時々思うのです。
我々ニンゲンは「金がほしい、金がほしい」ってこぼしますが
ほんとうにあんな紙切れを何万枚もほしいって本気で思ってる人がいるん
だろうかって。
紙幣にしてもコインにしてもその国の、あるいはその地域で通用するって
取り決めた兌換券なわけで、紙幣自体コイン自体、ゴールドやダイヤモンド
のような価値があるわけでは、まったくないわけです。
そう考えると、我々が本当にほしがっているのは、金を手に入れたあとに
買える「モノ」がほしいわけ。
結局ニンゲンは「物欲」の呪縛から抜け出せない強欲生物かってところに
思考が行き着く。その次は
ならば「心頭滅却、火もまた涼し」的に悟りの境地に立って
「物欲」を持たないニンゲンになれればいいわけではないのか、って思う。
そうなれれば、もう「大金持ちになりたい」とか「ジャガーに乗りたい」とか
「4億円の豪邸に住みたい」とか
大それた馬鹿馬鹿しい欲なんぞは抱かなくなって、平安な気持ちで
毎日を過ごせるんじゃなかろうか、と。
ワタシは29歳にして家を建ててしまったのですが、後年、あと一軒家が
建つほどの金を損して、借金して死にかけ九死に一生を得、フシギな
ことにこうしてコンニチも生かされているので、
今は「金がほしい!」って欲がまったく出てこなくなったんです。
自給自足できるのであればそうして家族がそれぞれできることを分担
して生きていけるのが1番だろうって
今はそう思えるんです。
金なんて生活できるだけあれば、いいんじゃあないかなー。
多くあったり、儲けようって欲を出すと、結局、思い煩い、追い詰められ、
心臓爆々し、何のための人生なんだろうって、ふとむなしくなって、
遁走したり、自殺してしまったりするのが、オチなのかもしれません。
この記事に共感したら→ Good する
みんなのテーマ:金持ちドンちゃん VS ビンボーさっちゃん
腕時計を持たない生活
2007-05-06 03:58:17 oyazの投稿
会社勤めをやめてから、ワタシは腕時計をはめなくなった。
泥や土、水にまみれる百姓仕事に邪魔になるってことも理由だったが、、、
現代人が会社に行く時、家で腕時計をはめる、
自身を会社時間という「縛り」の中に追い込んでいく瞬間である。
人って動物だから本来、体内時計を持っており
腕時計との誤差は15分内外くらいである。
、、、「時間」ほど、この世の生の「法則の究極のルール」に違いない
って思えるものは、ほかにない。
止まることは決してない、
まして遡ることも決して。
その刻一刻を無感情に打刻する時空間で
私たちは生まれ
大きくなり
親となり
刻一刻と
年寄りとなり
しわくちゃになり
脳細胞も骨密度もスカスカになり
やがて朽ちて、土くれにもどる日が来る。
どんな大金持ちも成功者も勝ち組も例外なく
生あるものは必ず一人残らず死を迎える日が来る。
それはこの世をスタートさせるにあたり、神サマが「永遠を
この世に付与するために最後に仕込んだ絶対法則」なのである。
「おまけの人生」
2007-05-04 07:32:14 oyazの投稿
俳優、声優の藤岡琢也さんがなくなってから1年が過ぎた。
サッポロ一番のCMや渡鬼でつとに有名な方だったが
彼が以前ラジオのパーソナリティをしていた時聞いたこの
言葉を印象的に覚えている。
病気から復帰してだったか、終戦を迎えた時だったか
どんな時節が背景だったかは忘れてしまったが
藤岡琢也は「これ以降は自分の人生はおまけだと思って
生きるんだ」と言って今日まで生きてきたのだ、
という話だった。
ワタシもことしで半世紀を生きた。
昨年の年収は80万円と
社会人になって以来の超ど級なビンボーに貧する
ことになったが、これが意外なことに結構幸せである。
そして昔なら寿命である年齢を迎え、今も元気に立ち働きが
できること、そして家族と貧しいながらも平凡な楽しい団欒を
囲めることが、とってもいい「おまけの人生」だなと感じる。
これからを「おまけの人生」と思うだけで
何事に対してもあせりや強欲や思いわずらいがなくなり、
気が楽になる。
藤岡琢也さんのように、「おまけの人生」を
これからも清清と生きたいものである。
1年3ヶ月ぶり 帰って来た「異邦人」
2007-05-03 06:43:18 oyazの投稿
昨日の雨が上がり、5月の爽やかな朝を迎え、庭の萌黄色がしっとりとして
いる。去年からこの辺りにも増えた『オナガ』という尾の長い、ムクドリほどの
大きさの鳥が「薫風かおる五月」とは相反した「ギーギー」という聞きづらい
声で、鳴いている。
3年前、ワタシはこのオナガを韓国ソウルのパークホテル周辺に広がる
公園内で見ていた。
韓国人たちは老若男女ウォーキングばやりらしく、ジャージや軽装で
懸命にスタスタと歩いていく。
ワタシ「イルボン」一人だけが、場違いなスーツ姿で腰を掛け、オナガたちの
枝を渡りゆくのを眺めていた。
仕事であれ、個人旅行であれ、異国に身を置く、と言うのは独特な感覚に
襲われる。
街にあふれる異国の言葉や看板、見知らぬ車列のただ中、
湿気やにおい、天気の移り変わるのも自国と異なる渦中に、突然
自分がひとり放り投げ入れられたような、そんな思いを抱く。
それは中東であれ、北欧であれ、中国、オーストラリア、ギリシャで
あっても同じ。
ワタシ一人が突然「異邦人」に変身する。