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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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いくつになっても『青春』のコツ

2007-05-30 04:06:43 oyazの投稿

どんな美人もやがて母となり婆となりサレコウベになる。

どんな「ヨンサマ」も髪が抜け腹がたるみあばたに老いさらばえる。

万人に課せられたこの世の鉄則の中でしか我々は生きられない。


老いればそれだけではない。

達観した仙人然とするどころか、

ますます悪癖や性格の悪さ、我の強さが顕著になり、

表面だけではなく、記憶も、精神も、人間性まで

「老醜」や「老害」と言われる醜さを帯びてくる。


それを承知の上で、自分の後半生を

いかに「自分の老いと共に」いきいきと生きるか

そのスタンスを決めておくことは、良いことかもしれない。


どんなに若い時、頭が良かった人もやがてボケる。

目がかすむ、手がしびれる、腰痛が来て、歯が抜ける。

手塚治虫も言ってたように「丸がうまく描けなくなる」。

スポーツ万能だった体が、足が、腕が言うことを聞かない。


それでも「チャレンジ」していくのだ、いくつになっても。

新しい仕事や趣味に挑むのだ、失敗して覚えながら。

醜くなっても、それだからこそ、おしゃれもするのだ。

「ネクタイ10本持ってても締めるのは1本」とかおっしゃらずに

いろんな柄や色や風合いを季節ごとに楽しめば良い。

「老後の金のたくわえ」に汲々として今が楽しくなければ

振り返った「わが人生」は、きっと楽しくはない。


「今をいきいきと生きよ」それはワタシが10代か

20歳のころ読んだゲーテの生き方を書いた新書のタイトルである。

内容はほとんど忘れてしまった(老いで)

そのタイトルだけを後生大事にいまだに記憶している。

それが使える齢を迎えている。



里山の朝

2007-05-28 04:45:36 oyazの投稿

わが家の庭の広さは45坪(5×9m位)。

で~んと鎮座するのは23年風雪に耐えアメシロにも負けず

今や幹周り70cmほどに成長した高さ15mの欅。



その周りに、白木蓮、サンシュユ、かえで、ムクゲ、どうたん、

松、柴垣、アジサイ、金木犀、ヒイラギ、ライラック、椿、雪柳、

梅の古木、つげ、南天、カリン、牡丹などが良いバランスで立っている。

そこに、50~60cm位になったドングリの若木を植えたり

榊の苗木を加えたり、足元に花イチゴやムスカリを植栽したり、

鳥が運んできていつの間にか増えだしたネジバナが群れになってきたり、

しだいに、その庭は小さいながらも「自然の森」に近づきつつある。


畑から飛んできたアスパラがヒョロヒョロ苗の顔を出したり、

人知れずアケビのつるが這い出していたり、

松の赤ちゃんが10cmほどの小ささでスックと立っていたり、

ナンデこんな庭の真ん中に、とアルジ自ら首をかしげたくなる

「タラの木」の若木が生え出したりと、、、、予想外の植生たちは

我が家の窓越しに見える小さい庭の中で、

けれど生きた小宇宙のように入り乱れつつ息づいている。


時折、ひときわ大きな欅を目指すのか、

キジバトのつがいが「ホーホー」と低音を響かせてやってきたり

ここ4~5年で増えだしたオナガの群れが「ギィーギィー」鳴いたりしている。

ヒヨドリやツグミ、雀たちも他の鳥と時間帯を異にして、やってくる。

「ケンケーン」とオスの雉がメスを呼ぶ鳴き声が

すぐ近くの里山からこだましてくる。そんな朝。





言葉以外のCommunication世界のルール

2007-05-27 03:57:47 oyazの投稿

エバラだとかホソキだとかの類は性に合わないのだが、

ワタシは「言葉」や「論理的説明」では解明や証明できない

いわゆる「霊的な世界」や「偶然」「何かに導かれる」「直感」

「言葉以外のCommunication」ってこの世に厳然とある

ってことを、自然に素直に肯定する人間の一人である。


だから言葉が通じなくても

人は犬やネコや鳥たちとも意思疎通できるし

植物にさえ語りかけたり、愛情を注いだりしている。


ただ霊的な世界には何かの映画にあったように

ルールがあり、死んだ人が生きている人に

この世で話すように、聞こえるようにはCommunication

してはならない、できない、絶対ルールがあるらしい。


ワタシ以外の人が「死ぬ」と言うのは

肉体的に死ぬことであって

ワタシの中から「その人がいなくなる」ことではない。

あくまでこの世を「卒業」なりして、見知らぬ土地に

転校か、ひっこしして行った、ということでしかない。


死んだ人はワタシが「そっちへひっこし」するまで

ずっとワタシと一緒にいるのである。

そういう意味では一緒に暮らしていた犬や金魚さえ

ワタシと一生、ずっと一緒にいる。


「それはタダの記憶だろう」って言うかもしれない。

タダたんにそうかもしれない。

けれど、フシギなのは、犬や飼っていた金魚や

ましてやもっと身近にいた人間たちが今も現に

生きているこのワタシという人間の生きている

間にする「判断」や「「価値観」や「愛情表現」に

かなりのウエイトで「影響力」を有しているということである。


ところで

先日山あいの温泉に捨てられていた子ネコ3匹が

心にひっかかったままだったので

きのう、16歳のワタシと言葉のCommunicationの

できない(言葉以外ではCommunicationできている)娘と

「ね~、こないだのネコ君たちどうしたかな~」

「まだ捨てられてたマンマだったらウチで飼おうか?」って

一方的に話しかけながら、二人、車に乗って山道を

猛スピードで温泉へ疾駆した。


幸いにして(少々がっかりして)、ネコ君たちの姿は

どっこにもなかった。しばらくあたりを歩き回って

泣き声でもしないかと耳を澄ましたり

霊感を働かせたりしてみたが

気配はなかったので

「良い人に拾われたらしいね」って娘に締めくくりの

言葉をかけ、温泉にも入らずただただ家に戻ってきた。

ただの徒労に終わった、ガソリンの無駄遣いをした、

いや、そうではなく

16歳の娘がのちのち

家人のワタシたちが「よそにひっこし」してしまったあと

こんなことが彼女の価値観に必ずや大きな「影響」をし

次の世代に引き続き、生き続けるのである。

捨てられた人間/捨てられた猫

2007-05-25 05:34:17 oyazの投稿

東京のゴミ集積所に捨てられていた赤ちゃんの

ニュースは、実に暗澹とした気持ちにさせられる。


捨てた親が未婚なのか、学生なのかわからない。

いずれにせよ、産み育てることができない人がそう

したのだろうが、、、ゴミ収集車の職員がその「ゴミ」を

収集車にまさに積み込もうと近づいた、その時「この子」は

泣いたのだ。泣き声をあげたから「ゴミ」にならなかったのだ。

なんという強い生命力、そして剛運を持つ赤ん坊だろう。


母親の足音かと、あるいは反射的に泣いたのかも知れない。

生み育てられない状況の中で生み落とされ、ゴミと捨て去ら

れようとした一人間が、日の目を見る命拾いをした今回だが。


この子が大きくなり、自分の出生の秘密、捨てられた過去を

知った時、猛烈すぎるショックとやり場のない憎悪で、まだ見ぬ

親たちを憎み、この世を焼き払わんばかりに呪わないだろうか。



先日山あいの小さな温泉に、親子三人でドライブがてら出かけた。

人前にまだ出ることのできない16歳の大きな幼い娘につきあって

つれあいは温泉に入らず駐車場で待っていた。

ワタシが上がり、車に戻ったのだが家人がいない。

周りを見渡すと、建物の陰でつれあいがワタシをそっと

手招きをしている。

行ってみて、ビックリ。

ワタシの手のひらに乗るほどのそれはそれは

小さな小さな子猫が三匹、ワタシを見てヨタヨタと後ずさりしていく。

そばには捨てられた時に入れられていたダンボールがあった。

またワタシは想像をした、どんな人がどんな気持ちでこの子達を

ここに捨てていったのか、、、と。


昨日は保育園の保育料滞納者が全国的に激増していると

TVで聞いた。あるお母さんは新車を購入し、月々の車の

返済に7~8万かかるので保育料が払えない、と答えた。


バイト先のホテルの新入社員が「明日新車がくるんです」って

嬉しそうに話しているのが聞こえた。若いので保険料も高く

車のローンと保険で月々6~7万返済しなければならない

のだとか。

この若者も結婚して子どもをもうけ、捨てないで育てることが

できたら、しかし途中で家でも購入し、ローンを組んだら、

保育料は払わないのかもしれない、、、と

ワタシは反射的に何の違和感もなくそう想った。

ワタシは今時の若者を一色単にそんな風に偏った

見方で単純化してくくってしまう自分にも気づいた。





どこに行こうとする?「日本丸」、波乱含み波高し「世界」

2007-05-24 04:15:54 oyazの投稿



ワタシの親父が逝ってからはや丸7年。

生きていれば今年で80。

3月になくなった作家の城山三郎と同い歳である。

戦中派の城山は自分の人生を振り返り語っていた

「戦争っていうのはこんなに怖いものかと、、、

もうやめてくれ、わかったからやめてくれって思った。

、、、、、楽しかった思い出なんか一つもなかった」と。



同い歳の親父が似たようなことを言っていたのを思い出す

「自分の青春時代は戦争一色でまったく灰色そのものだった。

アメリカのグラマンが目の前を耳をつんざく機銃掃射を繰り返す」



今、アベシンゾーは戦争につながる憲法改正や教育改革を

力づくで、数頼みで、強引に押し進めつつある。

こんな暴挙を「自民党に一票入れる」ことで絶対多数の国民が

「その方向でいいです」って選択してしまったことに、

無勢少数の国民の一人は非常なるもどかしさを覚えている。

なぜ「戦争はいけない」ってみんな強く思わないんだろう?

