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世界を旅したあと日本で百姓に落ちついた。 こんないい田舎が残っている国が好きダナ。
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生きていくこと

2007-07-09 02:20:59 oyazの投稿 
以前、全世界の人口65億人中、日本人に生まれる

割合は約2%に過ぎないと、書いた。さらに考えた、

その日本の48都道府県の、この東北の山形県に

生まれる確率は何%だろうか?と。 さらに考えた、

卵子が受精し生命が誕生するのに、精子は2億匹の

中の1匹しか卵子に到達できないこと。そんなことを

考えると、ワタシがこの地球の、この日本の、この東北の

この山形の、あるサラリーマンの一家に生まれるという

確率はそれこそ石川啄木の言う磯辺の一握の砂のその

中の一粒ほどの、いや、それこそ「全宇宙の塵の一つ」

を探し当てるほどの希少さに違いないと思われた。


その中で男女が出遭い、結ばれ、また子を授かる。

その営みというのは、見回せばどこにでもあるような

ことのようでいて、まさに宇宙的には0.00001%くらいな

奇跡の確率で人が出遭い、新しい誕生を得るのだと気づく。


その中で、不幸にして早く逝ってしまう人も中にはいる。

病気になることもある。精神を患う時だってあるし、様々だ。

49で亡くなる人もいる一方で、80代の寿命をまっとう

できる方もいる。百歳まで生きる「サマージャンボ」1等賞

みたいな人も稀にいるが別格中の別格であって、

常人が「神様」を目指すようなものであってここでは不問。


贔屓のブロガ-「みさぴょん」サンは4月28日に「サクラチル」

の記事を最後にぱったり2ヶ月以上音信不通になっていた。

そのわけを7月8日の夫君へのレクイエム記事に接し

初めて、衝撃に打ち震えながら知り、実にせつなくなった。

前文の「確率」はその悲しみに落ち込む今のみさぴょんサンには

まったくどーでもいいことだった。


馬糞ウニ&毛蟹&スルメイカ&鰹のたたき

2007-07-08 04:35:39 oyazの投稿

 

