忍者ブログ
世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
[18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

教育という「モロハノヤイバ」「二律背反」

2007-10-10 20:35:49 oyazの投稿 
机に足を投げ出した姿を見たワタシは

思わず「なんだその行儀の悪さはっ!」と怒鳴っていた。

「なんだ~このおやじ~??!」と若い衆は憮然ガオ。

一言でやめない若い衆に、血が上ったおやじは

「なんだっ!ってんだ!この足は、犬猫だってそんなこたーシネーゾッ!」

って逆上して若い衆の机の脚を力づくでなぎ払う。

「そーゆー横暴が気にくわねーんだっ、コノ、スットコドッコイッ!!」って

若い衆が本気でおやじにケリを思いっきりお見舞いする、「デュボッ!」


と、まー、戦後のりっぱな教育を受け、躾が肌身にしみこんだおやじと、

アメリカナイズされたフリーダムを享受して育った世代との

「馬鹿みたいな力と力の戦争」が始まる。


どんなにハーバード、ケンブリッジ、オックスフォード出の優秀な大人でも

いまだに、この現代においてさえ、「馬鹿みたいな力と力の戦争」をやめない。


何のための知識、何のための力、何のための躾や教育なのか、

「バカナ我々ニンゲン」はもう一度、考えてみよう、、、




にんげんバトル

2007-10-09 06:17:42 oyazの投稿

「自我の意思」を持つ人間同士が一つ屋根の下、

暮らし続けるって、平穏な日々ばかりではない。

まして成長期/思春期/反抗期の子においてをや、、、


内向的にマイナス方向に引きこもっていたムスメが

ここ1週間ばかり前からがらりと、外交的にプラス方向へ

180度転換した。散らかっていた部屋や棚の整理に始まり

TVやパソコン、電話機、自転車をいじくりまわし、動かしこそ

しないが自動車の運転席にすわり機器のスイッチを操作する真似をする。


突然、一緒に乗っていた車から降りて歩き出したり、逆にドアに足を

はさんでドアを閉めさせなかったりする。ドアの前にしゃがみこんで動かない

こともある。そうした場面でワタシが渾身の力を振り絞ってもドアにかけた

足をどかすことができなかったり、しゃがんだムスメが岩になったかと

思われるほどの力で抵抗するので持ち上げることが不可能になる。

「子泣き爺じい」がムスメに乗り移ったかと本気で疑ってしまう。

それほどに、今の攻撃的に外交的なムスメは強力である。


昨晩もバトルが繰り広げられた。2日~3日、徹夜で眠らないムスメに

付き合わされてヘトヘトに疲労困憊しているつれあいにゆっくり休んで

もらおうと、夜勤のないワタシが寝室への階段やドアの前で弁慶のように

門番を務めて、ムスメがつれあいの安眠を邪魔しないように見張りについた。

しかし、「なんで~!!」といいながら「子泣き爺じい」のものすごい力は

そんな弁慶を押しのけ、掴まれた腕も振り解き、バリケードを突破してしまった。

起こされたつれあいも巻き込んでふたたび長い夜のバトルが繰り広げられた、、、


「自我の意思」を持つ人間には、自身、制御できない、うまくわれの肉体を

コントロールできないことがしばしばある。まして肉体と精神の成長過渡期に

ある若者においては、なおさらである。共同作業を課せられた家族はそんな

爆弾のような子の成長に付き合わざるを得ない宿命があるし、バトルがある。

一筋縄では「平凡な幸せ」「普通」というのは手にはいれられないのである、

カンタンそーなのに。




刻々変わりゆく

2007-10-07 15:40:08 oyazの投稿 
ここ1~2週間前からの朝晩の寒さが

ハボタンを元気付け、硬くしまって、色づかせ始めた。

一般大衆の皆さんは、花屋さんやホームセンターの園芸コーナーで

完成した大人の花やリーフものしかお目にかかることがないだろうが

ワタシたち生産農家は、赤ちゃん苗から大人の親になるまでの

その成長の過程を逐一見ており、双葉から始まる形の成長する様子や

摩訶不思議な「色づきの七変化」を目の当たりにできることが役得。


「プロセス」をこそ楽しんで、感動できるのが、本来のガーデニング。

そういう意味では、人間も同じであると思える。

きのうのワタシは、同じワタシなのだが、きょうのワタシではもはやない。

若かりし頃あんなにふさふさとあった髪の毛も、今はない。

そんな形の変化ばかりではなく、人間は植物同様に、色や性質が

刻々変わってゆく。

それは、カミサマがその固有種に与えたプログラミング済みのソフトに

したがって基本的には変化して、成熟し、やがて老い、枯れていく。

プラス、人間の場合そこに個の「自我の意思」が変化の道筋に大きな

針路変更をかけることも大いにありうる。

しかしどんなに強力な「自我の意思」があったとしても、

眠らずに1週間仕事をしつづけたり、老いることをストップしたり、

不死身の肉体を手にすることは、どんな権力者でもかなわなかった。