「戦争につながる道を開こうとしている政党」に

なぜ「ノー」と言わないのだろう、と。


ワタシも含め、戦後生まれの「戦争を知らない子どもたち」は

この日本が本当は「アメリカの植民地」であることをもっと

きちっと知らなければならない。

小さいときから日常的にTVや流行を通じ、洗脳的に

アメリカナイズされ、「アメリカは良い」という価値観を

まったく自然に身に着けてきてしまった我々ニッポンジン。



若者はどんどん海外旅行をしてもっとよそを見てくればいい。

それは「観光旅行」「大名旅行」ではなく真摯に自分探しの

旅として、見聞を広めてきてほしいのだ。


エコノミックアニマルと言われたかつての日本人だが

ロシアも中国も今、おんなじアメリカの敷いた市場経済という

土俵で、ニッポンジンを押しのけてモンゴル勢が角界を

制するように、世界経済界の新興一大勢力になってきた。

「グローバル化」の号令の元で、石油を武器にもつ中近東が

石炭の宝庫を抱えるオーストラリアが、同じく鉱物資源豊富な

ロシアと中国が、「一人勝ち」を続けてきたアメリカ&日本勢に

がっぷり四つに組んで、アメリカが持ちこたえられなくなりつつある。


そんな情勢の中で一日本人百姓は

マツオカゴーガンフソンノー(タリン)水大臣のもと

日本農業にサンサンたる太陽の陽を浴び、希望に満ち

農業にまい進せんと、

なんて、もちろんっ!なれるはずもなく、

農業だけでなく、日本全体の行方を

親父や城山三郎になり代わって、

非常に心配しているのである。








Agricultural Human Life

2007-05-21 08:06:20 oyazの投稿 
きのう今日と、とても爽やかな、湿気の少ない、

暑くも寒くもなく、ちょうどいい皐月晴れの日が続く。


「薫風かおる五月場所」と大相撲のアナウンサーが言っていた

まさにそんな爽快な天気のいい日は、朝から

「AgricultureダゼッBaby!」って感じだっ!


「頭なんか関係のない

ただただ肉体労働/忍耐持久力怪物みたいに思われがちな

Agriな人たちだが、けっこう今時はHighSocietyな連中も多く

馬鹿にしちゃいけないぜっ、そこんところヨロシクッ」ってな風に

変わっている。


Agriをベンチャーの一つ、位に考えて

クールに、チャレンジしてくる若者も増えつつある。

科学的に、合理的に、無駄なく、儲けを計算し、

ビジネスレベルで仕切っていく。


でも、やることは昔から一緒だから、最後に必要に

なるのは昔ながらの「根気」に行き着くわけだが。

それでも、達観して続けてみればいいAgriculture。


このFieldにはオフィスビルにはない

バイオ研究所なんかをはるかに凌ぐ、自然界の法則が

時間の経過と共に刻一刻と無から有が生じ、長じ、

花開き、実を結び、朽ち果てて、また来年芽吹く不可思議が

目の当たりに繰り広げられている。


それは、金を得るためだけに自分のすべてを

会社に捧げてしまったサラリーマンが知らないか忘れている

本来の自然とその中で共生しようとする本来の人間の姿が

別個の世界として、広がっている。

ビジネスマンが仮想社会の人間たちなら

Agriなペイゾンこそ実社会、現世を生きる人間たちである。


タマの休みに「体験」でもいいからAgriをしてみたらいい。

「ジャンボだTOTOだっ」て何もかも金で幸福になれると

勘違いしている市場経済的価値観が

なんだか机上の空論か、紙切れ一枚の安っぽさに、ふっと

思えてくるやも、わからない。

「ズボン」を「パンツ」と「ゆ」わないで!

2007-05-20 12:49:15 oyazの投稿

ワタシには今時の娘が3人もいるので


今時の子たちのモノ言いや考えや気持ちは、意外にわかる。

モノ言いや服装や化粧は「下品に」「汚く」キモク変わってしまったが

どんなに欧米に体格や様式が近づいても、

日本人はどこまで行っても日本人のまんまであり、

金髪に髪だけ染めても、スラングまじりでラップを踊っても

「あんたはどうあがいたってニッポンジンのまんまです」って!!


そして、どんなに本音と建前を上手に使い分けられるようになろうと

「いい子を演じれば演じるほど、ギャップで切れたり爆発してしまう」

そういうことは昔だっておんなじだったわけで、

ワタシたちの世代とどこがどう違っているかといえば、

「なにクソッ!」がすこ~しだけ少なくなった、だけなのかもしれない。


「人間は何故生まれ、どこに行くんだろう?」って

ワタシは5歳のころから考えていたが、

そんなことを教えてくれる先生も大人もいなかったし、

いまだに明確に答えられる人はいないし、

「死ぬまで生きてみるしかない」のが

地球人全員に与えられている『平等』なんだと今はやっと言える。


そしてジェントルマン顔して世界のトップランナーとして走り続け

日本も手本にしてきたUSAが「一番悪い」市場経済をスタートさせ

もう、誰にも止めることができなくなっていることがわかる。


USAの最たる文化は『映画』であり

USA国民のスポーツ文化のそもそもは『野球』だった。

それはそれで「おもしろい!」

しかしそういう庶民や娯楽レベルの好感とは裏腹に

USAの歩んできた政治と経済は紳士面したマフィアの

それに思える。だから今時の若者たちよ、もろ手をあげて

アメリカのものまねなんてしないでほしい。

日本人は決して人としてアメリカ人に「負け」たりしていない。

むしろ、文化的にも精神的にも数段優れて繊細な種族である。

食文化は味覚と五感も含め「世界一」である。

俵屋宗達や本阿弥光悦の絵や書や工芸、焼き物に

匹敵するものを欧米人はもっていなかった。

日本の文字には漢字もひらがなもカタカナも英語もある。

お祭りは東北だけでも何百もある。

江戸時代という「循環型社会」が日常にできていた時代ももっている。

日本人であることに「見た目なんかで卑屈にならず」

「もっともっと日本を知って味わって誇りを取り戻そうよ」って

ワタシは言いたい。「なんで~あのスットコドッコイガ~っ!」て

みんなで言ってあげようじゃあないか!!


「人生は4コマ漫画」(脳の超整理法的極意)

2007-05-19 05:13:59 oyazの投稿

TVで、漫画家の故「はらたいら」氏の特集をたまたま見た。

「人生は4コマ漫画

起承転結がある

3コマ目をどう過ごすかで4コマ目が決まる

3コマ目が一番大事」、、、、そんな氏のコメント。


中年世代は誰でも知っているが

この「はらたいら」のクイズの正解率には舌を巻いた。

その極意は、なんとこの「人生4コマ漫画」の考え方

そのものだったことを、今回のTVを見て初めて知った。

普段から勉強し、博覧強記ではあったのだろうが

クイズの答えを推理するのにも4コマ漫画に

当てはめて考えていたところが面白い。


問題を4コマに整理し、穴の開いた何コマ目かを

「起承転結」の整合性の上で推理し答えを出す。

『クイズダービー』正解率70%の秘訣はそれだった。


さっそくワタシも「はらたいら」式4コマ漫画的整理法を

新しい仕事を覚えるのに応用してみた。

するとどうだろう、

じつに頭にすーっと記憶できることに気づいた。

何かを覚える時は、

メモ帳に、箇条書きした要点を右に書き連ね

大きい四角い線で囲み

左にインデックス代わりに「起」「承」「転」「結」

の文字を一文字づつ縦に書き込み

縦線横線で4コマに整理すれば、できあがり。

実に「すーっと」脳はそれをメリハリよく記憶する。

なんでもない簡単なことだが「コツ」とは、えてして

そんな「なんでもない何か」なのかもしれない。




若者に人気が出てきたの?「農業」

2007-05-18 04:32:38 oyazの投稿 
ワタシは若い時

いろんな国を見る機会があった。


北はマイナス25度のカナダのオーロラの見える地

南は40度で道路に陽炎がゆらめくワラビーが併走する豪国

東はインディアンが出てきそうな赤茶けたグランドキャニオン

西はパリのモンマルトルの雑貨屋やアムスのガラス窓

北欧の短くも美しい夏に登山電車や船に乗りフィヨルドを渡り

エジプトアレキサンドリア近くのクレオパトラの泉に潜り

イスラエルの死海の半端でない塩辛さに目を覆いながら

帰りのタクシーの中でアラブ人の話を一生懸命に聞き、

アテネのOP競技場で夜通しブズキと歌声に酔っていた。


日本に帰るたんび思った、

日本ほど1年を通して四季があり

水と緑があり、南北に幅のあるさまざまな食文化と

祭などの伝統文化が今も数多く息づく国は

ほかにはないだろうって。

そんな日本の瑞穂の国と言われ続けた農業国は

世界No.1に象徴される自動車販売を筆頭とする工業国となり

「米」を作っても食っていけないのでドンドン米作りを放棄し

雑草に覆われた田んぼが目に付く農業荒廃国になってきた。


そんな時代にワタシはあえて奮起して「百姓」になったが

人が言っていたとおり「農業だけでは食っていけない」

まさにそのとおりの現実に今、直面している。


作物は何でもいいのだが、たとえばキュウリ。

一本10円が農家から買い上げる卸値だとする。

200万円の売上にするには実に20万本を収穫し販売し

続けなければならない計算である。経費が40%とすれば

手元に残る現金は120万円。税金も納められない。

米にいたっては経費が70~80%かかるから

同じ売上がある人でも手元に残る現金は5~60万円。

そのほかにベンツが買えるほどの農業機械の借金が残る。


TVで若者の農業を希望する数が2倍に増えていると言っていた。

「ベンチャー」として、果敢に挑戦する姿には大いに賛成だが

「夢と現実」はまったく違いすぎるのも現実であることを知ってほしい。


今の日本においては「農業で儲ける」という工業的な思いは捨て

視点/考え方、そのものを変えたほうがいいように思う。

むしろ「自給自足的農業」か「副業農業」に観点を変えるべきだ。

汲々として切羽詰ってなんてやらないことだ、

「農業に命を懸けて」なんて思うな。


何故そんなにシゴトをするの?増やすの?

