支払わなければならない。

これって、市民に財政負担させる「新手の」公共工事に思えて仕方が

ない。だって、今までの浄化槽や雑排水の設備で日常生活はまったく

支障なく快適だったのに、オダイカンサマは一方的に下水道工事を

土木建設業者にシゴトを回すためにムリクリ創設して、いきなり

我々貧乏にあえぐ庶民に大金を自己負担させる手に出てきた。

町ぐるみで年に何回かの側溝掃除だって毎年してきたし個人で

雑排水槽の定期点検や清掃を業者に依頼し自己負担しやってきた。

だから町の側溝や雑排水になんら問題はなく、清潔である。なのにも

かかわらず行政が下水道工事を推し進める意図が市民には不明、

不可解だ。下水道工事が各家庭で完了した暁にはより一層側溝は

雨水以外流れない清潔なものとなるらしいが。水道料金は下水道

料金が上乗せされ、倍近くに増えるらしい。これってどう考えても

我々庶民に不必要な工事代金を否応なく負担させておいて建設業者

だけが潤う構図になっているとしか思えない。市はオカネのない人には

「無利子」で下水道工事代金の資金を貸し出す制度まで作っている。

これって明らかに市がこの事業を進めるのが後ろめたい何よりの証拠

と言い切ってしまいたくなるほど、憤懣やるかたない気持ちがする。

わかってるんだガ~?このワークプア時代の庶民の暮らしの貧しさを

行政に携わる市長も、公務員も、、、、、、ったぐ!




裸のオーサマを感知する人の能力

2007-11-28 09:42:58 oyazの投稿 
ヌカガ某の「黒界」証人喚問要求がかまびすしいが

どんなに彼が厚顔無恥の鉄面皮で、シラをきりつづけようと

すでに「ウソこき」であることは国民の目にはもはや明々白々なだけに

当の本人だけが、まだウソはばれていないかの如き言動を続けること

ピエロのごとし、であり、マヌケも大マヌケで、滑稽千万である。

まったく笑うのもアホらしい、裸のオーサマ、ヌカガさま、だ。


そのヌカガさまは、長年「シェンシェ~シェンシェ~」と言われ続けて

鈍感オヤズになったのか、自分こそはカミサマ仏さまだとでも

思い込んでいるのか、言葉以外の「人の感知する能力」があることを

忘れてしまったらしい。論戦やロジックや詭弁には長けてるのだろう

が、言葉以外にコミュニケーションがとれる「人の能力」を

侮っている。人が、言葉で意思疎通を図っているのはせいぜい

2~3割。あとはそぶりや顔色やその人の置かれた周りの状況

などで2割かたがわかる。その人の人となりを知っている人であれば

過去のデータや癖や傾向から1~2割が類推できる。そうして

我々が犬や猫やその他の動物と相対した時の「直感」「気」「気配」で

その相手が怖がっているか、警戒しているか、好感しているか、欺こう

としているかが、瞬時にわかるように、人には相手のウソをも見抜く

能力が備わっているのである。そこんところがわかってないで

言葉だけでシラをきりとうそうとしている人のなんと多いことか!

武術の試合同様、こちらの弱みを相手に気取られない「強い態度」も

時には有効だが、ことヌカガ某の場合はもはや「ウソ」がばれすぎた

後だけに、こちらの国民観客サイドとしては白々しい一人茶番劇を

またしてもマツオカ某よろしく見せられている気がして、飽き飽きする。


また一人、自業自得でこの国会から、あるいは「世」から

去っていく日は遠くない、と予知してしまう、、、、よ、ね、、、、みんな



5欲

2007-11-27 13:05:54 oyazの投稿 
人間の欲って、5つありそうだ。

食欲、性欲、知欲、物欲、自己顕示欲。


動物にもまたこの5欲があると思うのだが、

人間が他の動物より著しいものは

「知欲」でないのか、、、と最近、思う。


昨今の人間界は世界中で「金、金、金」とカネ至上主義ばやりだが

その多くは物欲や自己顕示欲に属する部分に占められる。

それでどんなに大金持ちになったとしても満足できないのは?

