「なんでそんな怒ったように大声で言うのヨっ!?」
って罵声を浴びせられたら、「うっ」と本当は二の句が継げない。
それはワタシのハゲアタマに「何でアンタはハゲなのヨっ!?」
って詰問されているようなもんだし、たとえばデブでノロマな人に
「メタボガメっ!」なんて言われたのとおんなじである。
「Aにこうしたなら、おんなじようにBにもこうしてくれると思った」
って勝手に決め付けられても思考の手順やパターンがお互いに
違うのだから、ワタシの思考パターンと行動が、必ずしも
あなたと一致するとは限らない。むしろ違うことのほうが普通だ。
たったこれだけのことだった。たったこれだけのことで
人は大喧嘩を始めるし、何十年の信頼をいっぺんに壊してしまい
かねない場合がある。それは特にどちらかの心が疲弊している時
普段なら笑い話で終わることが、深刻なバトルに進展してしまう。
自慢じゃないが「自分には人より優れたイイところなんてほとんど
ない」と思う。いいものがないと思っている人に「あんたって本当に
いいところが全然ないのネッ!」って追い討ちを掛けられたら
立ち上がる気力もヨスガもワラ一本もなくなって沈没するしかない。
夫婦の些細な喧嘩で、危険な喧嘩とはこういうもんである、いつも。
それは自分自身の変身願望へと変わるきっかけにはなる。
女房の好きなサワダケンジやクサカリマサオのようないい男に
今日から変身するぞっ!な~んてデキモしないことをしようとしたり
コダマキヨシのように知的で物静かな言動で包容力のある人間に
改造するぞ、な~んて自分自身の器ではない借り物をかぶって
「きのうの自分とは違った」自分を演出して見せようなどと
奮闘してみたりする。化けの皮はモチロンすぐ剥がれるが。
かくのごとく
ニンゲンは自分自身の欠点をお恥ずかしながらもさらして生きて
いくしかないし、どんなに一所懸命努力しても自分の人間性を
他の人間性と交換して、性転換でもしてしまうようには人間性を
変えることは容易ではない。その醜いワタシの容貌と体と声と思考
パターンと尽きない欲を、仏教では「業」と言っている。
「バカは死ななきゃなおらない」とモリノイシマツが言われたように
「ワタシの人に嫌われる人間性も、死ななきゃ直らない」ワケだが
19の時「決して死なずに生きてみること」と決めてしまったので
それもかなわない。死なずに、死ぬまで生きてみる、ことに
決めたのだから。嫌われても、疎まれても、、、それが「業」を
もつ者の死ぬまで終わらぬ「修業」だと思っているから。
、、、、生きるってスバラシー!なんぞという刹那的な一瞬も
確かに人生にはあるが、つらく、重く、せつないことのほうが
その何倍も何千倍もイッパイいっぱいあるのである。
ダレニデモ、である
この世にありうべからぬ一期一会
2007-12-07 11:18:29 oyazの投稿
この世にあり得べからぬこと
それはこのワタシたちが「今ここにこの瞬間生きている」こと
そのものである、とは大抵考えも気づきもしない。
63億人なりは、みな、奇跡的にこの現代に生きている実は。
と言うのは、一個人、一人一人のレベルに立った時に
おおげさでもなんでもなく、そのとおりだと思える人も多いのでは。
ニッポンには「一期一会」という言葉があるが、みんな知っては
いるはずだが、その稀有な意味深長さや神業的な言葉だとは
思ってはいないだろう。
実はコレハなかり哲学的に深い。
し、実存的にオオマジメな奥義の言葉である。
卑近に言えば
きのう酒を飲み交わした相手が
きょうは夢幻だったかのようにこの世からいなくなっていたりする。
あるいは、運命的な出会いをし、結縁の家族にも恵まれ
ワレラの一生はまたとないと感激ないい人生だったと言っていた夫婦も、
いつしか老いさらばえゾクゾクとシャレコウベとなって口なしで土に還る。
その墓を「先祖代々」からのお宝と、子孫が累々と守って手を合わす。
あるいはきのうまで赤ん坊でオシメを変えたりお乳を飲ませていた
かわいい子が、今は憎たらしいデブの才走ったガキデカに育っている。
「人生は一期一会」「人生は一瞬」「霧の中の泡の如し」であり
こう語っているワタクシも、明日はいないかもしれない。
いや、いつか必ず、そういう日が来るのである、だれにも。
だから、一瞬一瞬の会話やふれあいや交流は
もう再現できない、またとない「最期」であると古人は喝破していた。
そう思うとあたらめてこの瞬間ここに自分がいることが奇跡と思えてくる。