2007-05-16 05:22:17 oyazの投稿


差し歯を心配のないしっかりしたものに作り変え、

夜道の運転にもそなえメガネのレンズも交換した。

ワイシャツも2枚購入、黒いズボン・黒い靴・ベルトも新調。

初めて勤める会社のユニフォームのブレザーとネクタイを

身にまとえば、新顔のホテルフロントマンのできあがりである。


昨日より6月からの1本立ちに向けて、実践的な実習が

始まった。長年、旅行会社の営業マン兼添乗員だった自分

には、久しぶりのサービス業の現場復帰である。

2年間のブランクはあったが、なつかしい「接客7大用語」や

電話予約や問い合せへの受け答え、パソコンを使っての予約や

空室状況の把握・修正の仕方など、すぐに呑み込めた。

農業にも老人ホームの宿直にもない新鮮味を味わいながら

しかしほとんど違和感もなく、すっと職場に溶け込めて行く感じは

やはり慣れ親しんだ同業種だからであろうかと思われた。


6月からはナイトフロントと称する仮眠のない夜通しの夜勤フロント

マンとして月に10日ほど勤務する予定である。そのほかに老人

ホームの宿直を10日こなしながら、日中は花栽培もやろうという

計画。「いつ眠るんだい?」ってことになるが、ワタシはそもそも

あんまりたくさん眠れるほうではない人間なのでうとうととその辺で

ちょっとだけ休息すればナントカなってしまうだろうとタカをくくって

いる。本当は「もう寝なくともいい、酒も飲まなくてもいい、死ぬまで

元気に働き続けられるように、とにかく元気で健康に働き続ける」

なんていう無理くりの、ワケのわからない強引なOyaz流理屈と

ノリで後半生に臨んでいるのである。










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明日死ぬ人とすぐそばにいて

2007-05-15 05:53:52 oyazの投稿


ワタシは3日に1度老人ホームに夕方から翌朝まで泊り込む

宿直員さんとなって働いている。というよりはジーサンバーサン

たちと一緒にその時間だけ一緒にホームで暮らしているって

ほうが感覚的に近い。


別に電話を取ったり、掃除をしたり、ナースコールがあると

対応するくらいの仕事しかしていないから、救急車でも呼ぶ事態に

ならないかぎり、

おおぜいの歳老いた家族と一晩過ごしている、って感じである。


上は97歳までいる所帯だが、みんなを見ていてつくづく思うのは

人間いくつになっても、歳を重ねただけでは、悟りにいたるわけ

ではないってこと。


80、90のオババたちがその歳になってもいがみ合ったり、

人間関係に悩んで泣いたり、愚痴をこぼしたりしているのだ。

その一方で脳みそや骨のシナプスは壊れていく一方だから

軽いボケがはじまり、腰が曲がり、足腰が立たなくなり、杖を

ついたり、歩行器を押したりし出す。


「どうしてあんなに頭脳明晰だった私がこんなになってしまう

のかしらねー、歳とるって、おそろしーことですよぉー」って

あるバーサンはワタシにせつなげに訴えるように教える。


あくる日、太陽が山あいの施設に差し込み鳥のさえずりと共に

すがすがしい朝を迎え、皆が朝食を終え、部屋で落ち着く頃

ワタシは明け番で、山を下って帰る。


そして翌々日、またワタシは施設へと登ってくる。

介護員の引継ぎを受ける。

「だれそれさんが昨日お亡くなりになりましたのできょうの在籍は、、」

そんな会話が淡々と行われる。

『嗚呼、あのバーサンとうとう逝っちゃたんだー』と

ワタシは一人心の中でさみしく感じ入る。


人は必ず死ぬ日が来る。

いっつもみじかでそれを見ながら、

ワタシがあした死ぬ日を迎えたら

一体最後のきょうをどう生きていくだろうって

よく考えるようになった。

3番目のこの子と生きる素晴らしさ

2007-05-13 04:16:36 oyazの投稿


3番目の娘は小学5年で正規の道を下り

若いみそらで人生をドロップアウトした。

それから5年。

家に引きこもってばかりいたせいか

ココロにささったトゲが徐々にそうさせるのか

学習訓練を停止した脳と肉体は

停滞するのではなく

衰えていくのである。



結果娘はADHDに似た発達障害と幼さを残したまま

背丈だけが大人になってしまった。

それでも、そんな娘がいる状況が深刻でもなく

悲惨でもなく、ヒクツでも、不幸でもないのは

彼女が嘘をついたり、見栄を張ったり、

人の悪口をいったり、いっさいしないからかも

知れない。その性格でいじめられたのだろうが

学校に行ってた頃から、人を悪く言ったり

いじめたりすることが決してなかった。

そんな仏様みたいな少女は今は手を引いたり

肩を後押ししてあげないと次の行動ができない

鈍い反射神経の障害児となってしまったが

それもまた彼女の個性ととらえ、おもしろいん

じゃあないかと思っている。



なにより時折見せる笑顔がかわいいし

ユーモアセンスにも笑わせられる。

夫婦は死ぬまでこの子のそばにいるだろう。

そんな親子関係もこの子がいなければ

ありえなかった。

これは我々夫婦にとって

いい人生なんだと思える。

人はどう生きるべきなのか?

2007-05-12 06:43:19 oyazの投稿 
ワタシは不思議にも、もう半世紀も生きながらえた。

だから今年からは あとは「余生」と位置づけ、生き始めた。

こう、気楽に構えて生きてみると、初めて冷静に見えるものもある。



たとえば「株」である。

若い時分は「ナニが儲かるか」の観点でしかその株を見ていなかった。

今は「その会社の社長は良いか悪いか」で「買い」かそうでないかが見

れる。そう見れるようになると、目先の株価の上がり下がりなどは問題

ではなくなる。ここが一番大事だ。



「金がほしい金がほしい」と思っている間はこういう境地にはなれない。

日々株価や相場の時価をチェックし、統計を見、いかにも「株や経済を

理解している」気にはなっているが「目先の欲」で本当のその会社の価値や

世界情勢は見えていなかった、今はそう断言できる。「少しあがればいつ

売ろうか。少し下がればいつ手放そうか」そんなふうに川に浮かぶ木の葉の

ように揺れ、翻弄される己がいた。そのうち自身を律しきれずやがて濁流に

飲まれ沈んでしまう。そんな「地獄の日々」も過ごしたから、今はよく金のこと、

会社と株価の違い、市場経済の功罪が冷静に見れる気がする。



それにしてもニンゲンは人間として「社会」で生きていく環境しか選択できない

とすれば、お金も必ず必要であり、稼ぐ方法も考えなければならないし、

現に行動し、働き、金を得なければ生きていけないわけである。

どんな方法でも良いと思うのだ(犯罪以外なら)金を得る方法は。

今のワタシなんかは「日中自分のしたいことがある」から

夜のバイトで生活費分だけ稼ぐ方法を選択している。

昨年闘病生活を余儀なくされたつれあいも少しづつ仕事ができるように

まで回復し、今年はなんとか国民の義務である納税とカスカスの

生活だけはなんとかワタシとつれあいの合計収入250万円で

できそうである。扶養は箱入り娘一人、ネコ2匹。つつましながらもそんな

収入での生活は、けっこう面白おかしく、眠いが満足できるものである。





人は金がほしいのかorモノがほしいのか?