結局、知的満足が金儲けだけでは充足されないからだろう

おそらく、そうだろう、と考えている。


金がほしいのはモチロン物欲だし、いいベベきたり、外車に

乗ったり、5億円の豪邸を建てたり、湯水の如く贅沢三昧の

限りを尽くしたいと思うのは物欲と自己顕示欲そのもの。

そんなことはありえないだろうが、頭はどうでもいいわけである

金儲けには。大金持ちの方で、知的な学究肌の方や芸術家で

ある人ってあんまりいないのではないか?特殊な人種では

天皇家の人々があるかもしれないが、例外中の例外。

なろうとしてなれるものでもないわけですし、、、、


ワタシのなかで世界に誇れる、これが日本の芸術家だ、って

思えるのは「本阿彌光悦」と「俵屋宗達」の二人である。

彼らがどんなに金に困らず、作品作りに没頭できたのかは

詳しく知らないが、少なくても、2007年の今現在において

彼ら二人の後にも先にも彼らを超える日本人はいないと

極めて個人的な偏向ですが、そう思えるのである。


「知的」にも「フォルムと色の絶妙さ」や「遊び心」も

教養や文字や絵付けのこなれた達筆と伸びやかさ、

こういったものが満足できる人間というのはあまたの

人類の頭数のなかにもごくごくいないはず。

「知欲」を極めた達人、大金持ちではなくそういう人に

ワタシがあこがれるのは、何より人間という本性が

知的創造に一番心惹かれるものであることを物語っている

のだと、個人的きめつけ男にはどうしてもそう思える。



7~11月・5ヶ月が過ぎた

2007-11-26 00:45:37 oyazの投稿 
サム空の十五夜は鑑賞にはちと肌身にこたえ過ぎるが

澄んだ初冬の夜空に、その月はくっきり冴え渡り、いい。


本来なら「明日のハボタン出荷終了」を迎えるにあたり

家族へのご苦労様の気持ちをこめて乾杯し、大いに飲み

明かしたいところであるのだが、あいにく本日もホテルの

徹夜勤務で、月夜の出勤である。、、、

本来なら、少しく今年のハボタン栽培の反省と

「今後の課題と対策」を大真面目に語りたいところだが

日中の出荷準備作業を終え、22時から翌日の朝までの

徹夜勤務という自虐的なまでの酷使をすると

アタマはモーロー、体がユッウラユッラと揺れ始め、

立っているのが困難になってくる。結果、思考が前に進まない。

そいう事情なワケで、「大真面目な反省と次の手」は

次回ころあいをみはからって、語ることにしよう。


ただ「大幅黒字こそ逃したが、2年目にして対経費+-ゼロの

売上は達成できる見通しが見えてきたので、

そいつぁ~百姓2年目、それもたったの5ヶ月の栽培と出荷のみで

の話なんだから「タイ~シタもんだっ」って自画自賛して

家族と自分自身をねぎらってあげたい。


Tenkey・・・天気転機転記

2007-11-23 00:46:46 oyazの投稿 
殺人事件、交通事故、自然災害、食品偽装、耐震偽証、記憶にないという

国会議員痴ほう症、株暴落、石油高等続き、トウモロコシ相場急騰とファンド

と呼ばれるハゲタカ集団の台頭、ブッシュ政権支持率凋落の一途、どっちも

どっちフクダトオザワの狐狸庵、1億総中流から総プアへ、

超高齢社会、福祉施設ハードの充実となり手のない介護員は新3K、

ゆとり教育から詰め込み教育・お受験地獄へ復古回帰、二枚舌の

バイリンガル日本の子供たち、ゴルフ最年少賞金女王、最高60億で

売買されるプロ野球選手という「商品」、レベルが上がっても勝てない

日本男女バレーの不思議、刻一刻と着実に進む温暖化、11月大雪

日本気象の異変、何故そんなにTV出るの?三輪・江原・細木の怪

、、そんな今のKeyWordを徒然に並べてみる2007年初冬の世相


我が家に目を転じれば

いまだしだが引きこもり症から徐々に社会復帰ラインに向かい始めた三女と

お供の白猫2匹と、半世紀生きてみた夫唱婦随夫婦の、平々凡々とはいえな

いがそれでもまんずまんず短波の如くな泣き笑いの案外幸せな一家の日々

が続く東北の冬、、、勿論、総プアの一翼に属する正会員。



「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬ

もののあるべきか」、、謡曲『敦盛』の一節は信長のみならず脈々と日本人が

持ち続けてきた情緒的人生観。


その半世紀を生きたニンゲンは今「おまけの人生」を迎え、これからが本当に

自由で、生きたいように生きていい、そして自分の本領を思いっきり素直に

発揮することのできる「人生の集大成」時代に入った、と言える。


