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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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即物人間

2007-10-31 05:50:30 oyazの投稿 
ハボタンの出荷のピークを迎えている。

1鉢100円の時があったかと思えば

昨日なんか25円という人をバカにしたような

値段の時もある。そういう日は妙に落ち込む。

そして思う「ニンゲンって即物的だな~」って。

目の前のお金が多いか少ないか、

目の前のお菓子が多いか少ないか、美味しいかまずいか、

そのどっちかで、気分が高揚したりめいったりする、、、実に即物的で

単純なセンシビリティである。

そのレベルは犬猫と変わりないのじゃないか。


株の値段の上がり下がりに心みだされ

ガソリンが月ごとに値上がりしていくのに蒸気し

優しく諭しても力づくでひっぱってもガンとして言うことを聞かない娘に

時間も仕事も平穏な気持ちもひっかき回され、くたびれる、、、、、、


でも、ハボタンが安かろうが、ガソリンが高かろうが、ムスメが

どうしようもない病気にかかっているか、大バカであっても

別に、ワタシの腕を1本失ったワケではないし

足をなくしたワケでもないじゃあないか、

ましてムスメを亡くしたワケでもない。

だからそんなに目の前の事象に一喜一憂しないことだ。

もっと遠くを眺め、思い、深考し、直面する課題を飄々とこなし

雲に浮かぶ仙人の境地で、生きてみたいものである。


されど現実は、なんという低レベル、、、、

刻々と刻まれゆく時間の拘束の中で

確実に年を取り、じわりと消滅に近づいていると言うのに

いつまでたっても目の前の些事に心奪われ汲々とし続ける日常

ニンゲンがそんなにも即物的に一喜一憂するしかない存在として

何故カミサマはこさえなすったのだったろう?


さて、乗り越えられるか「即物」

そうして「高見」へ行けるだろうか、自分は。


「天才」Kandinsky、「天才」Oyaz

2007-10-27 03:11:51 oyazの投稿 

時々人から見ると「突拍子もない」発想がひょいっと出てくる、

「ワタシは最近、脳が天才化してきたかも」、、、とか、、??