我が家の夕べの食卓には

貧民が贅の限りを尽くした食材が並んだ。


隣町に新しくオープンしたスーパーは

わが町を見下ろせる一段高い標高にあり

日中の暑さを凌げる高原にも見立てられるし

夜になれば街明かりを夜景として楽しめる

言ってみれば「函館山」か「東山」みたいな所で

途中にあるポプラ並木もミニ北海道気分を味わえて

結構足しげく行くお気に入りドライブスポットだ。

爽やかな5月の風が吹く頃、自転車で来ることもある。


さて、そのスーパーの鮮魚コーナーはおすすめで

きょうが「お魚の日」(勿論店が勝手に決めた日)だったせいか

内陸のこの地ではほとんど見かけぬ魚介類が並んでいた。

まんずは「北海道産:馬糞ウニ」ガラス製の肉まん型ペーパー

ウエイトに、短く黒く硬い毛で表面を覆ったような新鮮な生ウニ。

カミさんを手招きし、それを指差したら、ウニに目が

ない彼女は「馬糞ウニってはじめて見たっ!」って小躍りし

速攻でしっかり買い物カゴに入れていた。@498円。

その隣に並んでいたのがこぶし大の小さな毛蟹。@398円。

長年、仕事で函館朝市、札幌二条市場に通いなれていた

ワタシは、カニの実入りかそうでないかは持った重さで

わかるようになっていた。小さいが「なかなか重いなっ!」

ってワタシが見立てたら、次の瞬間、それもカゴに入っていた。


これからシゴトのカミさんは「じゃ、私、お弁当買ってまっすぐ

会社に行くから」って言い置いて、

その高価な食材の入った買い物カゴをワタシに手渡し

去って行ってしまった。残された者は「会計係かよ、、、」


まっ、行く行くって言っておきながら

新婚旅行以来、一度も連れて行ってあげてない北海道に

これで行った気分にでもなってくれれば全く安いもんだと

気持ちを切り替えて、そのほかに

北海道産スルメイカ、旬の鰹のたたき、

平牧三元豚の「半額」うす切りもも肉もカゴに

放り込み、レジに進む。

で、本日の夕餉の合計金額は、しめて1,817円なり。

ワタシの通常の買い物の額の2倍の出費ではあった。

が、親子三人@660円で函館グルメの旅に行ったと

思えゃー、お徳にもほどがあるっ!てーところだ。


勿論、午後から農業ハウスの土方作業に汗水した夫と

医療事務の土曜クラス講師として授業を受け持った妻と

自閉症がかってはいるが白猫2匹とちゃんと留守番した娘と

3人で、豪華北海道物産市試食三昧和食処の本番が

盛り上がらないワケはなかった。

イカ刺しの歯ごたえと甘み、たたきの香ばしさと軟らかさ、

実入りの毛蟹の肩のあたりのニクの旨味に、ミソまでつけて

「圧巻は馬糞ウニ」殻ごと生ウニとの格闘グルメ!

でもこれらの食材はゼーンブ1ヶだけ、、、それを

試食のように3人で味見しーつつ盛り上がっていく。

貧民の、なんと健気でササヤカナガラモ最高に贅沢な日。



税金で市長を雇っているのは我々ですゾ

2007-07-07 12:17:56 oyazの投稿
先日は、最上町の住民と「ワタシ」の

平均年収180万円なり、どっこい、自然とぬくい人間味が

あって気分は充分幸せだぜ、っていう境地に浸っていた。


が、同じ新聞に、県の市町村長の年収が掲載されヒヤ水を

あびせられた気分に急転。なんと、コトモアローに我々の

税金から払われるオラホの市長サマの年収は1,600万円だって

言うでねーか!?オヤマンズッ、オッラー、オッタマゲダやら

アギレケーッタやら、ハラガタツやら、ムシズガオサマラナイやら、、


そもそも、だ、バブルの時代ジャーあんめーし

この一般庶民が、200~300万円の年収や年金で日々の生活を

やっとこさやりくりしてるっチュー時代に、何が公務員の長たる

市長が1,600万円でございますッてシャーシャーと言えるんだ!?

それも「オラダの税金でだぞー!!」


市役所のシャジョーはどこかの一流商社のシャチョーと一緒で

そんくらいもらうのが当たり前だとでも言うのか!?

国会議員の恩給係同様「そのように法律で決まっております」とでも

反論するんかい?

っだからお前たち政治家ヒトマルギ衆は「庶民生活感覚が欠如」した

欠陥人間たちだって言うんだっ!!

でなければ、ただの「保身議員たち」ばっか、だっ!

そんじゃーよー、シチョー、マツリゴトをつかさどってるっては

いつまでたったッテ、言われねーヨッ!

おまけに「これまでの慣例ですから」って、県議や市議の

当選議員に「公費で」酒2升づつ、年間にして16万円なりを

支出してるって言うんだからオメデタイ!「公費での支出と

贈答」なら選挙違反にはならないが、1,600万円からの

ポケットマネーで酒を送ったら「贈賄」で逮捕されるのだソーナ?

一般の皆さん!ワカリマス?この理屈?ワタシには「???」


政治家とは所詮そんな『私利私欲人間のゲノゲッ』っくらいに

見下げデモしないと、溜飲が下がらない、

まったく困ったギイン手前味噌天国日本のいびつな現状です!