2007-05-09 06:51:48 oyazの投稿 
時々思うのです。

我々ニンゲンは「金がほしい、金がほしい」ってこぼしますが

ほんとうにあんな紙切れを何万枚もほしいって本気で思ってる人がいるん

だろうかって。

紙幣にしてもコインにしてもその国の、あるいはその地域で通用するって

取り決めた兌換券なわけで、紙幣自体コイン自体、ゴールドやダイヤモンド

のような価値があるわけでは、まったくないわけです。


そう考えると、我々が本当にほしがっているのは、金を手に入れたあとに

買える「モノ」がほしいわけ。

結局ニンゲンは「物欲」の呪縛から抜け出せない強欲生物かってところに

思考が行き着く。その次は

ならば「心頭滅却、火もまた涼し」的に悟りの境地に立って

「物欲」を持たないニンゲンになれればいいわけではないのか、って思う。

そうなれれば、もう「大金持ちになりたい」とか「ジャガーに乗りたい」とか

「4億円の豪邸に住みたい」とか

大それた馬鹿馬鹿しい欲なんぞは抱かなくなって、平安な気持ちで

毎日を過ごせるんじゃなかろうか、と。


ワタシは29歳にして家を建ててしまったのですが、後年、あと一軒家が

建つほどの金を損して、借金して死にかけ九死に一生を得、フシギな

ことにこうしてコンニチも生かされているので、

今は「金がほしい!」って欲がまったく出てこなくなったんです。

自給自足できるのであればそうして家族がそれぞれできることを分担

して生きていけるのが1番だろうって

今はそう思えるんです。

金なんて生活できるだけあれば、いいんじゃあないかなー。

多くあったり、儲けようって欲を出すと、結局、思い煩い、追い詰められ、

心臓爆々し、何のための人生なんだろうって、ふとむなしくなって、

遁走したり、自殺してしまったりするのが、オチなのかもしれません。

この記事に共感したら→ Good する

みんなのテーマ:金持ちドンちゃん VS ビンボーさっちゃん 

腕時計を持たない生活

2007-05-06 03:58:17 oyazの投稿


会社勤めをやめてから、ワタシは腕時計をはめなくなった。

泥や土、水にまみれる百姓仕事に邪魔になるってことも理由だったが、、、



現代人が会社に行く時、家で腕時計をはめる、

自身を会社時間という「縛り」の中に追い込んでいく瞬間である。



人って動物だから本来、体内時計を持っており

腕時計との誤差は15分内外くらいである。



、、、「時間」ほど、この世の生の「法則の究極のルール」に違いない

って思えるものは、ほかにない。



止まることは決してない、

まして遡ることも決して。



その刻一刻を無感情に打刻する時空間で

私たちは生まれ

大きくなり

親となり

刻一刻と

年寄りとなり

しわくちゃになり

脳細胞も骨密度もスカスカになり

やがて朽ちて、土くれにもどる日が来る。

どんな大金持ちも成功者も勝ち組も例外なく

生あるものは必ず一人残らず死を迎える日が来る。

それはこの世をスタートさせるにあたり、神サマが「永遠を

この世に付与するために最後に仕込んだ絶対法則」なのである。




「おまけの人生」

2007-05-04 07:32:14 oyazの投稿

俳優、声優の藤岡琢也さんがなくなってから1年が過ぎた。

サッポロ一番のCMや渡鬼でつとに有名な方だったが

彼が以前ラジオのパーソナリティをしていた時聞いたこの

言葉を印象的に覚えている。

病気から復帰してだったか、終戦を迎えた時だったか

どんな時節が背景だったかは忘れてしまったが

藤岡琢也は「これ以降は自分の人生はおまけだと思って

生きるんだ」と言って今日まで生きてきたのだ、

という話だった。



ワタシもことしで半世紀を生きた。

昨年の年収は80万円と

社会人になって以来の超ど級なビンボーに貧する

ことになったが、これが意外なことに結構幸せである。


そして昔なら寿命である年齢を迎え、今も元気に立ち働きが

できること、そして家族と貧しいながらも平凡な楽しい団欒を

囲めることが、とってもいい「おまけの人生」だなと感じる。

これからを「おまけの人生」と思うだけで

何事に対してもあせりや強欲や思いわずらいがなくなり、

気が楽になる。


藤岡琢也さんのように、「おまけの人生」を

これからも清清と生きたいものである。




1年3ヶ月ぶり 帰って来た「異邦人」

2007-05-03 06:43:18 oyazの投稿


昨日の雨が上がり、5月の爽やかな朝を迎え、庭の萌黄色がしっとりとして

いる。去年からこの辺りにも増えた『オナガ』という尾の長い、ムクドリほどの

大きさの鳥が「薫風かおる五月」とは相反した「ギーギー」という聞きづらい

声で、鳴いている。



3年前、ワタシはこのオナガを韓国ソウルのパークホテル周辺に広がる

公園内で見ていた。

韓国人たちは老若男女ウォーキングばやりらしく、ジャージや軽装で

懸命にスタスタと歩いていく。

ワタシ「イルボン」一人だけが、場違いなスーツ姿で腰を掛け、オナガたちの

枝を渡りゆくのを眺めていた。



仕事であれ、個人旅行であれ、異国に身を置く、と言うのは独特な感覚に

襲われる。

街にあふれる異国の言葉や看板、見知らぬ車列のただ中、

湿気やにおい、天気の移り変わるのも自国と異なる渦中に、突然

自分がひとり放り投げ入れられたような、そんな思いを抱く。



それは中東であれ、北欧であれ、中国、オーストラリア、ギリシャで

あっても同じ。

ワタシ一人が突然「異邦人」に変身する。




変わりゆく体 無駄のない魂へ

2007-06-30 14:49:38 oyazの投稿 
アゲハチョウが畑の水路脇で

美しい姿のまんま横たわっていた。


何故、あれほど醜いイモムシが、美しい蝶になるのか

いまだに不思議だ。

もしかしたら、人間は今がイモムシの段階なのを

神様が示唆しているのかも、、、しれない、と思った。


今年81になった義母がウチからほど遠くない介護付き

施設に移った。大正15年生まれ、千里を行って千里を帰る

トラ年生まれは、若くして離婚し、看護婦を続けながら

一人娘を母一人で立派に育てた。その一人娘を

4大まで行かせ、そこでめぐり合ったコトモアローに

このワタシに嫁がせるのだ。そして退職を機にワタシたちと

協同して家を建て、一緒に住むことになる。

離婚したイヤな思い出のこの県に舞い戻ることになってしまった。

そして、おそらくは「終の棲家」になるであろう新施設に

隣町の施設から越してきた。この町こそ、結婚し嫁いで来

一人娘を産んだ、過去の因縁の地そのものだった。

なんという因縁だろう?


その義母はもういつ自分が逝ってもいい心積もりはできて

いるらしく、特別ナニが食べたいとか、ナニが着たいだとか

欲はなくなり、質素にいつもどおりの自分のペースで、毎日を

逝くその時まで過ごせればいい、といった高見の境地に

達しているようにワタシには思える。

そんな母を見ていると潔いとも思うし、

どうか100までも気丈で生きていて欲しいとも思う。

勿論老いさらばえれば人間生きていること自体しんどい

ことは「老人施設の宿直員」にはわかる気がするが、、。


固まっていく肉体はサナギなのではないのだろうか、、

サナギが硬化し乾く時、人はきっと飛び立つのである

と今は思える。

小さな旅 音楽:大野雄二

2007-06-30 04:38:45 oyazの投稿 
今朝、TVにスイッチを入れて、たまたま

NHK小さな旅を見ることになった。神奈川県開成町という

農道10Kmのあじさいロードがある小さな町のことだった。

チェックのシャツの似合う素敵な百姓家族の笑顔が良かった。

そして、いっつもほのぼのと、しかし心にジーンとするバックの

音楽がこの番組をいきいきと作り上げる不可欠のスパイス。

そういうBGMが良い番組や映画、芸術作品には必ずある。


テレビ朝日「大改造!!劇的ビフォーアフター」の音楽

『匠』もそのひとつ。あのBGMがなければ、あの大改造で

家族が涙しても、見ているコッチはそんなには感動しなかった

かもしれない、と思うほど、『匠』はナレーションのバックに

欠かせない良い音楽である。


NHK『小さな旅~忘れ得ぬ山河~』というのが音楽の題名で

あることを、今回初めて確認した。


新日本紀行[オープニング・テーマ~祭りの笛]の冨田勲の

音楽も誰もが一度聞いたら忘れ得ない旋律をもっている。


ワタシは音楽家ではない、ただの素人百姓の風来坊画家に

過ぎないが、きょうは、BGMについて前から思っていたことを

はじめて書いてみた。


「絵」や「写真」にも音楽を好きな人かそうでない人かの

違いが出る。結局、表現作品にはその作者の全人間性が

全部出てしまう。小さくも大きくも見せられない。

その人の持つ才能と感性と情緒と技術と人生の価値観が

「作品」そのものである。


冨田勲、大野雄二、松谷卓、武満徹、、、、、、、

日本には凄い才能の人たちが存在する。


長新太の『ヒューモア・ペイソス』

2007-06-27 04:06:16 oyazの投稿 
滑稽味・おかしさ(ヒューモア)には

人懐かしい情緒(ペイソス)が同時にある。


たとえば、夏目漱石の『坊ちゃん』、長新太の絵本。

そういう人や作品を一語で「ヒューモア・ペイソスな」モノと言おう。


それをわかる人とわからない人が世の中にはいる。

わからない人は、理屈や理論や既製概念に

縛られた価値観の人、と大雑把に、断定的に、

言ってしまおうか。


長新太の絵本は、圧倒的に子どもたちが喜び、好きなのに、

それが大人になればなるほどわからなるのは如実な例。

「なんじゃこりゃっ!?」ってなる。

理屈やモノを見る既製の常識を逸脱した概念を大人は

なかなか受け入れない、受け付けない。硬化してきている。

動脈硬化ならぬ、「情緒硬化」を患いつつある。

そんな人も子どもの頃は「ヒューモア・ペイソス」を

真っ白な心で受け入れていた、に違いないのだが。

それがダンダン、ただの大人らしいバカ頭になっていく。


大人社会を生きる、なんて、言うならば極めて簡単なんだ。

会社の決まりごとを守り、社訓に従い、実際にあった事件や

記事に話を合わせて一日過ごし、仕事を終わせばいい、

極めて語彙の少ない、単純作業の社会でしかないから。


そこにいくと「子ども時代」の興味や頭や心は「活発」だ。

不条理もふくめてなんにでも首を突っ込み遊びにする。

その自由闊達さこそ「ヒューモア・ペイソス」の真髄。


そんなもなぁー今更ワタクシごときが解説するのもアホらしい

人間が本来持つ、自由闊達洒脱創造の根底の情緒だった、、、





限りある肉体        汲んで尽くせぬ思い      溢れそうもない知識

2007-06-23 05:10:12 oyazの投稿

夜勤明けの体に遅い朝食をいただき

ごろねのひと時を得、しばし休息を楽しむ。


昼をまわり、午後の1時。

縦40mに及ぶハウス1棟の土方仕事を開始。

長さ1m60cm、幅35cmのコンクリートの板を

縦長に23枚敷いて1本の通路をこさえる作業。


これは昨年、一度埋設しおわっていたものだが

それをもう一度掘り返して、通路の位置を変更するのだ。

それをやろうと思い立って半日で23枚を掘り返したのが

4月の20日。そして翌日から腰が立たずに動けなくなった。

接骨院にソロリソロリと出向いたら「ぎっくり腰の寸前」だと。


あれから2ヶ月。

やろうとしたことがやっと実現し終わりに近づこうとしている。

重機は勿論ない、シャベル1本、鍬1本に腕2本。

外は雨。畑のきゅうりやナス、トマト、ベニアズマには恵みの雨。

(百姓は雨日和を喜ぶ、水やり作業が休みになるから)

雨の日は屋内の仕事がはかどる。

40kgのコンクリート板を一枚一枚、腰に負担をかけぬよう

注意をしながら縦にまっすぐに床に平行に埋設してゆく土木作業。


ワタクシ、文学部の英米文学科:不条理文学専攻の出である。

その文学青年が40mのハウスの中をただ一人黙々と重量力仕事

なんとゆー、コノ、生きるという、フジョーリッ!

なんぞと、深遠な哲学を考えもせで、

自分がせずには決して終わらない土方仕事に

汗まみれ、粉塵まみれ、あがる息と熱にまみれ

一歩一歩進んでいくしかない百姓という現実。


何故これを本業に選んでしまったのか

そーしていまだにこんなに苦しくて貧しくて儲からなくても

やめないのか、自分でもわからないが、、、、、


きっとこれが人間として一番人間らしいと思い至ったからか?

さて、2ヶ月かかってしまった土方作業もやっとめどが立った。

モチロンこれが終わりではなく、

準備のいろはの「い」ってところ。

7月から12月初旬まで、本格的な種まき、水やり、防除

定植、置き肥、荷詰め、出荷の日曜のない日々がまた始まる。

例えばレム睡眠障害の本質

2007-06-21 05:18:37 oyazの投稿

ほどんどが男性で

アルコールとストレスと不規則が

その障害を悪化させるとはわかっているが

根本原因と治療法はわからない、のだとか。


『レム睡眠』いわゆる「浅い眠りの状態」である。

脳で夢を見ていると、通常肢体に行動命令を発しないように

制御機能が働くそうだが、レム睡眠障害になると

この制御装置が働かず、夢と連動して声を発したり

起き上がってパンチを繰り出したりたりして

横に寝ている奥さんに怪我を負わせたりし出すそうな。


患者に何故そんなことをするのか?