天才ピアニスト:ホロビッツ、天才数学者:プレマン

天才宮大工:西尾常一、天才段ボール画家:日比野克彦

天才コピーイスト:糸井重里、天才文芸評論家:小林秀雄

天才画家:Kandinksy、Oyaz

、、、皆、何が天才なのかといえば一言で言えば

その「表現力」である。


結論から言えば、人間の真の喜びは「自己表現の楽しさ」に極まる。

自分に一番あっている方法や分野で、人は皆「表現者」である。

たとえばワタシの場合はそれが「絵」であったり、最近なら

「ハボタン」であったり、「ブログ」だったりで、自己表現している。


では何故「ワタシが天才化してきた」ように感じるか、というと

表現構成(バランスと色使い/線/形の妙)が陳腐でなく

計算づくでもなく、自然に、瞬間的なのに我ながらハッとするほど

「職人ハダシ」「芸術家裸足」的に“天才的”になってきた

からである。では何故そうなったかといえば、これまでに見てきた

世界中の景色や建物やオブジェや人間や食べ物や音楽やウイットが

自分の中で昇華され自分の感覚の一つとして身につき「我考えずして

作品あり」のごとくに、作品が出来あがるようになってきたから。

それはインプットされたものを脳がそしゃくし、新感覚シナプスや

俵屋宗達的熟達の技をマネブ脳が覚え自力化し、ワタシの腕を通して

表現できるようになってきたからに相違ないのである。

そういう意味をこめて言っていたかどうかは今は訊くすべもないが

「良い作品はみんなどんどん見れば良い」と小林秀雄は言っていた。

情報や方法をインプットし、脳蔵で熟成し、アウトプット(表現)する、

その繰り返しこそ、人間の表現生活なのであり、日々の「生きる」と

いう活動、そのものなのである。と今は思う。

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固定給と「商売」収入、二束のわらじのススメ

2007-10-26 09:29:55 oyazの投稿 
最近ようやくお金の何たるかを

冷静に見えるようになってきた気がする。


はっきり言って、現代流通の通貨はモチロン「金」ではないので

ただの特殊印刷の「紙」またはコインという「何の値打ちもない金属」で

しかない。であるからして「はじめ人間ゴン」のバカでっかい石の

お金と、現代ありがたがっているお金とは、本質が全く変わりはない。

むしろ今や電子マネーとかいって、売買の有無を記録さえ残せば

仲介物/媒介たる「印」としてのお金なんか実際に流通させない方向に

来ている。株も先物もデリバティブもおんなじ。「マネーゲーム」じみてる。

ただ「ゲーム」ではないのは相手がイッチョーマエの取立て厳しい店主

だったり1円たりとも庶民には負けない銀行員だったり

証券マンだったりするので、「大損」を出した時に「今のはほんの

ゲームでした、どーかリセットさせてください」とはいかないことである。

この現実世界はもともとが「現物主義」が基本だから

子どものゲーム機と違って「リセット」は勿論「過去に遡っての訂正」は不可。

「時間」と同じ法則である。「決して止まらない、まして逆戻りしない」


その時間の中で生きていくしかない我々は、だから常にお金も稼がなくては

いけないし、稼いだもので食べ物を買って生き抜くしかない、宿命にある皆。

さて、そのお金である。現在ワタシは4つのお金の稼ぎ道を持っている。

一つは日給7000円のパート、もう一つは9000円のパート、

主業の農業収入、そして株や社債などの不労所得/損失、の4つ。

その中で「農業収入」の部分が「商売」の分野である。

いまも昔も「商い」は「飽きない」でやるしかないし、良いものを作れば

高く売れるようになってくるし信用もついてくるってことが最近わかってきた。

たとえば一つ50円でしか売れないものが

良いものだからと100円で買ってくれるお客さんが出てくると100万円の

売上が倍の200万円に跳ね上がる。また40万かかっていた経費を

20万で済ますことができればまるまる+20万の黒字になる。

そういう意味では自分のスキルの向上でモノが高く売れ、仕入れの

工夫でコストを下げられる余地があるから、サラリーマンにはない

儲けのチャンスが「商売」にはあるのである。


高等数学に没入する孤高の人、ヒャクショー

2007-10-24 05:27:26 oyazの投稿 
おとといNHKTVで数学界のノーベル賞というのに選ばれた

ロシアの数学者プレマン博士が謎の失踪をするまでを追った

ドキュメンタリーを見た。100年間誰も証明できなかった数学の

難問をついに解き証し、しかし、その直後に数学の研究所からも

サンクトペテルブルクの住まいからも姿を消してしまう。

名誉も金も彼には何の価値もないようだ。


そんな点では日本には、自分も含む身近な周囲を見渡しただけでも

金とプライドにこだわる人々が捨てるほど、わんさといるというのに。

ワタシの「主業」である農業分野でも

金も儲からないのに「理屈」だけは百人百様の高等数学的「自慢」や

「一家言」「いこじな信念」を持っている人が山ほどいる。

おまけに皆がそれぞれ数学者のように一人一人独立して

他者とあいまみえない。トラクターやコンバインも各農家がそれぞれ買って

一年に一週間位しか使わないもんだから、百人が百人「儲かりっこない」。

そういう意味では結果的にはヒャクショーも「孤高の数学者」には

似てはいるのだが、、、。

決定的に違うのは

「金も名誉も喉から手が出るほどほしい」くせに

金も名誉もどちらにもまったく縁遠い、ということである。


「あ~ワタシたち百姓にもノーベル賞はいりませんから

もっとお金を!」

「進歩」なんかしていない現代ニッポン人

2007-10-22 04:39:10 oyazの投稿 
機械やパソコンが進化したので現代は「進歩」したかというと

そうではない、と「断言」すらしてしまいたくなる、このワタクシは

儲からないニッポンのただの一百姓。


何故そう思うかというと、たとえばニッポンだけ見てみても

子どもや若者に「元気」がない。大人はもっとそうかもしれない。

「活気がない」「人情もない」「楽しそうでもない」「やりたいこともない」

みんな良いクルマに乗って、ブログを作って、メールをやり取りし

そこそこの汚い今風のファッションに身を包み、マックやモスで

舌鼓を打ち、爪に仁丹や夜祭で売っているビーズのような装飾を施し

へそを見せながらチャラチャラと歩き、と思いきやいきなりメタボのデブが

おっかない目をむきながらくわえタバコで軽自動車のハンドルをきっていく。


本当に良いモノや、ニッポンの良い文化や風習をかなぐりすてて

アメリカでもヨーロッパでもアジアでもない「宙ぶらりんなニッポンジン」を

やっている。


でも「自分たちの感覚には自信を持っている」はずだし

「音楽は大人たちにはわからない飛んでるセンス」を皆がそれぞれ持っている

アイポッドなる類のものもみんなそれぞれ持っている、

自分世界が手元にいつもある、携帯と一緒に。


ダカラ、ソレガ、ナンダッ!?

進化でも進展でも発達でも深化でも真価でも新価でもない。

「自己実現」性が希薄になっている。

気がするのはワタシだけか?今の「社会が悪い」のか?

そんなら、社会を逆に渦中にいる君たちが変えてみろ!