「見よ、この自由闊達を」と、見せられるものなら見せてあげたいくらいの

何にも臆せず、遠慮せず、人の偏見を気にせぬ伸びやかさをワタシは

手に入れた。それがあるから、時に寒気に包まれた畑でひねもす出荷

作業に追われ凍傷寸前の極限状況で気が狂わんばかりになっても、

徹夜勤務の連続が数日続くような心身辛苦の「金取りシゴト」が続いても

苦にせず、乗り越えてしまえるのだろうと、思われた。

中年っておもしろい!と今は思う。



世界で一番きれいなトイレ

2007-11-16 23:36:56 oyazの投稿 
ミナサンはありうべからぬ、この麗しき瑞穂の国に生まれ、育って

何の疑問にも思わないで毎日

トイレの水を2回、3回とジャージャーと豪勢に流し、その上

勢い良くカラカラッっとトイレットペーパーをワタ飴職人の如く

手繰り寄せてはあらん限りふんだんに使っている人が

多数なニッポンジン、だと思いますが、、、


そういう「幸せイッパイ」なニッポンジンのミナサンに

少し、外国の話をさせていただきますね。

実は、トイレの水圧に何の不思議も感じぬまま轟々と流せるって

国は実は日本をおいてない、かもシレナイ、と思うほど

外国のトイレの水事情は悪いのが普通です。

まして中近東においてなんぞは「紙」なんぞ、ご法度。

「大」はジョーロに汲んである水と指だけで済ませるのが「当たり前」

だからこそ「左指は不浄な手」なのでありまして

あちらで左手でモノを食べようものなら白い目で見られるわけです。


さて、瑞穂の国は「日本」唯一かと申しますと世界に

もう一つだけありまして、それはスカンジナビア半島の「北欧」です。

あそこはただ「フィヨルド」の国であり、日本とは地理的な成り立ちが違い

氷河が解けた深い断崖絶壁の入り江と尾根の連なりという国土なの

ですが、緑と水が豊富で、木を大事にするお国柄や水道水をそのまんま

日本同様に飲めるという点で、やはり瑞穂の国と言えるんです。

しかしそんな北欧ですらトイレの水圧は低く、フィヨルド観光の拠点の

ホテルではシャワーの水の出が悪いことがしばしばです。

フランスや、ドイツのトイレの水圧事情も似たようなものです。

日本同様、トイレットペーパーをガバガバ使って流そうものなら

たちまち詰まってしまいますし、次の水が貯まるまで時間もかかります。

ですから、ペーパーはトイレには流さないで専用のくずかごに入れるよう

大き目のくずかごを用意してある所も多いんです。それを知らずに特に

日本の若い女性たちが日本同様、使用しようとすると失敗するわけです。


外国に行くと、そんなトイレ事情ひとつから我が日本が見えてきて

いかにふんだんできれいな水に恵まれた希少な国であるかを認識しますし

いかに水と紙も無駄に消費しているかが、反省を含め、思われてくるのです。


経済時評とファイナンシャルプランナーを盲信しない

2007-11-16 09:24:14 oyazの投稿 
昨日、車を運転中、ラジオを聴いていてフムフムと思ったことがある。


ファイナンシャルプランナーのコメンテーターが番組のアナウンサー氏に

「国内株と外国株をミックスした長期投資が結局は得だとはわかりましたが

で、BBさん、今後の日本の株の見通しはどうなんですか?」と振られると

女史いわく即答した、「わかりませんッ!」って、きっぱりと!!

アナウンサー氏でなくとも「あんたファイナンシャルプランナーでしょっ?!」

って反駁したくなる。しかし女史の答えは実に現実的で的確だった。

「上級アナリストも、1級ファイナンシャルプランナーもみんな日本の株は

1万8000円になるだろうって予測をしてたんですよ!今1万5000円代。

結局サブプライム住宅ローン問題なんて出てくるとは誰にもわからなかったし

それが引き金で急激なドル安が進むこともこれまた予想できなかった。

結局、株が今後どうなるかなんてベテランの専門家でさえわからないんです」

。。。。車の中で話を聴きつつ、実に胸がすく思いがした。


そもそも上級アナリストやファイナンシャルプランナー、証券会社経営者や

役員たちが「長者番付」に名を連ねたことをご記憶の方がいるだろーか?

ワタシの家の近くには占い師で脳梗塞で倒れた男性が住んでいるが

占い師もアナリストもファイナンシャルプランナーもワタシには似たような

人種に見えてしょうがない。


明日のわが身さえ占えない、予測できない人に何故人々はアドバイスを

受けたい、何か安心の一言でもいいからもらいたい、と群がるのだろう?