一体どんな夢を見たから、そうなるのか?を

きくと「狼が出てきたり、ライオンが出てきたり

悪い奴が出てきたりして怖かったんだ」と言う。


ワタシには「ピンッ」ときた。

そういう人に問題なのは死生観だと。

この世の「認識不足」による価値観・世界観の希薄な

精神構造の人に多いはずである、と。


この頃、成人で、何か個人的事件や病気になれば

よく「ストレス」の一言で片付けがちな風潮があるが

確かに10の内の1つの要因である可能性はあるが

むしろ根本は、死生観価値観世界観を自分で確立

あるいは確信できない『不安』が根底にあるのであり

さもアルコールやストレスが原因の核心のような

そんな思い違いや早合点は、うかつにするなよ、

とワタシは言いたい。

キスのアンケート

2007-06-20 04:00:00 oyazの投稿

うちの三番目の娘。

小学5年で不登校に陥り、今16歳。

相当なストレス障害をわずらったと思われ、

体も心も、いまだ、小学1-2年レベルにとどまる、、


学校で何があり、

彼女の幼い無垢な精神がどんなに追い込まれ

我慢の末に、運動神経のスジの何本が切れ

知能のスジの何本が切れてしまったのかわからないが

とにかく、いったん、彼女の脳は、小学5年で相当に壊れた。


かたくなにただただ家に引きこもり続けて3年が過ぎた。


ワタシは会社をやめ、農業を目指し、この娘の将来を思い

たとえ一人になっても食べていける道を農業に残して

あげようと、浅薄にも考えて、花作りをスタートさせた。


そして2年。

素人花栽培は、技術的にも、採算的にもまだまだ半人前。

娘に引き継ぐどころか、このまま栽培し続けられるのかさえ

めどが立たない今日このごろ。


仕方なく、夜勤を2箇所に増やし、日銭を稼ぐ。


しかし、そんな親子3人に、悲観も、悔いも、

自他共に意外にも、ないのである。

むしろ「学校と言うルールやレールから逸脱した娘」を

筆頭に、私たち夫婦も牽引されるように、

社会の既成概念からはじめて「自由」になって

何ものにも縛られない開放感を手に入れたのである。


学校に行かず、本も読まず、勉強もしない娘は

ADHDや発達障害の様相を呈している。

けれど「明るい」し「ひょうきん」である。

このごろは母親にやたらと「チュー」をしてくる。

知能は幼くとも体は一丁前に“思春期”なのだろう。

逃げ惑い、しつこさに疲れ、辟易する妻。

しかし救われるのがこの娘の「ひょうきんさ」だ。

「ハイ、ではこれからキスのアンケートをします」と

突然娘がその妻に呼びかけ始める。

思わずワタシは爆笑、、、そんな我が家の一コマの風景。

ファーブルさんと私

2007-06-18 01:06:20 oyazの投稿

『ファーブル昆虫記』は読んだことはない。

でも日本の虫博士が彼のことをラジオで紹介していた。

何でも、南仏の出身で貧しかったが勉強好きで

19歳で小学校の代用教員をしていたんだとか。

もともと数学専攻で、天文学や化学、物理を独学し

南仏の暖かく昆虫の多い場所柄に生まれ育って

やがて「トンボ」や「糞ころがし」などの昆虫観察の先駆者

として日本では戦前から有名になったのだそうな。

その集大成の昆虫記は全10巻。一巻が百科事典ほどの

量があり、それをものしたのが56歳からだったというから

驚く。


自分のこれまでの歩みを振り返って見た時

自分は何を残せてきたのか?、、と思う。


きょうも明け番だというのに一睡もせずそのまま

炎天下でテニスに打ち興じて、いい汗流して

「ビールがうまいっ!」とのどをうるおし、再び

夜な夜なホテル夜勤づとめの連ちゃん2日目。


見ようによっては、バケモノのような並外れた

バイタリティとスタミナ、強靭な気力・体力の持ち主だが

言ってみると「ただそれだけ」だ。

「ただ無駄に膨大なエナジーとCo2を排出するだけの」

ワタクシの存在自体が「無駄」とさえ思えてくる。


人間は何のためにこの世に生まれ

何のために存在し、何を残してあの世に行けば

「いい人生」だったことになるのだろう?

生まれたばかりの赤子も

半世紀生きた中間人間(中年)も

100歳寸前のご老体も

おんなじ疑問をもったまんま

おんなじ地球の表面にきょうもうごめいている。




98歳が言う「生きるって苦しい」って

2007-06-16 13:57:15 oyazの投稿


「毎朝部屋をきれいに掃除をすることからはじめるの」

「そして毎朝、ラジオ体操を欠かさずにする」

「それから1階から4階までの入居者の名前を口に出して

姓字と名前を全部暗記してて、言うのよ」

「あと小さい時、姉が言うのを聞いて覚えてしまった

ABCをXYZまで唱える」

「この口と、この頭を毎日使うように、してきたわけよ~」

「それからあそこの習字展示コーナーに貼ってあるけど

“感謝”と“思ひやり”を大切にして日々送っている(合掌)」


足のしびれがなかなか取れないと言いながら

10月が来ると満98歳になるキミエさんが

これまで長生きしてボケないで生きてきた秘訣を教えてくれた。

“感謝”と“思いやり”に言及するあたり、流石、徳の人だと思った。


そのキミエさんが1階事務所から部屋に戻る刹那にポロッと言う

「でもやっぱりこうして生きてるってのも、苦しいことだよ、、、」

「でも、投げやりになったり、怠けたりし始めたら

もう、きっと動けなくなったり、病気になったりするって思うのね、

だから自分で自分自身に気合をかけて、

毎日同じことでも繰り返し繰り返し

動いたり、言葉に出したり、するようにしてんのよ~」


若くて、有り余る力と才気と猪突猛進する勢いは

誰しもがその衰えを覚え始め

やがて髪が抜け

皺が増え

目がかすみ

インナーマッスルがたるみ

胸も腹も顎もたるみ

足腰が弱り

ボケる。


さ~て、そー考えると

『大往生』できる人間は

大金持ちになるより、さらに難しいのかもしれない。



悔いなく往生できるよう

1回こっきりの人生

アナタは どー 生き抜きますか?










ホテルナイトフロント

2007-06-14 03:17:36 oyazの投稿 

ホテルナイト勤務。

誰もいない午前3時のホテルのロビー。

昨日の22時から勤務が始まり、朝8時までの拘束。


あと30分もすれば新聞配達の人に会える。

4時も回れば、陽も薄ら明るくなってきて

地球の中の日本の一日が幕を開けるのだ。

その明けやらぬ3時の今頃が一番眠い。

仮眠なしのナイトフロントという職業。

遅入り、早出のお客様のためにチェックイン

チェックアウトのサービス業務をこなし

6時半からの無料朝食の給仕をし

館内の巡回をしながら夜警もこなすナイトフロント。


夜勤が明けたら、日中は花農家の百姓に戻る。

真夏日の炎天下に、今は雑草狩りに、水やり。

真っ黒に焼けた両の腕を用水路の冷たい水で洗い流し

旬のイチゴをやさしく摘んで家路を戻る。

夕方からまた

老人ホームの宿直に行く。


その人にしか出せない魅力

2007-06-11 06:59:50 oyazの投稿


写真のプロでもないのに「いい」作品を

残す人がいる。

故人の岡本太郎、現役作家で探検隊長の椎名誠、

写真Blog『雨日和』のrutsu_bサン。


ワタシは考えた、なぜこの人たちの作品には

理屈や法則では説明しきれない魅力があるのかと。


左脳的な論理で完璧に構築しても

良いと評価されるあらゆる要素を入れて組み立てても

それだけでは決して魅力的な作品はできないのに、

その人でなければ出すことのできない「きらっ」と光る何かが

彼らの作品には理屈を超えたところで入ってしまっている。


だから右脳がどうのこうのと言いたい訳ではない。

意図的にある距離とアングルから対象を捉えるにせよ

彼らは言葉や論理や意図とは違った領域、、、

小さいときから現在まで培われてきた感受性や

価値観や職人的熟練の技や間や感覚で

一瞬にして

感動を切り取るのだ。


それはもはや「説明」を超えた分野や世界の話なのである。

それを理屈で絶賛しようとしても限界があるのは

理屈ではわからない「魂」「気」「迫力」「思い」が

本人にもわからないうちにこめられているから

なのではないかと、最近ひそかに考えている。



自分、自分と考えない

2007-06-10 12:26:55 oyazの投稿 

ワタシは誤解を恐れずに言えば

5歳くらいから、ずっと自我を持て余してきた。

強烈なのである私にとって「ワタシ」って。


良くも(どんな場面?)も悪くも自己中心的

自意識過剰、その実、考えが浅く、行動もおぼつかない。

「なんでワタシは生まれてきたんだ」と声の聞こえぬ神に

問い続けてきた15~16年間だった。


伴侶に出会い、家族に恵まれ、人並みにきた半世紀。


私の「ワタシ」はいまだに健在で意気軒昂だが

多くの経験を経、自分の衰えいく肉体とつきあい、

必ず亡くなる諸氏の寿命の終わりを目の当たりにし、

声の聞こえぬ神を察知しようと耳を澄ましながら

ワタシは今あらたな「心境」に立ってみようと試みる。


つまり

「自己否定」と言おうか「無私」と言うべきか

「自分が、自分が」はもうそろそろいいんじやあないか

自我中心な欲望や損得勘定の了見の狭さからは卒業

させてもらっていい頃なんじゃないかと、

そんなふうに自分に折り合いをつけようとしている。

そーして、思う、、、、

「何故神は人間を死ぬように創ったのだったか?

それはこの世を“永遠にする”ために他ならなかった。

であれば、ワタシもかならずや“死ぬ”のだが、それは

神が望んだ“この世を永遠にする唯一の方法”のために

他ならないわけで、喜ばしいことなのではないのか?」と。


神は「産めよ増えよ地に満てよ」と言ったのだという、人間を

創りし時。

男と女を立て、子が生まれる、永遠のサイクルを設定し

今日まで到達した西暦2007年に生存する人類と地球。

65億人の人間がいるとすれば

その一人一人に神の分身的創造力が付与され

花が実をつけ、やがて枯れるが、種として栄え続けるように

人もまた一木一草と変わらぬ生成滅死の法則の中で

神と同じ、無から有を生む創造的芸術活動をしながら

自然と家庭生活を謳歌し、生きつないで連綿と永遠であれ

、、、、神はきっとそう願って我々を創ったに違いない

、、、、そう思えてきて、

自分にもまた遅かれ早かれ来る死も、まっこうから肯定し

「余生」を、連れと家族と共にし、自然を楽しみ、芸術を生み出し

袖触れ合いながら、遊びながら、生きて逝きたいものである、

と、今はそう思える。


やっぱり人間は「睡眠動物」

2007-06-09 16:14:53 oyazの投稿

夜勤を20日こなして日中も働く生活を

スタートさせ、10日。

不死身かと思ったワタシも、いやそーーではなく

徹夜の午前3時ころには耐え切れない睡魔に襲われる

極めて睡眠必須動物にほかならなかった。

観念的に「もう充分これまでの人生で寝貯めしてきたので

これからは寝ないで生きていくことにする!」と決めたのに

あっさりとその強い意志や思いつめた決意は打ち砕かれた。

ニンゲンという動物は他の動物や植物同様

寝ないでは生き続けることが不可能なように

神様はこさえなすったんだな、とハタと思い至った。


「睡眠」とは何だろう?