ニートやワーキングプアなんて言葉でいつまでもくくられてないで

自分たちの行動で、今の社会の仕組みや形態を変えてシマエ!

いつまでも「オーベーカ」って、頭を小突かれっぱなしで

アタマに来ないのかニッポンジンッ?一人一人の生き方しだいで

社会って変わるんだよ、若い衆!社会は後からツイテクル。

「欧米流の企業」にいつのまにか飲み込まれてはいけない、若者よ!




人間世界の不確かさ

2007-10-21 00:28:51 oyazの投稿
ワタシは、言葉で

思いを紡ぎ、機で織りあげるように詩にすることもできれば

借りてきたり既成概念に凝り固まった無骨な鎧を身につけ

論客に向かい、かみ合わぬエゴなゴリオシで貫くこともできる。


そういう意味では言葉は絵の具である。

使い方や組み合わせ次第では、柔らかで心地よいパステルカラー

使いこなせぬ時には、汚い、濁った、悪寒のする組み合せが出現。


動物と人は何が違っているかって、

「表現力の豊かさ」なのだと思う。

しかし、その表現のモトイとなる人の心はいっつも「豊か」なワケ

ではなく、むしろ「無表情」だったり「乏し」かったり「浅薄」だったり

「苦悶」だらけだったり「混乱」だったり「悲哀」だったりする。

それは音の表現では「運命」だったり「喜びの歌」だったり「ピアノソナタ」

だったり、様々な表現にココロを見ることができる。


そういう様々な思いや感覚を「自己表現するスベ」

それを「創造」と言うのだ。


自由とは本来、

欧米的フリーダムでも、金の持ってるものが生き残る自由主義経済

でもなく「自己表現を、美しく創造するに用いる様々なる意匠や術」の

自由だった。

今の日本の子どもにも、大人にも、‘人間の美しさ’を教えたり

‘創造’こそ人が生まれた時から備わった偉大な力であり

‘心の自由なる豊かさなのだ’と説く人は、本当に稀になったのか。


木原光知子の衝撃

2007-10-19 06:47:31 oyazの投稿 
59歳、クモ膜下で逝く。

普通の人ではない、オリンピック選手であり、親子水泳の指導者、

楽しく健康を謳歌し、スポーツのある高齢社会のシンボル的存在の

ひとりだったはず。全身運動である水泳を長年ライフワークにし

新陳代謝能力も運動神経能力も血液循環力も人並み以上だった

はずの人が、「突然クモ膜下で60もかぞえることなく逝く」なんて、、、

50もすぎたら、明日はどうなるかわからぬ「無常」なことが

いつ誰に起こっても不思議ではない年齢世界、、、、そう捉えたほうが

いいのかも知れないと、今回のクモ膜下は教えているみたい。


ただ、ワタシは「死」を恐れるのではなく

「死」とは何なのかを若い時から考えてきたし、

自ら死のうと思ったこともあった。

そして最近は「死」とは死ぬことではなく

生きおわる、おえる、ことであると思えてきた。

「悔やみ」とは「苦止む」ことだと、落語で語られていたが

この世が楽しいことばかりではなく、むしろ人間にとって苦しい

修行の現世であるとするならば「苦止み」はまさにもろもろの

苦しみからの「あがり」なのであり、終点なのだ。

生まれしものは皆早晩、生きおわる日が来る。

先輩諸氏はその「生き終り方」を子や孫に手本を見せている。

最後の最期までどう生きるか、、、ワタシはそう考えるようになった。

イチアクのスナ、カナシキがんぐ、15の心

2007-10-18 04:59:04 oyazの投稿 
不来方(こずかた)のお城の下に寝ころびて空に吸われし 十五の心

ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく


                 
               石川啄木、本名を一(はじめ)。26歳2カ月で逝く。


かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る


             石川君はその時、『ひょっとしたら自分も今度はだめだ』
            と言った。『医者は?』と聞くと、『薬代を滞るものだから、
            薬もくれないし、来てもくれない』という。自分で夜具の脇を
            あげて腰の骨を見せた。ぐっと突立った骨盤の皿。
            『これじゃいけない、何よりも、とにかくまず好きなものを食
            べて、少し太る様にしなくちゃ』と言ったら、『好きなものどこ
            ろか!米さえ…ない』と顔を歪めて笑った。(金田一京助)

             自宅に引き返し、自身の一ヶ月の生活費を持って駆け戻
            ってくる。『ほんの少しですけれど』と、うつむきながら手を
            差し出した時、石川君も、節子(妻)さんも、黙って何とも言
            わなかった。『無躾だったか』と気遣いながら二人を見ると、
            石川君は枕しながら、片手を出して拝んでいた。
            節子さんは、下を向いて畳の上へぽたりと涙をおとした。