もっと自分を信じろよってワタシなんぞは言ってあげたい。

宇宙とおんなじ同位元素をもつ我々人間である。

目に見えない磁力や波は常に我々の周りに働いている。

心を素直にして、いつもキャッチしようとさえすれば特別な人でなくても

近い未来は「見える」もの。疑心暗鬼になったり、いたずらに不安

がらないで、素直に何かに耳を澄ませ、行動する。

それでいいんじゃないのか。



ハボタンのバラ以上のおもしろさ

2007-11-07 11:23:31 oyazの投稿 
ハボタンとはアブラナ科の観賞用のキャベツ。

と、書いてしまえば、名前からしても田舎くさい、野卑な植物に

一見思えることでしょう。ワタシも最初はシクラメンやバラやデルフィニューム

などには到底及びもつかないただの「キャベツか白菜」くらいにしか思えなかった。


でも2年目になる今は、そう思わなくなった。何故ならハボタンは花こそないが

花のようにバラのように結球し、中心が赤やピンクに色づき、しかも花のように

繊細でないのでかえっていろんなアレンジを容易にできる。つまり花束や

寄せ植えや、バスケットアレンジメントに打ってつけの素材なのである。

「つぐみ」などという種類はそれこそトゲのない一輪のバラそのものである。

匂いこそしないのでそこはまったくもって花と異なる点だが、

さまざまな色と形を組み合わせてオリジナルなバスケットを作り始めると

楽しくって、はまってしまう。これほど素材に繊細な注意を払うことなく

大胆に自分のアレンジをためせる「花の素材」はないのではないだろうか。

ワタシの自己表現手段は主に絵を描くことだが、ハボタンのアレンジは

それに通じるものがあって、なおかつまったく「生き物」という点で

絵の具やパステルとは異にする素材である。

「葉牡丹」見るからに聞くからに古臭い、陰気くさい、安っぽい印象だが

その種類の多さや苗から刻々変わる色の変化の絶妙さに触れると

むしろ若いアーティストこそ手にするべき、いろんな提示や展示の可能性を

秘めた、「まだ世間の人が気づかない」アナウマ的な存在だと感じる。

それは、今までに見たこともない魅力的な「積み木」を発見してしまった

そんな驚きがある。

ほしいものは手に入らないこの世の法則

2007-11-06 07:40:02 oyazの投稿 
「良いもの」と「お金が入る」とはイーコールにはなかなかならない。

今年のハボタンは「良いもの」ができたが夏の暑さと虫食いで

多数がダメになり、収穫量が半分位まで激減。その結果出荷して

1鉢あたりの単価(評価)は去年よりも高いのに、全体の売上は

去年の3分の2くらいで止まったまんま。このまま11月が終われば

総売上では昨年の2~3割減で終わることになるだろう。

そうなったら2年目も農業会計は「赤字」に転落する、というか

去年同様、赤字ということになる。モチロン去年の大きな設備投資は

ないので赤字幅は小さくはなっているが。


いずれにしても「金がほしい」と、金を増やすのを目的に心がいやしく

変わった時、金は自分のところには来なくなる。むしろ遠のく。

そうなると「自暴自棄」になったり、すべてがイヤになって「ヤメ」て

しまいたくなったりする。


かくも自分というニンゲンは金に執着し続け、その金を満足に手に

したことがない。なさけなく、金にほとほと縁のない、不運な人、らしい。


で、金に心が縛られない人、になることを決意するのである。

金のことは放って置いて、「良いもの」づくりに集中するのだ。

納得する芸術作品を生み出すことだけに腐心すればいい。

結果、金の評価が低くても「見る目のないヤツばらばっかしだな」位に

気にせぬことだ。きっと後から評価は、いつかツイテクルはずさ。

「金はアトからツイテクル」ものだと思いたい、

そうにちがいない、

きっと、おそらく、タブン、めーびー、、、

天は人の上に、、、人の下に

2007-12-30 11:13:50 oyazの投稿 
金がないと嘆き続けて数十年、、、

しかし、本当に月40万、50万もらっている公務員が幸せ

なのか?まして、年俸1億数千万円、あるいはイチローの

ような数十億円もらえるニンゲンが幸せなのだろうか?



答えは

「その人間になってその人生を演じてみなければわからない」

と言うしかないのかもしれないが。



結局、自分と他人の給料や収入を比較してうらやましいと

思うのは「単純でおかしげな嫉妬」以外の何モノでもない。


体重や身長、顔の良し悪し、髪の毛の有る無し、成績の良し悪し

運動神経の良し悪し、芸術的才能の有る無し、語学力の有る

無し、几帳面さの有る無し、気配りのできるできない、思いやり

のあるなし、爪の形の良い悪い、熱いお風呂の好き嫌い、そば好き

うどん好き、肉好き魚好き、下戸上戸、喫煙嫌煙、せっかち

のんびり、子供好き子供嫌い、犬好き猫好き、車好き自転車好き

アナログ好きデジタル好き、ノーマルアブノーマル、下駄好き靴好き

ブリーフ派ボクサー派、でぶタイプ筋肉タイプ、オカマ好き女好き、

自然好き都会好き、古典好き新し物好き、巨人ファンアンチ巨人、

親米反米、米好きパン好き、目に見えないものを信じれる人

そうでない人、、、、、、、、と思いつくことをアットランダムに羅列

しただけでも何を持ってその人の「幸せ」と言えるか、窮する。

金の多寡はそんな、人の持ち合わせた力量や好みやめぐり合わせの

ほんの1項目でしかないのがおぼろげにも、わかってくる。

むしろ、巡り合い、一緒に生きるヒトなりと楽しく生きているか、

自分の才能や持ち味を自分の納得できるまでに出せているか

のほうがきっと、個人がこだわる、大事な部分なのだと思える。


ヒトを殺す権利と行使

2007-12-28 11:48:45 oyazの投稿



人が人を殺す権利なんてあるのだろうか?