脳や内臓や神経やマッスルや細胞一つ一つの「休息時間」

であろうか?

いや、人が眠りに落ちてる時間さえも個々の細胞は

その人の、遠いあるいは近い「終わり」に向かって

神サマのしこみなさったプログラミングにそい活動し

続けている。ということは睡眠とは「脳の睡眠」か?

脳は車に例えると「エンジン」「内燃機関」だろう、

ヒダヒダがいっぱいあるのも似ているから。

で、働きすぎた「脳」が「エンジン」同様

使いすぎるとオーバーヒートするので「睡眠」が

必要になる理屈、に違いない。


そこまで合点のいく理論を構築したにもかかわらず

最後で腑に落ちなくなった、、、、

、、、ワタシはそんなオーバーヒートするほど

いやむしろ、ヒートもしない時間のほうが多いままに

ここまで生きてきたのに何故?ワタシまで睡眠が必要なの

、、、ノーカガクは奥が深いのである、きっと、、、






手相

2007-06-08 06:25:32 oyazの投稿

ワタシは若いころ

手相や顔相に興味を持ったことがある。


今は「人は面なんてドーでもいいんだよ

心だ、スピリットだ、生な情熱、思いだよ」

なんて思うようになったけど、、、、


、、、髪の毛でもない、皮膚の若々しさでもない、

弱ってたるんでくるインナーマッスルでも、衰え行く記憶でもない

人に一番大事なのは「生き生きとした心と笑い」である、と。


手相は、変わるのである。

ついでに言えば

「第六感」も訓練して鍛えることができるし

「英語耳」や「英語脳」も積み重ねると、できるのである。

人の頭脳は

パソコンにできる機能はすべて備わっているし

それを超えた「第六感」まで備えている。

そう思うと、「バカな頭」とか言ってないで

鍛えてあげたほうが良いよね、脳や六感。



何気なく久しぶりに手のひらを見た。

右の手相が変わっていた。

感情線の下のほうが以前はガチャガチャだったのに

今はすっきりとしたきれいな線になっていた。

あ~、迷いのない、すっきりとした、シンプルな

生き方に洗練されてきた証だな~

と、一人、素直に納得する。

一つとして同じでないコノ人生

2007-06-07 12:23:23 oyazの投稿 
最近知り合いになった34~35歳の男性が

自分の人生をかくのごとく表現した、

「今味わっている苦しみはもしかしたら夢なんじゃーないか」

って時々思うのだ、

それなら「耐えてやる」って思う、

「今にきっとこの夢が終わり、次の良い夢の主人公になって

ボクは絶対、幸せになるんだから」って。


ワタシもその気持ちはよくわかる気がする。

「生まれたくってこの家に生まれたんじゃあないし

生まれたくってこの親の子どもになったわけじゃあないし

生まれたくってこの顔と体と頭に生まれついたワケじゃあないし

生まれたくって貧乏一家に生まれたわけじゃあないし

生まれたくってこれらの親戚を得たワケではないし、そもそも

生まれたくって日本人に生まれたワケじゃあないし

生まれたくって今の時代に生まれたワケでもない」のだから。


けれど一方でワタシにはこういう考えもある。

「そうは言っても、大学や会社など未来の

進路を決めたのは自分の意思だし

つれあいを決めたのも自分たちの意思だし

我が子をもうけたいと思ったのも、自分たちの意思だし

元気なうちにサラリーマンをリタイアして

あとは好きな生き方をしてみたいと決めたのも自分の意思だ」


結局、人間は誰も先天的なものは時間軸の整合性の中で

絶対“自分の意思”で自分の生を生み出すのは不可能だが

そのかわり

少なくとも20歳前後位の「一丁前になってからの後半生」は

充分“自分の意思”で選択をし、生きて、形作られた人生

と、言うことはできるのであろう。


だから

「今の苦しみも、悲しみも、あるいは幸せも

けっして“夢”や“仮想のゲーム”中の出来事ではなく、

あなたの意思と才覚と信じる価値観で築きあげてきた正に

コテコテの現実、そのものにほかならない。


「髪を金髪に染めたり、肉体改造して欧米体形に似せたり

似合わないのにジーンズにこだわったりする

変なコンプレックスは捨てて

自分ではどうしようにもなかった“先天”はそのまま受け入れ

いかにその“先天的能力”を存分に発揮させ“後半生”を豊かに

幸せに「自分自身を生きるのか」に時間を費やしたほうがいい。


あなたの時間もワタシの時間も

私たちの意志などにまったく関係なく

ただただ無機的に一秒たがわず進み続けている。

いつ「ワタシのタイムオーバー」が来てもいいように

「日々の凡庸な日常の営み」を大事にし

家族や袖ふれあうご縁のある人たちを大切に思うことだ。





玉もみがかざれば石

2007-06-04 13:02:13 oyazの投稿

先日あった、老人施設入居中の老女Kさんの小話。


「最近XXサンは幻覚を見るようになったので要観察です」と

看護士と介護員に決めつけられ、心療内科にまで受診させられた

Kさんについて、簡単ないきさつを教えられ、ワタシたち宿直員に

夜中にナースコールが来るかもしれないよ、って申し送りがされた。


その夜、申し送りどおり、夜11時に宿直員を呼び出すナースコールが

響き、Kさんから「今、目覚まし時計のところに人が立っているのが見えた」

と、幻覚が現れた報告が来た。今はもう消えた、というので、では

もう少し様子を見てみましょう、と引き取ってその場はやり過ごした。


仮眠時間の夜中の2時。2回目のナースコールが寝静まった施設の

しじまを裂くようにベル音を響かせ、宿直員を飛び起こさせた。

今度は2人で来て、タンスを開けて服を持っていこうとしている、と言う。

では部屋に行ってみましょう、と言ってワタシはKさんの部屋にお邪魔した。


幻覚は、夜だけ起きる、ということだった。

それも、危害を加えたり、恐怖心で声も手も出ないってワケではなく

普通に体も動くし、服を盗もうとしているのを見て「だめでしょっ!」って

声も普通に出せるのだと言う。、、、そんな夜がKさんに2週間ほど続き、

ワタシの宿直の晩にも、3回ほどナースコールで呼び出されることが

繰り返された。そうして話を聞いているうちに、ワタシには“自然に”

“誰かの霊がかまってほしいとか、少し未練があるとかの感情で

この新米入居者のKさんに何かを訴えたり、気を引きたがっているん

だな”って漠然と、しかし素直に直感的にそう思えた。

そうして「実はね、Kさん、この部屋に前に住んでいてなくなった方は

赤いカジュアルな上着の似合うとってもステキな良い人だったんですよ。

その方が亡くなる前の日に宿直員のワタシのところにやって来て

「腕時計がうまくはまらなくなったので、あなた、はめてくださらない?」

ってお願いに来たこと。その腕のか細さやぬくもりを今も覚えていること、

そしてとってもステキな良い方だってことを、もう一度Kさんに言って

きかせてあげた。

ワタシには“彼女”もまたKさんと一緒にワタシの話を聞いている

んだろうなって、なんとなくそんな気がした。


その晩は、それ以来、ナースコールはなく、朝を迎えた。

朝食を済ませたKさんがワタシに「昨晩はありがとうございました。

あれからもう現れませんで、ぐっすり眠ることができました」とお礼を

言われた。ワタシは「それは良かったですねー。Kさん、もしかすると

もうこれ以上その人は出てこないかもしれませんよ、きっと、ね」

「そーでしょうかー?」Kさんはワタシが何のことを言っているのか

ピンと来ない様子で、曖昧に受け答えをして、別れた。


それから4-5日後。Kさんの「要観察」は解除されていた。

「幻覚」を見ることがなくなったのだとか。


勿論そーでしょうよ!

あれは「幻覚」なんかじゃなかったんですから、

って

ワタシは誰にも言えないことを、

心の中で一人つぶやいていた。


別の自分を生きる

2007-06-03 15:26:28 oyazの投稿 
本日は日曜日。

ワタシは一睡もできないホテルのナイトフロント勤務を本朝

8時にあがり、居眠り運転せぬよう顔に冷や水をザバッとかけて

30分の80キロ走行で帰宅の途につく。

自宅の5分手前に位置する我が家の野菜ハウスに立ち寄り

赤く実を付けたイチゴを30個ほどをそこらのかごに入れ、帰宅。

家人の驚く顔に満足しながら、遅い朝食をいただいた。


五月晴れならぬ、ジュンスカイブルーな空に誘われて

9時半ころ、隣接する運動場のテニスコートに立つ。

有害紫外線もモノともせず、徹夜明けは嬉々として

テニスに打ち込む。


1時過ぎに遅い昼食をとり、お風呂掃除をし、溜め水を

チョロチョロ出して、買い物に出かけ、3時帰宅。

晩げのオカズを3~4品料理し、『日曜クラス』のシゴトに

出かけた家人が帰ったらひとっ風呂浴びてすぐ大好きな

ビールをプハーッと飲めるよう、下準備をあらかた終え、

夕刻、老人施設の宿直夜勤にでかける。

これが本日のワタシの一日、、、(というか、二日と言おうか)


おまけの人生を生き始めたワタシは、かくのごとく不死身のように

あるいは化け物か、妖怪人間ベムベラベロのごとくに、

はたまた「試験も何にもない」お化けの学校の生徒のごとく

「不眠、時々休憩」の我が別モノ人生を

「チェケラッー」って感じで、睡眠不要連絡不要返品不要

ブツクサ不要の勢いで、きょうもかくかくしかじか生きている。



眠ると、人生は短くなる?