ハガケンジ君たちの不幸

2007-07-06 05:47:30 oyazの投稿

「豊かさ」と「幸せ」の基準は

人それぞれに違う、格好な命題。


本日の朝刊の地元版に

「最上町住民の平均所得は180万円なり」とあった。

月給にすれば15~16万円。どうやって食っていけるの

っていうレベルだろうな、街場の人からすれば。

東京あたりの相場で言えば、マンション家賃10万円で

食費/生活雑貨費が5~6万かかれば何も残らない計算。

税金さえ納められないことになる。

いわゆる生活保護世帯の13万より、税金が付いて回る分だけ

まだ悪い、と言える。


それでも、街ではなく、自然と心やすいご近所衆以外、

何もない「この最上町がいい」という若者が紹介されていた。

地元の測量設計会社に勤め14~15万円の手取りしかない。


ご近所から、山菜ば採ってきたからといってはもらい物をする。

代わりに、冬は、年配者の家の雪下ろしをしてあげている。

温泉旅館に顔を出し「お湯、使わせデけらっしゃいっ」って

ただで温泉で汗を流したりもできる。時には湯上りに主人が

「イッペーやってぐが?」って気安く酒飲みにいざなう。

既に近所の大工や百姓、川魚漁師などが赤ら顔で笑っている。

そんな田舎の低所得同士ながら、楽しい暮らしが

東北には残っている。


ワタシも夜勤をひとつ増やしたので月にすれば2つの夜勤勤めで

日本純粋兼業農家の「百姓のサラリー14万円なり」になった。

そんで、こういう記事には、ヒトキワ親近感をおぼえる。

「人生の価値観」「生きる意味」「何をもって幸せ?」を考え、

自分の生き方、行き方、逝き方を見定めることは

時折立ち止まってやったらいい。

「金はむしろ無いくらいでいい」

「山にいきゃー山菜だってあるし」

「最上川では魚も獲れるし」

「雪も降るけんど、四季の移ろいや水と空気のんまさ」

、、、、、、ワカンナイダローなあ、ハガケンジ君たちには








人間の力

2007-07-05 03:25:38 oyazの投稿 
先日、NHKTV『プロフェッショナル仕事の流儀』で

肝臓外科医:幕内雅敏医師を見た。ビックリした、

「365日24時間医師」を貫く人、だった。

彼の元に来る患者のほとんどが他病院で手が付けられず

余命数ヶ月と医師に宣告された肝臓癌末期の人ばかり。


番組取材中、コトモアローに、膵臓からの転移で肝臓に

70もの癌が見つかった患者が登場し、執刀する場面へ。

開腹してみれば、みえなかった癌が特注の超音波エコーで

更に明らかになり、70を超える癌であることが判明。

13時間に及ぶオペで、なんと99個もの癌を全て摘出し

患者を孫と遊ばせるまでに快復させてしまう様子が

淡々と映し出されていた。

驚くべき世界中が注目している医師だ、という。


患者と向き合う時いつも言い聞かせている言葉がある

と幕内が言う「自分が最後の砦」なのだと。

オペ中、窮地に立つ場面がきても

「冷静に、落ち着いて、慌てない」強靭な精神力。

長時間に及ぶ執刀で、若手助手たちもボーとする中

「頭が働いてないぞッ!」と叱り飛ばす「集中の鬼」。


60だぞ、この男、、、とワタシは思った、、強靭すぎる

人間とは思えない体力 気力 脳力 指先の繊細さ、、、

日原先生のようにクリスチャンの使命感を見せるわけ

でもないこの幕内雅敏という男の、原動力とは何なのか?

10数時間の執刀後にも疲れに押しつぶされず

詳細な記録を書き続け、それを繰り返してきた精神力は

一体どこから湧き起るものなのか?