ピラミッドを築いたエジプトのファラオもミイラになって副葬品をゴマンと

添えさせるくらいが関の山だったし、不老長寿の水を探していた仙人は

不老長寿の水と称して日本酒を飲んだくれていたし、極楽浄土に行ったら

黄金の部屋で暮らせるように豪華な仏壇を勧める坊主はきっと仏壇屋から

みつぎものをもらいつづけて、われら衆生をだまくらかしてきた。


小さい時一見ダメな苗も、丹念に手をかけ、根気強く水遣りを怠らずに

つきあってあげれば、その種のもつ強さによって、見事に大成する。

だから人を「今がダメだから」といって見限ったものではない。

人間ってそれほど「ダメじゃない」、むしろすごい能力もセンスも

ウイットも持っているのである、どんな子も。


東北人への誤解

2007-10-06 05:17:50 oyazの投稿 
絵ろうそくは、戦国時代から日本では作り始められたそうな、、、

会津若松のそれにしても、鶴岡、新潟産の絵ろうそくにしても、花柄が多い。

「長い冬のため、光に対する憧れと、花に対する憧れがあった、と思う」

と現代絵ろうそく職人が、とってつけたようなことを言っていた。

しかし、ワタシはそれは「ウソだ」と思う。


この手のことがしばしば語られるたび、ワタシは妙に反発し、誤解だと思う。

「東北人は、厳しく、長い冬のために、言葉数が少ないのだ」

「単語が短い、寒いからあまり口を動かさずに済むように」、、、冗談ではない

昔から冬になると東北人の口は凍って開けられなくなったとでも言うのか?

東北人は冬の間会話らしい会話をほとんどしてこなかったとでも言いたいのか?

「冬→雪→寒い→言葉少な→暗い/内気→光や花への憧れ」

一見正しいようでいて、まったく東北人を単純化し、誤解した発想連想である。

「寒いから」なんて「そんなのカンケーネー!」のだ。


子どもたちは雪が降れば犬のようにはしゃぎまわり、竹スキーや

雪だるまや、雪合戦に興じ、カマクラを作ってはその中で餅を焼いて食べ、

爺ちゃんや婆ちゃんが昔語りを語り聞かせ、お手玉やオハジキ、

パッタやスゴロク、剣玉、独楽作り、竹馬作り、凧作り、などなど

をして、東北の子どもたちは、むしろ冬を大いに楽しんで遊んできた。

四季がはっきりしている分、感受性/情操豊かで、表現力があり、

むしろ他の地域の人々よりも多弁なのではないかと、おっかちゃんがたの

他愛のない、延々続くおしゃべりを聞くともなく聞いていると、そう思える。


「寒いから言葉少な」、、、そんなに単純な構図ではないし、

その言葉でさえ、東北人が同じ東北人の言葉を理解できないほど

バラエティに富んでいる。むしろ東北人の言葉は豊かなのであり、

それは、東北の自然そのものなのであり、節々の四季の美しさを享受し

反映しているとさえ思えるのである。決して熊のように冬の間は

活動を停止し、冬眠し、口を閉ざして生きてきた、わけではない。

むしろ雪ウサギのように「色」を変えて、雪原を駆け回って遊んでいた。

それが、東北人の正しい理解、であろう。


感性/Sensibility

2007-10-03 06:06:29 oyazの投稿


たとえば、このひまわり。

この画を見て、ゴッホのひまわりを連想する人はあまりいないのでは

ないだろうか。なぜならば、このレモンイェローの柔らかく暖かく

透き通るような天真爛漫な鮮やかさは、ゴッホの感性とはあまりにも

隔たった次元の感性で切り取られた作品になっているから。


これはpapikoさんの『毎日キラキラ*ポラロイドカメラが好き』の最近の写真。

ワタシはこれを見た瞬間「ハッとして、黄色と伸びやかな構図に魅了」

されてしまった。ひまわりの花びらの上と下が切れているなんてのも

普通の写真家や画家なら「許されない」構図取りの原則かもしれないのに

それも見事に破ってしまっているにもかかわらず、一層魅力が画面

いっぱいに(というより画面からはみ出して)いきいきと輝いている。


人の感性の面白さに出逢うって、楽しいモンです。

それはもしかしたら、自分自身の感性の幅を広げ、磨かれていく

ことに結果的になっていくのかもしれません。昔、小林秀雄が

「いい絵や作品は若いときからどんどん見ておきなさい」と言っていたが

要は、そういうことを教えたかったのかもしれない。

このひまわりに出逢い、感動し、また自分とは違う瑞々しい感性に

接し、自分もまねしたいものだと憧れる、そんな自浄作用が

自分の中で起きるのを感じながら、今はそう思えるのである。

PR

コメント


コメントフォーム
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード
  Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字


忍者ブログ [PR]
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新コメント
プロフィール
HN:
Oyazar
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索