コンド、石川啄木記念館から啄木の詩集本の完全復刻版が出るそうな。

本人がいない今、どんなに本が売れても今更しょうもないことではあるが。

とはいえ、たった一行の詩が万人の人生の節々にふっと思い起こさせる

印象鮮やかな天才詩人啄木だが、一体何万行の詩をこさえたら本ができ、

その本を何冊出したら死ぬほどの貧しさから脱することができたのだろう、、

詩、それは分厚い一冊の本よりも確かに人の心に留まり生き方を変える、、



    けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ

    みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ

    (あめゆじゅ とてちて けんじゃ)



雨にも負けず 風にも負けず 雪にも 夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち 慾はなく 決して怒らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ、、、、、


東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず

苦にもされず そういうものに わたしは なりたい


『下ノ畑ニ居リマス』賢治

 

                      


                             

人間は宇宙の塵からできている

2007-10-15 01:47:41 oyazの投稿 
地球の歴史は約46億年だそうな、、正確に言うと

45億3000万年前、、、だったかだそうな?いずれにしても

随分とおおざっぱな「約」である。7000万年も四捨五入されては

人間の歴史なんて無いに等しく、微塵だな、と思われた。


さて、「宇宙」のお話をするBS2の番組をさらに見聞していた。

我々人間を形作っている細胞の元素は宇宙にある元素からできている由。


混沌とした銀河系で、ある時、巨大な星が最後を迎えて起こすと考えられる

「ビッグバン」が起き、その大爆発によって星と星がぶつかり、

合体吸収を繰り返され、今日の太陽系ができあがり、地球も誕生する。

しかし最初から地球に人間がいたわけではなく、恐竜が支配していた。

メキシコのユカタン半島に彗星みたいな大きな星が衝突し、気象が激変。

その「恐竜の住む地球」は「哺乳類が幅を利かす地球」へと変貌をとげ、

今日のわれわれ人間の住む地球が誕生した、、、、、、と

科学者は、見てきたような嘘を語るようにもっともらしく解説した。


ただワタシは「ビッグバン」の大爆発で粉々に飛び散った元素と言う塵が

今日の我々も形作っている、ということには、素直に納得できた。

人間はそのひとりひとりが、言わば「小宇宙」であり、

46億年以上も前に計算や法則という姿に変えて存在する神の

ムゲンダイの一、くらいの分身であるはずなのである。そうして

たかだか80~90年の人間と言う生命体が終わりを迎える時

人は元素となって再び宇宙に渦巻く塵に帰る。

そう考えていたワタシは、この番組を見てさらにそう確信した。





感情VS.論理的思考

2007-10-13 06:50:39 oyazの投稿 
思いやりと知識

愛情と知力

ぬくもりと機械

ソフトとハード、、、、、


どんな天才秀才の頭脳の持ち主だろうと

優しさやいたわり、人の気持ちをおもんぱかる「心」「愛」がなければ

人が人としてお互いに暮らす日々、生きる毎日はきっとちっとも

「楽しく」ない。


赤ん坊が乳を飲み育ち、ヨチヨチ歩きしだし、「ア~、、チャン、、」と

言葉のような呼びかけを発し始め、モノを認識、自覚し始め、大人から

良い悪いの基準を教えられ、学校で「一つの形」に型にはめられ、

そこから反抗や暴走し、紆余曲折して、人間はやっと一人前になる。


その過程は一筋縄ではいかない。うちの3番目は、学校で型にはめられる

途上で暴走し、離脱し、社会からドロップアウトし、精神がゼロにリセットされ

1から出直し、赤ちゃんからもう一度人間をやり直している最中にある。

彼女は今小学校4年生レベルまでようやく生き直したどりついているみたい。

TVやその他の情報を瞬時に吸収し、言葉にしてしまう能力たるや

「天才タケコ」かとミマゴウーばかりで、舌を巻く。

だが一方で一番大事なはずの母を拘束したり、こずいてみたり、

困るような要求をしきりにおねだりしたり、モノをわざとちらかしたり

機械を壊したり、徘徊したり、鍋を焦がしてみたり、ご飯を炊飯にしないで

いきなり「保温」に入れメッコ飯にして台無しにしたり、、、、枚挙に暇がない。

それもこれも「思いやる心」「思慮」の欠如、に思える。学校や本から

知識は吸収できても、「愛」を教われない子どもたち。

「愛の学校」はなかなか無いのであり、あっても時間がかかるのである。

「愛は時間をかけてはぐくむもの」、、、19歳の時そうワタシは考えていた。

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