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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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明日死ぬ人とすぐそばにいて

2007-05-15 05:53:52 oyazの投稿


ワタシは3日に1度老人ホームに夕方から翌朝まで泊り込む

宿直員さんとなって働いている。というよりはジーサンバーサン

たちと一緒にその時間だけ一緒にホームで暮らしているって

ほうが感覚的に近い。


別に電話を取ったり、掃除をしたり、ナースコールがあると

対応するくらいの仕事しかしていないから、救急車でも呼ぶ事態に

ならないかぎり、

おおぜいの歳老いた家族と一晩過ごしている、って感じである。


上は97歳までいる所帯だが、みんなを見ていてつくづく思うのは

人間いくつになっても、歳を重ねただけでは、悟りにいたるわけ

ではないってこと。


80、90のオババたちがその歳になってもいがみ合ったり、

人間関係に悩んで泣いたり、愚痴をこぼしたりしているのだ。

その一方で脳みそや骨のシナプスは壊れていく一方だから

軽いボケがはじまり、腰が曲がり、足腰が立たなくなり、杖を

ついたり、歩行器を押したりし出す。


「どうしてあんなに頭脳明晰だった私がこんなになってしまう

のかしらねー、歳とるって、おそろしーことですよぉー」って

あるバーサンはワタシにせつなげに訴えるように教える。


あくる日、太陽が山あいの施設に差し込み鳥のさえずりと共に

すがすがしい朝を迎え、皆が朝食を終え、部屋で落ち着く頃

ワタシは明け番で、山を下って帰る。


そして翌々日、またワタシは施設へと登ってくる。

介護員の引継ぎを受ける。

「だれそれさんが昨日お亡くなりになりましたのできょうの在籍は、、」

そんな会話が淡々と行われる。

『嗚呼、あのバーサンとうとう逝っちゃたんだー』と

ワタシは一人心の中でさみしく感じ入る。


人は必ず死ぬ日が来る。

いっつもみじかでそれを見ながら、

ワタシがあした死ぬ日を迎えたら

一体最後のきょうをどう生きていくだろうって

よく考えるようになった。

3番目のこの子と生きる素晴らしさ

2007-05-13 04:16:36 oyazの投稿


3番目の娘は小学5年で正規の道を下り

若いみそらで人生をドロップアウトした。

それから5年。

家に引きこもってばかりいたせいか

ココロにささったトゲが徐々にそうさせるのか

学習訓練を停止した脳と肉体は

停滞するのではなく

衰えていくのである。



結果娘はADHDに似た発達障害と幼さを残したまま

背丈だけが大人になってしまった。

それでも、そんな娘がいる状況が深刻でもなく

悲惨でもなく、ヒクツでも、不幸でもないのは

彼女が嘘をついたり、見栄を張ったり、

人の悪口をいったり、いっさいしないからかも

知れない。その性格でいじめられたのだろうが

学校に行ってた頃から、人を悪く言ったり

いじめたりすることが決してなかった。

そんな仏様みたいな少女は今は手を引いたり

肩を後押ししてあげないと次の行動ができない

鈍い反射神経の障害児となってしまったが

それもまた彼女の個性ととらえ、おもしろいん

じゃあないかと思っている。



なにより時折見せる笑顔がかわいいし

ユーモアセンスにも笑わせられる。

夫婦は死ぬまでこの子のそばにいるだろう。

そんな親子関係もこの子がいなければ

ありえなかった。

これは我々夫婦にとって

いい人生なんだと思える。

人はどう生きるべきなのか?

2007-05-12 06:43:19 oyazの投稿 
ワタシは不思議にも、もう半世紀も生きながらえた。

だから今年からは あとは「余生」と位置づけ、生き始めた。

こう、気楽に構えて生きてみると、初めて冷静に見えるものもある。



たとえば「株」である。

若い時分は「ナニが儲かるか」の観点でしかその株を見ていなかった。

今は「その会社の社長は良いか悪いか」で「買い」かそうでないかが見

れる。そう見れるようになると、目先の株価の上がり下がりなどは問題

ではなくなる。ここが一番大事だ。



「金がほしい金がほしい」と思っている間はこういう境地にはなれない。

日々株価や相場の時価をチェックし、統計を見、いかにも「株や経済を

理解している」気にはなっているが「目先の欲」で本当のその会社の価値や

世界情勢は見えていなかった、今はそう断言できる。「少しあがればいつ

売ろうか。少し下がればいつ手放そうか」そんなふうに川に浮かぶ木の葉の

ように揺れ、翻弄される己がいた。そのうち自身を律しきれずやがて濁流に

飲まれ沈んでしまう。そんな「地獄の日々」も過ごしたから、今はよく金のこと、

会社と株価の違い、市場経済の功罪が冷静に見れる気がする。



それにしてもニンゲンは人間として「社会」で生きていく環境しか選択できない

とすれば、お金も必ず必要であり、稼ぐ方法も考えなければならないし、

現に行動し、働き、金を得なければ生きていけないわけである。

どんな方法でも良いと思うのだ(犯罪以外なら)金を得る方法は。

今のワタシなんかは「日中自分のしたいことがある」から

夜のバイトで生活費分だけ稼ぐ方法を選択している。

昨年闘病生活を余儀なくされたつれあいも少しづつ仕事ができるように

まで回復し、今年はなんとか国民の義務である納税とカスカスの

生活だけはなんとかワタシとつれあいの合計収入250万円で

できそうである。扶養は箱入り娘一人、ネコ2匹。つつましながらもそんな

収入での生活は、けっこう面白おかしく、眠いが満足できるものである。





人は金がほしいのかorモノがほしいのか?