「舌を巻く」などという表現では到底及ばない「凄み」が

この医師にはある。


「今の自分があるのは圧倒的な勉強量と、30年間

執刀し続けてきた一つ一つの積み重ね、と、その記録」

に依るのだと、番組は言っているようだ。


彼の365日のことを思うと

自分はなんて怠惰で 不勤勉で 集中力のない

勉強しない毎日を送っているコトダロー と思ってしまう。

ましてや「金儲けの算段」なんて、、、市井の一庶民の

ちっぽけさがやけに下衆に思えた。

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お金は貯めずに「使う」

2007-08-31 05:10:05 oyazの投稿 
前回、お金は「楽しく」稼ぐべし、って考えた。

そう考えたら、ふっと、別のことが分かった。

「お金は貯めてはいけない」

「お金は使ってこそ意味がある」っていうこと。


「金は天下の回りもの」とは昔から言われてきたが

ワタシはそれをずーっと「いつか自分にも回ってくるもの」と

都合よく思っていたが、実はそういう意味の言葉ではなかった。


工業製品を例にとれば

松下やTOYOTAが1兆円儲けたとしよう。

そのうちの8000億円はそこで働く従業員に月給として回っていく。

その月給で、イトーヨーカ堂やイオングループで人々は買い物をして

金を回している。その金が今度は原材料の仕入先の中国や諸国へも回っていく。

こうしてグローバルな規模でも個人の規模でも流通の決済の手形として

「お金は回る」のである。それが一箇所に貯め込まれていたとしたら

それはただの「死に金」であって、まったく「持っている意味がない」

それがお金なんだ、と最近やっと気がついた。


だからあそこのうちは大金持ちだとか、あの会社には大金があるとか

うらやむ必要はないのだ。貯め込んでいる金ならただの紙切れであり

無意味なのだから、使わないで札束数える人がいるとすれば

オタクっぽい変な趣味の人だ、ってことである。

「回してなんぼ」なのである、お金は。

儲かってる企業やお金持ちは「その回し役」を担って日々苦役をしている

金の番人、あるいは金の交通整理人、位に考えたらいい。ご苦労様、なのだ。

どんなに稼いでも、物を買いこんでも、貴金属で身を固めても

「あの世には持ってはいけません」って、最後の最期は言い渡される。

貯める意味は、お金そのものにはないのである。

徒手空拳であの世に戻る時、

「我が人生、幸せだった」

「悔いはない」

って思える生き方を日々したいものである。

ただそれもあくまで自己満足の「心」の内のことであるが。



突き詰めればお金だけでなく

「人生は無意味」だ。

ただ、そういう無意味なこの世にカミサマはこさえたのだ、

楽あれば苦あり、

働かざるもの食うべからず、

遊びをせんとや生まれけん、

平凡こそ幸せ、

、、、、、、、一回こっきりの人生という本番の渦中

、、、リセットは効かない、、、この進むだけの時間の中で

「おまえさんはどう生きる?」ってカミサマは

修行と悟り道場であるこの世に、なぜか我々を試すように放った。

それをどう受け止め、どう生き、満足するのかは

、、、個々人の、、、極めて個人的な、、、、

最終的にはみんな

「心」の内の問題ではある。

価値観。


♪、、試験も何にもない、、♪

2007-08-29 04:58:36 oyazの投稿 
水木しげるのおなじみ『ゲゲゲの鬼太郎』

「ゲッゲッ ゲゲゲゲのゲー、、、」で始まる歌には

妖怪やお化けの世界には「試験も何にもない」とある。

我々が死んだあとの世界にも、きっと「試験も何もない」し、

ましてお金を稼ぐ必要も、食べる心配をする必要もないのだろう。

と考えてふっと思った。この世だけなのである、お金がいるのは。

あの世に行ったらいらないし、第一持っても行けないのである。

そう考えたら、お金お金と汲々としている現代人がアホくさく見えてきた。

金がないワタシだからこんな見方が可能なのかもしれないが。


そうして思った。そっかー、あの世に行けば、お金も食べ物も試験も

なんにもないのかー、、、生きている今だけ、食べるために金がいるのかー

ならば、楽しく働いて金を稼ぐほうがいい、、たくさんだとか少ないだとか

いう観点で金を稼ぐのではなく、「楽しく」稼ぐことがキーポイントだ、と。


モノを流通させる中での信用取引のただの証文にすぎない「お金」だ。

本当は、自給自足できていれば「要らない」ものなのである。

家庭内で自己完結できていれば、お金なんてあっても使えないのである。

ただの紙切れなのに人は「お金がほしいお金がほしい」と必ず思う。

そんなに有り余るほどのお金を手に入れてどーするというのだろう?