2007-06-02 03:49:13 oyazの投稿

ワタシはホテルの夜勤を始めた。

これまで続けてきた老人施設の宿直10日に

今度のホテルのナイトフロント10日が加わり、

月の3分の2を夜勤で過ごす。


一日24時間で毎日8時間眠れば、3分の1は寝ている計算。

90まで生きるとしたら、人生のなんと30年はただ寝ているわけだ。

そう考えると我々は90まで生きても

実質的な活動や思索をできる時間は、60年しかないということになる。

そう考えたら「まるで眠ると、人生を損した」気分になった。


で、夜勤に出て夜は眠らず、明けたら日中、畑仕事をして

また夜に夜勤に行く生活に変えたみた。

変えてみたら、ワタシの「変な理屈」どおりにはいかず、

体が、脳が、「眠たくって眠たくって」しょうがなくなった。

しょうがないので日中2~3時間だけ寝ることにした。



この世にある絶対法則は

『時間は決して止まらない。まして、逆戻りしない』

だけかと思ったら

『この世に生きるものは皆すべからく、眠らなければならない』

ことになっていた。

(なんという『大発見』をしてしまったことかっ!)コロンぶす






「仕事する」「生きる」好きな役を演じて

2007-07-30 00:46:02 oyazの投稿 
いきなりキミもワタシも何億円もの値札がつく

イチローや松井秀喜にはなれないが、しかしだ、

人は誰でも人生という一回こっきりのステージの上で

いろんな役を演じることができる

「演技する自由」ってぇのを与えられている。


ワタシの例で語れば

仮死状態の赤ん坊時代、死に損ない場面から誕生し

体の極小なガリバー状態時代、既に自ら保育園をサボり

中3の明日のジョー時代、ジョー気取りで家出をしたら捕まり

彷徨する精神時代、立っている床が抜けそうな氷の世界を生き

新興宗教教団にも顔を突っ込んだ蜘蛛の糸時代、そこを脱走し

やっと生きるヨスガを見つけた19歳時代、人生をやり直し始め

神田川の石鹸カタカタなる銭湯時代、今の女房と4畳半で暮らし

4年過ごした小田急線向ヶ丘遊園時代、不条理文学だけ優で卒業し

最後の国鉄のポッポ屋時代、豪雪の米沢駅で構内係を演じ

出向の軽井沢プリンスホテル時代、モンキー姿で給仕に明け暮れ

転じた旅行会社時代、添乗と家族旅行と趣味の旅行で、世界を旅し

50前で会社を辞めようと決めた時代、美しい日本の百姓を選択し

今日に至る。


ドーです?無名の、田舎の、凡夫のカイツマンダ半生でさえ

こんなにも多くの役を演じ続けて生きてきたことがわかる。

女房とのこと、家族とのこと、友人知人とのこと、趣味のこと

志向の歳とともに変わってきた変遷のこと、深まる世界観や

社会観、人生観、自然観、死生観、、、

語ればきりがない。それほど

生きてるって、みんな、場面場面でそれぞれ

千差万別の役を、一回こっきりで、嘘でも真でも

とにかく「確定させながら」演じて続けているワケだ。

限られた50年~80年という人生で

どんな役回りでどんなセリフでどんな演技をするのか

それはアナタしか決められない演じられない無二の一瞬。

お金なんかが人生の価値ではない。

そんなものはジョーロに水が少しか多いかの違いでしかない。

自分自身で、あるいはつれあいと、

「人生にカンパイしよう、カンパイしよう、カンパイしよお~♪}

と歌えるなら、それは、幸せってことだ、~ね、きっと。



 

花栽培/発芽させるマルヒテク

2007-07-26 13:17:17 oyazの投稿 
たとえばデルフィニュウムの発芽率がよくないことが

素人さんの園芸日誌などで時々見かける。

花は雑草と違い、ただ土に播けば芽が出るってモンではない。

美しい高度な花になればなるほど、なんてことはない、

素人さんの知らない「栽培のテクニック」が

要所要所で必要になってくるものなのだが、

そういうプロのノウハウは、商売がかかっていてマルヒなのか

あるいは、百姓でブログを書く人がごく少ないためなのか

検索してもまずお目にかからない。


ワタシのような駆け出し百姓が、でしゃばって

プロの栽培のコツを教えるなんて100年早いのだが、、

教わったり、実際植えてみてわかったことなどを

復習や研究の意味でここに披瀝してみようと思う。


まず、デルフィニュウム。

これはこの7月より初挑戦中のまさに旬の「ホッテスト情報」。

実に記念すべきことに「作日土から芽が出た」ばかり。

「ヒデキッ、カンゲキッ!」ってとこ。

その、発芽までの要領、テクの要諦とはこうである。


デルフィニュウムは2月ころ種が出回るので購入したら

①「冷蔵庫の野菜室」に袋のまんま冷蔵しておく。

7月に播種する場合は

②①の種をストッキングにあけ、ボウルなどの氷水につけ

容器ごと冷蔵庫に1日~2日間入れておく。

③②のしめった種をビニール袋に入れ替え、ビニールの

口はしないで冷蔵庫の野菜室に2週間くらい冷蔵しておく。

④その種の先端からポチッと白い芽がめめくってきたら

はじめて128穴セルトレーや適当な育苗ポットに植えつける。

(種は高いので、1穴に1粒づつ播く)

これで10%だった直播の発芽率が70-80%位の確率に

向上すること受けあいである。

(つまりこれは、モミを発芽させ苗代を作る米づくりの応用だ)


あと、基本中の基本として、種まき専用培土がある。

ワタシの場合は「タキイの種まき培土」を、種をおくベッドの

土として使い、それを覆う覆土として「クレハの種まき培土」を

使っている。つまり、種まくために、2種類の専用培養土を

用いる。種や苗は「赤ちゃん」。できるだけいい環境を

準備して、育ちやすい土/水/気温に気を配りたい。

(ちなみに「タキイ」の培養土はふっかふかで根が張りやすく

「クレハ」のそれは重くて保水性に優れ、異なる特徴を持つ)


蛇足ながら、播種土の沈圧と水分について一言。

ベッドの土は軽く沈圧(手やポットで押し固め)、水を充分まく。

(土に水をかけないで種をまくと、芽はうまく出てこない)

そこに種を置いたら、覆土をパラパラと、1cmくらいかける。

そうしてかけ終わったら、すぐに全体にまた充分水をかける。

7月の気温だと、こうしておけば3日くらいであの難しい

デルフィニュウムも土から芽を出すことになる。

こんなノウハウは園芸書や種屋のノウガギにもない、

百姓のオッサンだけがため込んでいる栽培テクだ。




カナカナが鳴けばサンバの風味堂

2007-07-26 04:21:56 oyazの投稿

夏が来るとサザンやチューブだった頃から

「風味堂」の“からだとからだ”や“クラショションラブ”

だったりと、新しいウエーブに移ってきた。

人は歳をとり、時代は流れてゆく。

前時代のサウンドやテイストを吸収し

若い世代が次世代の表現者となる。


朝、目覚めると

庭の欅の木からカナカナの鳴く声が

大きく響く。何種類かの鳥の声もまじって。

夏をよく家族で過ごしたBrisbaneのBillの

家なら、さしづめクッカバルで起こされ

テラスでモーニングコーヒーでも飲んで

いそーな風情。あの小さかった子どもたちが今は

ハタチも過ぎ、それぞれTokyoで暮らす。


そのオットーとオッカーは自閉症の3番目と

ネコ2匹と、百姓やバイトをしながら気楽な余生を

山形の田舎の湧き水と自家製野菜をいただき過ごす。


Tokyo暮らしと田舎暮らしとドッチがいいって?

モチロンッ!ダンゼンっ、山形の田舎に決まっている!

モチロンッそんなコター、決して思わなかったケドねっ

19、ハタチの頃のオイラもカミサンも、、、

「たちまち減量できる」魅惑の百姓のすすめ

2007-07-23 04:59:44 oyazの投稿

2ヶ月前は68kgだったワタシの体重が

最近65kgを切ってきた。別にワタシは

メタボでも、ダイエット希望者でもない。

むしろガクトのように、体重を増やして筋肉を

つけたい「体重加重」派だ。ところが今時期は

黙っていてもダイエットになってしまう。

それは農作業を始めるからである。

畑や田んぼのようなデコボコした地面を歩くと

足裏に大きな刺激になって痩せるんだと聞いたことがある。

勿論そういうこともあろうし、繰り返し荷物を持って

歩いたり、しゃがんだり、前かがみになったり

「農作業」とは始終体のどこかを動かし続けているから

運動消費カロリーを消耗しつつ、筋肉はしまってくるのだ。

で、トータルで、あっという間の減量になる。

本当に痩せたい、と思っているM予備軍の皆さんは

是非「百姓」になることをお勧めする。

高いフィットネスジム費も、ビリーザ、、、何とかも

必要ない。ただただ農作業をし続けるだけで「あなたも

必ず痩せられる!」ことゼッタイマチガイナイと太鼓判!

そのうえ農産物を売って、逆にお金さえ入ってくるなんて、、

こんな一挙両得のダイエット方法ができるのは当社だけですゾッ!