各国の法律はこうで、政治バランスは現在こうで、

軍事バランスはこうなっていて、大義名分はこう作れるから、、、

と理由付けして、大国はナラズモノ国家に「少数決」の原則で

軍事侵攻した。これを裁くもっと強い国はほかにはないから

フセインを含む「人殺しはまかりとおった」。


自分の子どもが誰かに殺されたら、たいがいの親はそいつを殴り殺し

そのあと、自分も死ぬだろう。個人的には感情的に心情的にそうなる。


宗教、過激派のいかんにかかわらず「自爆テロ」とはそうした

個人の「腹くくり」と「非合法な行使/実行」以外の何ものでもない。


ブットが暗殺され、それを取り囲んでいた無名の人々が数十人

殺された。たった一人の個人の個人的な感情と実行で。

悪いのは、世間一般に言うように、物騒な国パキスタンでも、

聖戦や自爆を神の名のもとに潔いとするイスラム教でもない、と

ワタシには思える。自爆テロでブットを殺し自身自爆するまでに

追い込んだ社会が悪い、と思える。その総張本人がムシャラフ

その人なら、ムシャラフこそ悪い。


9.11のテロの本質を、悲惨と凄惨の物凄さのあまり、

みな目を背けがちだが、オサマビンラディンを、地獄の火であぶられた

としても最後の一撃でオマエの喉仏を突き破ってやるッ、と追い込んで

しまったのが、歴代のアメリカの為政者たち、そして世界中で自国に

有利な商売を、力づく、札束づく、法律づくで、利権を我がものにし

て、のさばってきたアメリカ経済人、実業人、軍事関係者たちに

他ならないことを忘れてはならない。9.11のテロがあったから

アメリカがそれに対抗すべく立ち上がった構図ではなく、もともと

アメリカは自分のパワーと論理で好きなように世界を蹂躙してきた

しっぺ返しが、余りにも悲惨で人道を全く無視したこの世で考えられる

もっとも非人道的なやり方の人殺しとして9.11があるのである。

無論、オサマビンラディンも死刑だが、ブッシュと著名な財界人、

それを支える有力政治家たちも、死刑、もしくはそれ以上の刑、に

処せられるべきである。


何故「アメリカのやり方は悪いッ!!」と世間は騒がないのか

頭の悪いワタシには不思議でならない。日本は何で在日米軍の

ために「思いやり予算」を血税から支出しなければならないのか?

何故、アメリカ大使館だけ地代の支払いを延々と支払い猶予し

続けるのか?払う気がないからだし、日本が払って当りまえ、

オマエタチを北朝鮮や中国、ロシアから軍事的に保護しているのは

いまだにまぎれもなくこの「宗主国」アメリカなのだから、

そうコエタカラカニ言っているように聞こえるのは、難聴の

ワタシだけか、、、












ヒトも犬猫同様に「やっている」のかも

2007-12-26 06:17:09 oyazの投稿



ワレワレ人間は、猫や犬や鳥より上だと思っている。

飼い主である人間様は彼らに餌を「やって」飼って「やっている」。

おもちゃのように愛玩したかと思えば、八つ当たりのはけ口として

叱り飛ばしたりもする。


飼われているほうからすれば、迷惑なハナシである。

だいいち犬猫鳥はおそらく、このニンゲンに「飼われている」だ

なんて自分たちは思っちゃいない。媚びて餌をねだるようなしぐさを

するのは、食わんがための彼らの『処世術』であって、決して

飼い主を尊敬し、忠誠を誓って、服従しているからなのではない。


野坂昭如が脳梗塞で倒れ、リハビリを続けている現在、

わずかな分量ながら、毎日新聞に「七転び八起き」という文章を

連載しているが、彼の最近の文章のなかにこんなのがある、

「死の前には人間はみな平等である」。金持ちも貧乏も

名誉のあるヒトもないヒトも、利巧もアホも、男も女も

昔記憶力抜群だったヒトも昔から記憶力がなかったヒトも

昔絶世の美女だったヒトも昔からそうでなかったヒトも

すべからく「死の前」では平等だ、と。然り、然り!