2007-05-09 06:51:48 oyazの投稿 
時々思うのです。

我々ニンゲンは「金がほしい、金がほしい」ってこぼしますが

ほんとうにあんな紙切れを何万枚もほしいって本気で思ってる人がいるん

だろうかって。

紙幣にしてもコインにしてもその国の、あるいはその地域で通用するって

取り決めた兌換券なわけで、紙幣自体コイン自体、ゴールドやダイヤモンド

のような価値があるわけでは、まったくないわけです。


そう考えると、我々が本当にほしがっているのは、金を手に入れたあとに

買える「モノ」がほしいわけ。

結局ニンゲンは「物欲」の呪縛から抜け出せない強欲生物かってところに

思考が行き着く。その次は

ならば「心頭滅却、火もまた涼し」的に悟りの境地に立って

「物欲」を持たないニンゲンになれればいいわけではないのか、って思う。

そうなれれば、もう「大金持ちになりたい」とか「ジャガーに乗りたい」とか

「4億円の豪邸に住みたい」とか

大それた馬鹿馬鹿しい欲なんぞは抱かなくなって、平安な気持ちで

毎日を過ごせるんじゃなかろうか、と。


ワタシは29歳にして家を建ててしまったのですが、後年、あと一軒家が

建つほどの金を損して、借金して死にかけ九死に一生を得、フシギな

ことにこうしてコンニチも生かされているので、

今は「金がほしい!」って欲がまったく出てこなくなったんです。

自給自足できるのであればそうして家族がそれぞれできることを分担

して生きていけるのが1番だろうって

今はそう思えるんです。

金なんて生活できるだけあれば、いいんじゃあないかなー。

多くあったり、儲けようって欲を出すと、結局、思い煩い、追い詰められ、

心臓爆々し、何のための人生なんだろうって、ふとむなしくなって、

遁走したり、自殺してしまったりするのが、オチなのかもしれません。

この記事に共感したら→ Good する

みんなのテーマ:金持ちドンちゃん VS ビンボーさっちゃん 

腕時計を持たない生活

2007-05-06 03:58:17 oyazの投稿


会社勤めをやめてから、ワタシは腕時計をはめなくなった。

泥や土、水にまみれる百姓仕事に邪魔になるってことも理由だったが、、、



現代人が会社に行く時、家で腕時計をはめる、

自身を会社時間という「縛り」の中に追い込んでいく瞬間である。



人って動物だから本来、体内時計を持っており

腕時計との誤差は15分内外くらいである。



、、、「時間」ほど、この世の生の「法則の究極のルール」に違いない

って思えるものは、ほかにない。



止まることは決してない、

まして遡ることも決して。



その刻一刻を無感情に打刻する時空間で

私たちは生まれ

大きくなり

親となり

刻一刻と

年寄りとなり

しわくちゃになり

脳細胞も骨密度もスカスカになり

やがて朽ちて、土くれにもどる日が来る。

どんな大金持ちも成功者も勝ち組も例外なく

生あるものは必ず一人残らず死を迎える日が来る。

それはこの世をスタートさせるにあたり、神サマが「永遠を

この世に付与するために最後に仕込んだ絶対法則」なのである。




「おまけの人生」

2007-05-04 07:32:14 oyazの投稿

俳優、声優の藤岡琢也さんがなくなってから1年が過ぎた。

サッポロ一番のCMや渡鬼でつとに有名な方だったが

彼が以前ラジオのパーソナリティをしていた時聞いたこの

言葉を印象的に覚えている。

病気から復帰してだったか、終戦を迎えた時だったか

どんな時節が背景だったかは忘れてしまったが

藤岡琢也は「これ以降は自分の人生はおまけだと思って

生きるんだ」と言って今日まで生きてきたのだ、

という話だった。



ワタシもことしで半世紀を生きた。

昨年の年収は80万円と

社会人になって以来の超ど級なビンボーに貧する

ことになったが、これが意外なことに結構幸せである。


そして昔なら寿命である年齢を迎え、今も元気に立ち働きが

できること、そして家族と貧しいながらも平凡な楽しい団欒を

囲めることが、とってもいい「おまけの人生」だなと感じる。

これからを「おまけの人生」と思うだけで

何事に対してもあせりや強欲や思いわずらいがなくなり、

気が楽になる。


藤岡琢也さんのように、「おまけの人生」を

これからも清清と生きたいものである。




1年3ヶ月ぶり 帰って来た「異邦人」

2007-05-03 06:43:18 oyazの投稿


昨日の雨が上がり、5月の爽やかな朝を迎え、庭の萌黄色がしっとりとして

いる。去年からこの辺りにも増えた『オナガ』という尾の長い、ムクドリほどの

大きさの鳥が「薫風かおる五月」とは相反した「ギーギー」という聞きづらい

声で、鳴いている。



3年前、ワタシはこのオナガを韓国ソウルのパークホテル周辺に広がる

公園内で見ていた。

韓国人たちは老若男女ウォーキングばやりらしく、ジャージや軽装で

懸命にスタスタと歩いていく。

ワタシ「イルボン」一人だけが、場違いなスーツ姿で腰を掛け、オナガたちの

枝を渡りゆくのを眺めていた。



仕事であれ、個人旅行であれ、異国に身を置く、と言うのは独特な感覚に

襲われる。

街にあふれる異国の言葉や看板、見知らぬ車列のただ中、

湿気やにおい、天気の移り変わるのも自国と異なる渦中に、突然

自分がひとり放り投げ入れられたような、そんな思いを抱く。



それは中東であれ、北欧であれ、中国、オーストラリア、ギリシャで

あっても同じ。

ワタシ一人が突然「異邦人」に変身する。




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