豪邸を建て、ジャガーを乗り回し、毎回贅沢な食事をし、働きもせず

メタボになって、病気になって、死ぬ、、、そのための入院費用を払うため

結局たくさんのお金が要るのだろう。


ジーサンといるのが窮屈だったから殺した、、、山口県で孫が祖父を

殺して東京でつかまった、、、そんな人生で終わすのだったなら、、、

もっとハヤク、、、家出でも何でもして、、、、生きたいように生きれば

よかったのに、、、ナンデ若くして人は人生を無駄に棒に振るのか、、

たった一回こっきりのこの人生、、、

「楽しく」生きたい、、、

「楽しく」働き、、、

「楽しく」金を稼ぎ、、、、

「楽しく」使えばいい、、、

あの世にイッタラ、、、

シケンモ、、オカネモ、、ナンニモナイ、、





上温湯 隆『サハラに死す』

2007-08-25 03:50:06 oyazの投稿

この本を知っている人はもういないかもしれない。

知っていることはどうでもいい。

人は皆、旅人であり、自分探しをしている。


芭蕉の言う、百代の過客を想い

明日のジョーのようにバッグを肩に放浪し

上温湯 隆の軌跡をなぞるように“魂のコアを探しに”ワタシも旅に出た。

ただワタシは彼のようには死なずに、

今も生き続けている。


生きてーいるのはーあーみっともないさー♪

若き吉田拓郎が歌ったように、生きているのは修行みたいだ。

老いさらばえればなおさら。100まで生きて「寿」なんて嘘だ。

しかしそれでも人間は死ぬまで生きていかなければならない。

『かもめのジョナサン』を書いたバックは言っていた、

人には年齢なんて関係ない、それはただのナンバーにすぎない、て。

「魂の自由」「生きていて気持ちいい心持ち」「自分に自然」

そんな境地にいる時間が多ければ多いほど生きているのもまた楽しい。


心臓が止まるまで

2007-08-23 04:14:22 oyazの投稿

5日からハボタンの苗をポットに植えつける作業を始め18日。

約3万鉢の苗も、ようやく終わりが見えてきた。

この間、日曜も、休日もない。

テニスも、温泉も、ドライブもない。

あるのは、この作業と、この作業をするための段取り、

そしてバイトの夜勤、、、「ワタシの24時間TV」を何回も繰り返す。


働き続け、眠らな続け、人はドコまでやれるんだろーと

そういう実験でもあるが、人の肉体はそう頑丈ではない。

眠らなければ、頭が朦朧となり、体の操作がうまくできなくなり

足元がふらついたり、平衡感覚が狂って転んでしまったり、

眠くて眠くて瞼を開けていられなくなったり、強烈な睡魔が

後に引きづり倒そうとしたり、、、人は、眠らなければダメになる。


肉体労働をし続ければ

使い続けた手足の感覚がなくなり

指が丸まって、伸びなくなったり

二の腕が慢性筋肉痛であがらなくなったり

足の裏のジンジンがとれなくなったり

太腿の筋肉がパンパンに張って引きずって歩いたり

腰が重苦しく、首も肩もこったまんまとなる。


重いものを上げ下げしている時、ふっと心臓が

激しく鼓動し、止まるんじゃないかと不安にかられることがある。

こんなところで、シゴトが中途半端なまんま死ぬわけにはいかないが

、、、、、、と立ち止まって心臓を触る、、、、そして、、ワタシのこの

頑強で、屈強な肉体も、、、いつの日にか、、、心臓が止まり、

終わる日が来る、、、

そう思う。

そして「この、、、、我が人生、、、、、もう悔いはないだろう」

今はそう思える。


ちょうどいい時間

2007-08-20 02:08:14 oyazの投稿 
生まれた時から

おんなじスピードの時間の中で生きてきた。

幼い頃は「時間の観念」などまったくなかったし、

学生の頃は授業時間だけはヤケに長くも感じた。


そして今

ハボタン栽培真っ盛りで、朝から晩まで作業をし続け20日。


一人の人間がやれる作業量っていうのは所詮、限度があり

ポットに植え込みできない若苗が10,000近く放置されている。

どんなに頑張っても、植え込みだけであと5日はかかる。

その間も植物はお構いなく、どんどん成長していく。

肥料だって並行して施さねばならないし、害虫防除も

しなければならない。畑周りの雑草もあっという間におがる。

自然の速度に、たった一人のこの男は無力さに呆然とする。


そして「作業完了日」を、きょもあきらめ、自転車の人となり、

家路に向かう。もう上がらない腕、ジーンとする腰、つっぱった腿を

自転車に乗っけて、つんたらと、風を受けて進む。

そうして思う、この時間の流れるスピードは人間にあっているのかも。