タダシ

タシカニ、ヤセルンダケレドモ、、、、

ガングロネーチャンニナッテシマッタ、、トカ

ネールアートノニアワナイユビサキニナッタ、、トカ

ヘビヲモオソレレヌゴーケツオンナニナッタンダケド、、トカ

カワッタフクサヨウガ、デルコトガママアリマスノデ

ソコントコハ、ヒトツ、ヨロシューゴショウチオキクダサイ

ネンノタメ。







ハボタン栽培2年目の黒字化計画

2007-07-21 04:03:26 oyazの投稿

7月20日はハボタンの種を播く日。

だれがそう決めたかは知らないが、昔からそう

決まっている。


勿論、基準日であり、遅いものは8月上旬播きでも

大丈夫である。ところが8月も10日も過ぎてから

種を播くと、ハボタンが成長しても結球しなくなる。

ここが植物と時期との不思議な蜜月関係の妙なのだ。


ハボタンは本来、花ではなく、野菜なので

種を播くと驚くほど早く発芽する。なんと2日で芽が出る。

7月20日で播いた種が10月20日には出荷できる。

3ヶ月でできてしまう園芸作物というのはほかにはない。

だから秋冬モノとして、ここ1~2年全国的に作る農家が

増え、ハボタンの価格は暴落気味に推移している。


では低迷する価格のハボタンをいかに相対的に

人よりも高く買ってもらうためにはどういう方法が

考えられるかと言うと、まず基本中の基本は

「人よりも品質の良い、出来のいいモノ」を作ることだ。

次に「そのハボタンの“旬”に出荷する」ことである。

その生き物がいきいきと輝くピークに買ってもらう。

3番目は種類と組み合わせ。ここの領域は作家の

オリジナルな“センス”の問題なので一般論では

語れない部分。しかしここも重要な価格の分かれ目

ではある。


以上、3つのことを念頭に、ワタシの今年のハボタン

栽培がスタートを切った。去年は初年度だったので

設備投資がかさみ130万の販売高に対し160万の

経費がかかり赤字に終わったが、今年は最終的に

80万を残す「2年目で黒字の経営戦略」を敷いている。

戦略の要諦は、無駄な数を作らず、50%のウエイトの

土代を30%に抑え、きれいな水やりと害虫防除の励行

というものである。これさえ徹底できれば黒字にできるはず。


お客サマである花屋さん/消費者さんがイクラなら

買ってくれるか?あとは人事を尽くして天命を待つだけ。


老人ホームの宿直バイトで80万、ホテル夜勤で80万

そしてこのハボタン栽培で80万が達成できれば締めて

ワタシの年収がやっと「240万」という

生活最低水準ラインに到達する。

ここにいたって初めてワタシは堂々たる兼業農家として

やっと一人前になれる。


この通過点を超えた時、他に作るデルフィニュウムや

さつまいものベニマサリ、冬野菜のプンタレッラなどが

余剰付加価値として意味を持ち始めるはず。

そいう面白い展開を、楽しみながら将来を展望する

余裕が2年目のワタシの中には芽生えつつある。



110億円は儲からない百姓

2007-07-17 01:48:05 oyazの投稿

百姓2年目。悟ったことがある。


「姓」とは古来「職能」を表すものだったとおり

百姓とは土木・電気・機械・治水・気象・植物・昆虫・

動物・魚類・爬虫類・両生類・薬学・化学・科学・

環境衛生・共生・弱肉強食・生殖・解剖学・整体・

建築・指物師・金属加工・流通・営業・会計簿記・

経営管理・フィナンシャルまで、とにかくあらゆる分野の

知識と知恵と壊れてはいけない体と精神が求められる

「スーパーマン」のような「職業」なんだと思い知った。


知ったからといってスーパーマンに「なれる」ワケではない。

東大や京大を出てキャリア官僚になるほうがまだ楽かも、、

と凡夫が言ってみたくなるほど、百姓とは「難題な職」だ。


キャリア官僚より更にスゴイのは、、、

コレが泣きたくなるほど「モーカラナイッ!」から実に悪い!!


ウィキペディアのような膨大な資料や情報を頭に

たたき入れ、なおかつ白鵬や朝青龍かサスケの如き

強靭な肉体と、象が乗っても壊れない精神をもって

東京ドームのような畑や田んぼや栽培ハウスの中で

一人、夜明け前から日没まで黙々と働き続けるのだ。

、、、そー考えただけで「人間業」ではもはやないし

本人の主体性がそこになければ「奴隷の苦役」

そのものと言っても過言ではないかもしれない。

、、、ということで、普通に考えれば、ゼッタイにならない

のである、好き好んで、こんな「百姓」になんか!?


では何故ジブンはそんな百姓になって

2年目を迎えて、市場の大波に木の葉のように

いたぶられ、二束三文に買い叩かれる世界で

今年もヤメヨーとはせずその苦しく汚く腰が立たなくなる

百姓を続けるのだろー?


それは、この職業が人間にとって

最後の人間的な職業だと思えるからかもしれない。

「最後の人間的な乗り物」それが自転車であると

勝手に断言し、風に吹かれる心地よさが好きなワタシの

本質が、金本位至上主義の現代にまっこう逆行する

家内工業的規模の農業をやめようとは思わないワケ

なのかも知れない。

弥生時代のイチロー

2007-07-15 04:44:37 oyazの投稿 
110億円でイチローが契約更新した。

ジャンボ宝くじの3億円さえ「夢のまた夢」なのに

凡夫はどう逆立ちすれば「110億」というキンスの

山を想像し、実感に近づけるというのだろう?


平均年収300万円の人が33年間働き続けると

約1億。貧しい庶民の平均生涯賃金である。


その110人分を5年契約でイチロー君は一人で

一気に、もらってしまうワケだ。もっててもしょうがない

だろーが、「1億円の家なら110棟」持てる額だ、、、


彼一流の言い回しによれば

「年俸500万円だとしたら弥生時代からプレー

していないと達成できない」金額と言うことになる。

記者会見だからってこんな言い回しが急に

思いつくはずがないように思われ、結局

イチローとはいっつもこんな言い回し一つとっても

常に研究したり、計算したり、とにかく、努力を

積み重ね、磨いているんだなー

ってことはよーくわかるのである。



遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

2007-07-14 05:52:27 oyazの投稿

遊びをせんとや生まれけん

戯れせんとや生まれけん

、、そのあとに続くのが冒頭の言葉。


ワタシは長らくこの歌の意味を考えたことがなかった。

「どーせ生きるんなら遊んで楽しく生きようよ」ぐらいに

その響きから受ける調子のよさだけ受け取って

勝手に、解釈していた。


今あらためてこの歌を調べて思ったのは

導入部は「今を楽しく遊んで生きようよ」でも

「人生はどうせなら戯れて生きようよ」でもなく

「わたしは何のために生まれてきたのだろう?」という

不条理な人生を吐露した思索的嘆息であったということ。


そうして、この歌の本題は「、、や生まれけん」の

若者の漠とした生や存在の意味、生きる意味を自問

するような2句にあるのではなく

「遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」に

主眼はあるのだということ。


この歌の主人公は遊女であれ誰であれよいのだが

結局この歌は母であり、それも、若くない、中年女性の

今は手元にはいない我が子を安ずる母性の歌なんだ

ということに、自然と思いが至ってくるのは

ワタシも我が子を思う親だから。

『梁塵秘抄』のうたとは

2007-07-12 07:29:39 oyazの投稿

       
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん

                        ゆる
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
 
 
大意……遊ぶために生まれて来たのだろうか。
      戯れるために生まれて来たのだろうか。
      遊んでいる子供の声を聴いていると、感動の
      ために私の身体さえも動いてしまう。



梁塵秘抄

『梁塵秘抄』は、有名な中世歌謡の「今様」集。

それらは、遊女と呼ばれるものたちによって歌い継がれた

日本最古の流行り歌であり「野のうた、衆のうた」だった。

「今様」の発生は平安時代中期。

「今様」とは「現代風、現代的」という意味であり、

当時の「現代流行歌」という意味であった。

歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが

特徴で、様々な歌詞が生み出された。

平安時代末期には後白河法皇が愛好し、

法皇自身も熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に

残されているほど。

その法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。

CDR日経連 VS 農作業百姓連

2007-07-11 05:26:51 oyazの投稿 
CDとは言わずと知れたCompactDisk、、、

CDRは、あっという間に普及したが、以前は

市場にはなかったCDのRecorderのこと。

今や「大昔」のカセットテープばりの使い勝手に

やっとたどりつきましたネン、CDも。

そんなCDRをカミさんが大型スーパーに入っている

カメラ屋さんからもらってきた。なんでもデジカメ写真を

そのCDRに現像したいとこだけチョイスし録画し

持って行くか、ネットで注文するとプリント代が

10%OFFになるんだとか。

工業製品はカクのごとく日進月歩で変わりゆき

ネット社会はワタシのようなブロガーと買い物に行く

その妻をも巻き込みながら、確実に広がり定着した。


さて、一方の農作業はというと

「作業」と言うとおり、あいも変わらぬ肉体労働が

単純に、延々と、腰が立たなくなるまで、日が暮れるまで

指がピントと延びなくなるまで、土が指紋の溝を埋める

まで、辛抱強く、続けられている。ネットで消費者に直接

農作物を販売する農家も増えたが、9割方は大昔然と

農作業を続けているのが現状。改善の余地はゴマンとあるが

パソコンのように、CDのように、それこそCompactでは

ないのが農地であり、農業機械なもんだから、金が

かかりすぎることが大きな一因で、改善が進まない。

その根底にある要因は「農業する百姓の数」の問題である。

以下の資料は『日本の農業:グラフでみる日本の農業』

からの抜粋であるが、、、


“日本の農業人口は毎年の様に減り続け歯止めが掛かる

様子はありません。ちなみに昭和40年には約1200万人

近くいた農業就業人口は、平成11年には384万人にまで

減っています。さらに、その年齢別構成となると

15~44歳 14%
45~54歳 12%
55~64歳 23%
65歳~   51% 

となっており高齢化現象がはっきりと現れております。”


、、、ということになる。ここまでくるとピンッとくるでしょうが

トラクターやコンバインは400万とか700万とかベンツ並みの

高額になんでなるの?かが自ずとおわかりいただけよう

というもの。買う人が、購買層が、圧倒的に少なすぎるわけだ。

その少数民族に対してクボタだ~イセキだ~が群がって

売りつけるわけだ「親戚づきあい」などとニコニコしながら。

TOYOTAのカローラが今年も販売台数日本一とか

TOYOTAが売上世界一とか、SUZUKIがアジア圏で世界トップ

とかは聞くでしょうが、クボタやイセキの販売台数1位は

話題にも上らないし、聞いたことがないでしょ?、、

、、トーゼンですよねー買う人がいないんだもん、、、

、、前の借金はあるし、米は儲からないし、野菜も10円だし

数年で新車なんて買い替えられっこないっつーの、、、、、

結局、百姓を食い物にしている企業にしてみれば

新型機械開発費や製造費を日本の百姓384万人で

割って原価を出し、それに儲けを20~30%上乗せし、

計算すると、ドー考えてもベンツばりの価格にしか

できない計算になってくるのが現状なのでしょう。

これでは農業機械屋も早晩、死活問題になる。

日本の農業が儲からず、従事する百姓が高齢化し

減り続けるのだから、クボタもイセキも日本から

いなくなって中国に本社を構える日が来るかもしれない。

日本の農業世界とはかくのごとき「風前の灯」状態にある。






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