今は我々は生きていて、人と語り、ふれあい、子育てしているが
明日は露のように消えてなくなるのである。そう考えると
妙に何かがぐっと胸に来て、人間だって7日で一生を終える
ウスバカゲローとなんらかわりがないんだ、7日が70~80年に
なっただけで、生の本質に違いはナイ、と思えてくる。
「そう思うのも」ワタシが「考える葦」の一本として
今この瞬間、生きているから、、、、なのである。
生き終わるまでのLife(原点)
2007-12-01 23:27:56 oyazの投稿
何の因果か
何のお導きか
いや、何かの間違いだっただけか、、、、
兎にも角にも、ワタシたちは老若男女、大小硬軟こきまぜて、
愚息賢息、マルビにセレブ、媚び上手にまいうぇ自己チューまで
あの世にでも、妖界でもなく、宇宙人でも、犬でも猫でも虫でもなく
我々は人として「この世」に生まれ落ちていた。気づいたら、いや、、
別に自分の意思で生まれたくて生まれてきたわけじゃない、、、誰モ。
In fact 実は、、ワタシは、幼い時からタイ~ヘンに悩んできた、
自分とは何者か、何故この親で、何故この家で、何故日本で、
何故この時代だったのか、、、、と。そして
何故生まれ、どう生き、どう逝き、どこへ行くのだろう、、、、
このまま生きるべきなのか、生きてて本当に楽しいのか、、などと。
ところが、そうこうするうちにいつの間にかワタシ個人は半世紀も生き
子供たちがヤマンバおっかけ走りで我らに追いつかんばかりの勢いで
歳をとり始めた。すわっ!このままではあっという間に人間の
最長可能年齢140歳に達し、死んでしまう!
そう気づいたワタシは、もとより備わった人知れない聡明さと
半世紀の間に鍛え上げられた人としてのキャリアと辛酸の数々、
その結果として吐露できる珠玉の言葉や奥義、爺のくりごと、
ひいては「おせっかい」を、ボケと思い込みがまだしもの今のうちに
うちの子たちに、または奇特な後人に、残してあげねばと思ったので
ある。以下は簡潔な、ワタシの悩んできたことへの対処法/考え方。
まず「死」についてである。宮沢賢治が雨ニモ負ケズ。。。の詩中に
≪、、行って、こわがらなくていいと言い≫と書き残したように、第一は
自分の「生の終わり」をいたずらに人は怖がらなうほうがいいということ。
死を「生まれ変わる」とか「霊界」とか「天国地獄」という言葉にまどわさ
れて、考えないことだ。死んでなお生きる、かのように人は錯覚しているが
どうして生まれてきたかさえ覚えていない人が死んでなお生きる、などと
いうことがありえようか。、、、ありえない。と、ワタシは結論付けている。
そ~して生きるに対して「死ぬ」と考えるのではなく「生き終わる」ことを
「死んだ」と過去形で言うのが本来正しいのである、と理論を整理した。
こう考えるとタイヘン気持ちが気楽になり、落ち着いてくる。
「ああ、生きて生きて、やがて、生き終わるのだな誰も、、、もっともだ」
次に、どう生きるか。
これは1億人いれば1億とおりの生き方になる。ケースバイケースだ。
そうならざるえを得ない部分である。一つだけ普遍的に言えることは、
人は一人では本来は生きていけない動物であるということ。一人では
生きている意味がない。誰をも受け入れず孤独で生き続けるには
よっぽど打ち込める創造力を持っている人か、我慢強い精神力の
持ち主、と言うことができると思う。人は誰かと「出遭う」べきである。
では「誰と出遭う」ことができるのか。それは、自分が一番知っている。
「ワタシ」は常に取捨選択している、モノでも人でも。これはちがう、
これはちがう、、、、コレだっ!!、、、というように。ダカラ、出遭う
べき人を人は誰も「ワタシ」自身がジュアストフィット人を捜し当てる。
ここまで生き進むことができたら、あとは人生は「楽ありゃ苦もある」が
なかなか面白い。実務的に子育ても含めて生き出すし、一方で
自分本来の才能、創造力を発揮し始める。極端に言うと家庭を
かまえて人は本来のスタートラインにようやくつける、のであり、
生き方はそこから初めて始まる、といって過言ではない。
その家庭をめちゃくちゃにしてしまうケースがあるが、それは
ワタシがここで書き述べているようなことを、深く考えないで家庭
生活に入ってしまったケースがほとんどではなかったのだろうか?
さて「スタートライン」まで、ようやく話が辿りつけたのできょうは
この辺で。次回この種の話題を語る機会や意欲があれば、今度は
持って生まれた各人各様の「才能と創造」について語ろうと思う。