ワタシは50人ほどいる老人ホームの夜警のバイトをしているから

野坂の言う言葉は実に実感を持っておおいにうなづける。

いつ、自分の順番が来るか、とみなが思いつつ、毎朝

ぞろりぞろりと起きてきては数少ないオカズの朝食を済ませ

「おでかけ」といえばたまのスーパー送迎バスでの買い物と

あっちコッチのいろんな科への病院通い、と決まっている。

実に、我々ニンゲンは「死の前」で平等である。そういう意味でも

われらニンゲン様もカミサマか宇宙のゼッタイ法則管理者が

生かして「やっている」類のペットみたいなもんだと、ふっと

思ってしまうのだ。




ふたたび、高山辰雄

2007-12-24 13:46:34 oyazの投稿


彼は大分県生まれで、小学生の頃に「画家」を目指していた。

のちに東京美術学校に主席で入り、主席で卒業する。

後半部分はワタシとまったく違うが、小学生から画家を志していた

あたりはまったくワタシと心を同じうする類の人だった。


さて彼の写実力は圧巻で、鉄なら鉄の音がする如くに描き分けられた。

けれど、それだけだった。同世代の山本丘人にそのことを指摘されて

高山辰雄のホントーの画家の道程がスタートする。

彼は風景を描くことで、人物を描くことで、花を描くことで

そのモノを動かし、生かし、いざなわれているような「生命力」を

終生描こうとし続ける一生となる。それは愛情あふるるまなざしとか

受けを狙った凝ったデザインとも違う、栄誉を得んがための作為でもなく

宇宙やそれを動かしているエネルギー、同位元素の同じ人間と宇宙の

つながり、我々生きとし逝けるものの存在の根源とは何なのか、を

絵で探求し続けた求道者の「表現」にほかならなかった。


映像には、彼が70~80になろうがカンバスを眺めすかしつ、時に

眺めていた脚立の上から後ろ向きに飛び降りたり、ふるさと別府の

海辺に出かけては裸足になって海を「肌で見る」姿が記録されていた。

そうして由布岳の近くの丘に登り、風雨の中でも自然に溶け込んで

耳を澄ませて命と宇宙の息吹を一体になって感じていたいとでも

念じているかのような、表面だけ老いた哲人の姿が残されている。


「生きるとは」どういうことか、「生かされて、どこへ我々は逝くのか」

女性とはどんな生命力の存在か、子供たちは、家族は、、、、、

そんなありふれた、しかし世界のいずこにも普遍的な生の不思議と

畏敬と探求、をオオマジメに90数年生きながらしてきた彼の

人生であった。



高山辰雄の描きかた

2007-12-23 16:31:20 oyazの投稿


きょう新日曜美術館で高山辰雄を見た。

名前や作品は知っていたが興味のない人だった。

しかし今日の番組で彼が何を描こうか、という

観念的な考え方を聴いて、ああ、そういうことなら

共感できる、と思え、師と仰ぐことにした。

けれどわかったことはもう一つ、

よわい90何年を迎えても、命の何たるか、

自身の生の何たるかは、やはりわからないままだった、

ということ。そして、それでいいんだ、俺は生きた、描いた、

悔いはない、できることならもう一度生まれてもう一回

描いてみせたい、、、、、、そう、言っているような気もした。



ワタシも今もって自分は画家だと信じて疑わないが

それはマンガだったり、イラストだったり、版画だったりして

この高山辰雄に比べると、随分チャランポランだな、と

自分で自分の「姿勢」に、きょうはガッカリしてしまった。

でも、90過ぎの彼の人生観は、宇宙を含めたこの世に生きる

ものの生命の不思議、イカサレテいるかのような科学的神秘、

そして自己のいくつになってもわからない存在意義、などは

まったく自分とおんなじレベルだと、共鳴し、トレースできた気がする。

そういう意味で、ワタシは既に死んでしまった人と

きょう、運命的な出会いをしたのである。

「気」とは何か

2007-12-18 08:24:04 oyazの投稿


「病気」は「気」を病む、こと。

病んだ気は風邪のように周りにうつる。

反対に、元気な人のそばにいるとこっちまでなんか

知らずにパワーをもらったように元気づくってことは

誰しも経験している。

つまり、性質として「気」は、触発する、のである。

それは小説を読んで感動したり、映画を見てその気に

なったりする状態も、同様、「気」が働いているから。


では、根源的に「気」とは何なんだろう?

それは、体も心も頭脳も経験も感情もやりたいこともやりたく

ないことも好きも嫌いもできるもできないも正直も嘘も実務人も

夢追い人も演歌歌手もオペラ歌手も津軽三味線もハープも

健常者であろうが障害者であろうが、その人のもつ全人格の

中格(コア)、である。


いわば人の根本の一番中枢になる部分である。

だから人は挨拶する時「元気ですか?」と聞く。

「気」は健康ですか、健在ですか、息災ですか?と。


別の言葉でムリクリ言えば「気」は、魂であり、スピリット

であり、生霊である。だからこそ人に影響を及ぼし人から

影響を受けるのである。

「気功」とは本来、ただの健康法ではなく、この人間の根本を

掃除をしたり、メンテナンスしたり、準備体操したりして

宇宙の中の、リズムに包まれながら、自然の法則空間でこの時間

生かされる我々が、平常心でいつもの正直な自分であたるために

ちょっと居住まいを正して構えを整える、準備法なのである。




生物界のニンゲンという性悪

2007-12-13 13:26:10 oyazの投稿 
非情に、ノベルっぽく言えば

この世には2通りのニンゲンしかいない。

裏表を使い分けるニンゲンと、そうでないニンゲン。

実業界では前者でないと生きていけない。

弁護士もそうであり、今時の政治家もそうである。

人心や理屈への賛同を得んがために実態の有無にかかわらず

論理的、効好感的に言葉を駆使する職業的弊害人種たち。


マスゾエが公約でコエタカラカニ言ったことが不可能なことが

ここにいたって明瞭になってきたら、途端に、顔を真っ赤にして

誰がこのポストの大臣に座ったって「できね~もんはできね~」

と、逆切れタンカを切り始めた。


東大卒のアンちゃんでトップ当選していきなり大臣に抜擢されて

意気軒昂だった当初と比ぶれば、今や自らのリップサービス過剰

の尻拭いに、成す術もなく、頓挫、沈没し、他の幹部の苦しい

言い訳めいた援護を楯に、背走の先陣を切っている姿と言おうか。


裁判も、決して正しいから勝つわけではなく、証拠と理屈の整合性が

より理にかなったほうが勝つのである。これってアメリカのディベート

の延長に過ぎないとしか思えず、舌戦の巧者コンテストに思える。


最近では、食料に回していたトーモロコシや大豆をエタノール燃料の

原料として守銭奴ファンドが買いあさるもんだから、食料危機が切迫し

てきたし、京都プロトコル以来、CO2売買取引などどいう新手の先物

取引をイギリスが作り出し、また地球を金で切り売りするオイルマネー

ならぬCO2マネーという市場経済の1ページがヨーロッパを中心に

台頭してきた。なんでも「ゼニ金」の世の中である、と子供たちは強く

実感して見ていることだろう。


これもあれも結局、金のため。政治家も大企業も「金のためなら

何でもするゼッ」ってことを、世界会議を通じ、我々庶民に見せて

いるニュースばかりである。



現代人は自然界にないPCBを創り出し、石油製品で身の回りを

溢れさせるようになって以来、かくの如く、救われがたく、地球もろとも

自滅する以外ないであろうと純粋に絶望的悲観をしてしまうほど

まったくもって死ななきゃ直らない、愚か者に堕してしまった。



ふっと、存在を否定された一瞬

2007-12-09 03:50:15 oyazの投稿


「なんでそんな怒ったように大声で言うのヨっ!?」

って罵声を浴びせられたら、「うっ」と本当は二の句が継げない。

それはワタシのハゲアタマに「何でアンタはハゲなのヨっ!?」

って詰問されているようなもんだし、たとえばデブでノロマな人に

「メタボガメっ!」なんて言われたのとおんなじである。


「Aにこうしたなら、おんなじようにBにもこうしてくれると思った」

って勝手に決め付けられても思考の手順やパターンがお互いに

違うのだから、ワタシの思考パターンと行動が、必ずしも

あなたと一致するとは限らない。むしろ違うことのほうが普通だ。


たったこれだけのことだった。たったこれだけのことで

人は大喧嘩を始めるし、何十年の信頼をいっぺんに壊してしまい

かねない場合がある。それは特にどちらかの心が疲弊している時

普段なら笑い話で終わることが、深刻なバトルに進展してしまう。


自慢じゃないが「自分には人より優れたイイところなんてほとんど

ない」と思う。いいものがないと思っている人に「あんたって本当に

いいところが全然ないのネッ!」って追い討ちを掛けられたら

立ち上がる気力もヨスガもワラ一本もなくなって沈没するしかない。


夫婦の些細な喧嘩で、危険な喧嘩とはこういうもんである、いつも。

それは自分自身の変身願望へと変わるきっかけにはなる。

女房の好きなサワダケンジやクサカリマサオのようないい男に

今日から変身するぞっ!な~んてデキモしないことをしようとしたり

コダマキヨシのように知的で物静かな言動で包容力のある人間に

改造するぞ、な~んて自分自身の器ではない借り物をかぶって

「きのうの自分とは違った」自分を演出して見せようなどと

奮闘してみたりする。化けの皮はモチロンすぐ剥がれるが。


かくのごとく

ニンゲンは自分自身の欠点をお恥ずかしながらもさらして生きて

いくしかないし、どんなに一所懸命努力しても自分の人間性を

他の人間性と交換して、性転換でもしてしまうようには人間性を

変えることは容易ではない。その醜いワタシの容貌と体と声と思考

パターンと尽きない欲を、仏教では「業」と言っている。

「バカは死ななきゃなおらない」とモリノイシマツが言われたように

「ワタシの人に嫌われる人間性も、死ななきゃ直らない」ワケだが

19の時「決して死なずに生きてみること」と決めてしまったので

それもかなわない。死なずに、死ぬまで生きてみる、ことに

決めたのだから。嫌われても、疎まれても、、、それが「業」を

もつ者の死ぬまで終わらぬ「修業」だと思っているから。

、、、、生きるってスバラシー!なんぞという刹那的な一瞬も

確かに人生にはあるが、つらく、重く、せつないことのほうが

その何倍も何千倍もイッパイいっぱいあるのである。

ダレニデモ、である



この世にありうべからぬ一期一会

2007-12-07 11:18:29 oyazの投稿 
この世にあり得べからぬこと

それはこのワタシたちが「今ここにこの瞬間生きている」こと

そのものである、とは大抵考えも気づきもしない。



63億人なりは、みな、奇跡的にこの現代に生きている実は。

と言うのは、一個人、一人一人のレベルに立った時に

おおげさでもなんでもなく、そのとおりだと思える人も多いのでは。


ニッポンには「一期一会」という言葉があるが、みんな知っては

いるはずだが、その稀有な意味深長さや神業的な言葉だとは

思ってはいないだろう。

実はコレハなかり哲学的に深い。

し、実存的にオオマジメな奥義の言葉である。


卑近に言えば

きのう酒を飲み交わした相手が

きょうは夢幻だったかのようにこの世からいなくなっていたりする。

あるいは、運命的な出会いをし、結縁の家族にも恵まれ

ワレラの一生はまたとないと感激ないい人生だったと言っていた夫婦も、

いつしか老いさらばえゾクゾクとシャレコウベとなって口なしで土に還る。

その墓を「先祖代々」からのお宝と、子孫が累々と守って手を合わす。


あるいはきのうまで赤ん坊でオシメを変えたりお乳を飲ませていた

かわいい子が、今は憎たらしいデブの才走ったガキデカに育っている。



「人生は一期一会」「人生は一瞬」「霧の中の泡の如し」であり

こう語っているワタクシも、明日はいないかもしれない。

いや、いつか必ず、そういう日が来るのである、だれにも。


だから、一瞬一瞬の会話やふれあいや交流は

もう再現できない、またとない「最期」であると古人は喝破していた。



そう思うとあたらめてこの瞬間ここに自分がいることが奇跡と思えてくる。

今は我々は生きていて、人と語り、ふれあい、子育てしているが

明日は露のように消えてなくなるのである。そう考えると

妙に何かがぐっと胸に来て、人間だって7日で一生を終える

ウスバカゲローとなんらかわりがないんだ、7日が70~80年に

なっただけで、生の本質に違いはナイ、と思えてくる。

「そう思うのも」ワタシが「考える葦」の一本として

今この瞬間、生きているから、、、、なのである。






生き終わるまでのLife(原点)

2007-12-01 23:27:56 oyazの投稿 
何の因果か

何のお導きか

いや、何かの間違いだっただけか、、、、



兎にも角にも、ワタシたちは老若男女、大小硬軟こきまぜて、

愚息賢息、マルビにセレブ、媚び上手にまいうぇ自己チューまで

あの世にでも、妖界でもなく、宇宙人でも、犬でも猫でも虫でもなく

我々は人として「この世」に生まれ落ちていた。気づいたら、いや、、

別に自分の意思で生まれたくて生まれてきたわけじゃない、、、誰モ。


In fact 実は、、ワタシは、幼い時からタイ~ヘンに悩んできた、

自分とは何者か、何故この親で、何故この家で、何故日本で、

何故この時代だったのか、、、、と。そして

何故生まれ、どう生き、どう逝き、どこへ行くのだろう、、、、

このまま生きるべきなのか、生きてて本当に楽しいのか、、などと。


ところが、そうこうするうちにいつの間にかワタシ個人は半世紀も生き

子供たちがヤマンバおっかけ走りで我らに追いつかんばかりの勢いで

歳をとり始めた。すわっ!このままではあっという間に人間の

最長可能年齢140歳に達し、死んでしまう!

そう気づいたワタシは、もとより備わった人知れない聡明さと

半世紀の間に鍛え上げられた人としてのキャリアと辛酸の数々、

その結果として吐露できる珠玉の言葉や奥義、爺のくりごと、

ひいては「おせっかい」を、ボケと思い込みがまだしもの今のうちに

うちの子たちに、または奇特な後人に、残してあげねばと思ったので

ある。以下は簡潔な、ワタシの悩んできたことへの対処法/考え方。




まず「死」についてである。宮沢賢治が雨ニモ負ケズ。。。の詩中に

≪、、行って、こわがらなくていいと言い≫と書き残したように、第一は

自分の「生の終わり」をいたずらに人は怖がらなうほうがいいということ。



死を「生まれ変わる」とか「霊界」とか「天国地獄」という言葉にまどわさ

れて、考えないことだ。死んでなお生きる、かのように人は錯覚しているが

どうして生まれてきたかさえ覚えていない人が死んでなお生きる、などと

いうことがありえようか。、、、ありえない。と、ワタシは結論付けている。

そ~して生きるに対して「死ぬ」と考えるのではなく「生き終わる」ことを

「死んだ」と過去形で言うのが本来正しいのである、と理論を整理した。


こう考えるとタイヘン気持ちが気楽になり、落ち着いてくる。

「ああ、生きて生きて、やがて、生き終わるのだな誰も、、、もっともだ」



次に、どう生きるか。

これは1億人いれば1億とおりの生き方になる。ケースバイケースだ。

そうならざるえを得ない部分である。一つだけ普遍的に言えることは、

人は一人では本来は生きていけない動物であるということ。一人では

生きている意味がない。誰をも受け入れず孤独で生き続けるには

よっぽど打ち込める創造力を持っている人か、我慢強い精神力の

持ち主、と言うことができると思う。人は誰かと「出遭う」べきである。


では「誰と出遭う」ことができるのか。それは、自分が一番知っている。

「ワタシ」は常に取捨選択している、モノでも人でも。これはちがう、

これはちがう、、、、コレだっ!!、、、というように。ダカラ、出遭う

べき人を人は誰も「ワタシ」自身がジュアストフィット人を捜し当てる。


ここまで生き進むことができたら、あとは人生は「楽ありゃ苦もある」が

なかなか面白い。実務的に子育ても含めて生き出すし、一方で

自分本来の才能、創造力を発揮し始める。極端に言うと家庭を

かまえて人は本来のスタートラインにようやくつける、のであり、

生き方はそこから初めて始まる、といって過言ではない。

その家庭をめちゃくちゃにしてしまうケースがあるが、それは

ワタシがここで書き述べているようなことを、深く考えないで家庭

生活に入ってしまったケースがほとんどではなかったのだろうか?


さて「スタートライン」まで、ようやく話が辿りつけたのできょうは

この辺で。次回この種の話題を語る機会や意欲があれば、今度は

持って生まれた各人各様の「才能と創造」について語ろうと思う。




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