早くも遅くもなく、ちょうどいいのかもしれない、と。


たとえばハボタンの天敵のコナガは

葉っぱに産み付けられてから2日で孵化し幼虫となって

ワタシの大事な商品を食べ散らかす。と思っている間に

2日でサナギになり、2日で蛾となって次世代の卵を産みに

ハボタンの海に飛んでいく。そして2日でその命を終える。

わずかたった8日でコナガはその一生を駆け抜けて果てる。


そんな比較もすると、人のジンセイは短いような

長いようなウンヌンカンヌンとはもっともらしいことを言うが、

結局はこの時間は人に「ちょうどいい」んでないのか、って思える。

この時間の速度って、

人が苦しみ、また楽しみも十分味わい、

けれど「過ぎない」くらいにほどほどであり

一生を終えるのにちょうどいいスピードに

神サマがわざわざ配慮してしつらえたんだな、きっと、

って思えてくる。




250万円そこそこの庶民の生活と国会議員

2007-08-19 03:00:57 oyazの投稿 
「国民の生活が第一」

VS「成長を実感に」


これが、今回の参院選の、勝敗を分けた。

国民は、我々庶民は、

ジミンだろーがミンシュだろーが

オザワだろーがアベだろーが、どーでもいいのだ。

受かったヤツは誰でも「あすから年収2500万円」生活に

入る。それもオレたちの税金から払われる歳出で。


きのう山形で初当選したミンシュの舟山康江が

選挙も終わったと言うのに、選挙カーに乗って

盆休み明けのあいさつ回りなのか、スピーカーで

「参院選のおんれー、、カタガタ、、、これから

みなさまのお力をお借りしたいんですッ!」トカナントカ

ワケのわからない内容のことを、トニカク言って回っていた。

黒海ギインたるもの、受かっても「センセーセンセー」と

おだてに乗って、ふんぞり返ることなく、こーして

街角に出て、自ら庶民の目線で見れる視点を

保ち続けることがホントーは一番大事なんだよ、って

舟山の選挙カーが近づいてきたら言ってあげたかった。


「いいかっ!フナヤマっ!」

「“国民の生活が第一”の基軸をいつまでも忘れんなよ!」

「忘れたら、いつでも、国民はお前からさっと去っていくぞっ!」

「我々の税金から2500万円もらえていることを忘れるなっ!」

「おらだずビンボー国民の、少しでも国民サイドに立った人を応援する」

「アベシンゾーのように、“美しい日本”を実現しよーとする個人的

理想や夢の実現を主眼にマイペースな人は国会議員にはいらない」

「国民の生活を考え、250万円の質素さを憂い、農業や

地域の実態に合った実のある提案のできる人、それを望んでいる」

それを忘れるなよ、フナヤマ!

その視点からズレたら、国民は去る。

かつてジミンの遠藤利明は衆院選に落ちた年、

毎日のように街角に立って挨拶をし、握手をし、訴えていた。

かつてジミンの加藤孝一は長靴を履いて田んぼの百姓に声をかけた。

その姿はジミンの二人にはもーない。

この姿の違いこそ、今回の勝敗を分けたのだ。


山形ハバナ

2007-08-16 02:19:13 oyazの投稿 
『東京ばな奈』の

ネーミングといい、パッケージのキュートさといい

万人の好きな食べ物であるバナナにしたことといい

万人の好む色の一つのレモンイエローや山吹色といい

ヒット商品に必要な要素とは一体何々か、ってことを

この東京バナナはんまいとうならせながら、人に考えさせる。


そこで、ワタシのめちゃくちゃな「ワケのわからない」と家人の言う

思考回路が反応し、即座に思いついた商品名がある。

「山形ハバナ(葉花)」!

ワタシが百姓で身を立てるためにこれだっと決めて

栽培中の「ハボタン」のリーフものにうってつけの名前ではないか?

それを言ったら、妻も娘も即「なにそれー?」ってなもんで

「だっから、ワケわかんないってばー!」とか、サンザンだ。


勿論、そんなことでめげるタマではないし、

着々とこの「山形ハバナ」企画を

全国ヒット商品にまで育てあげるアイディアを練っているところ、、、


驚愕の出会い『東京ばな奈』

2007-08-13 02:42:33 oyazの投稿

たまたま『東京ばな奈』のおすそわけをいただき

「う~ん昔子供の頃、バナナの形のお菓子を食べたなぁ」

昭和20~30年代のシニア・ミドルエイジの郷愁をさそい

現代若者にも新鮮な味とネーミングと

ハトサブレーにも、ひよこにも、飽きたころあいといい

全てにおいて絶妙なタイミングとテイストで登場したこのばな奈。


何回か食べてはいたが、今回何気にパーッケージに印刷してある

小さな小さな英文を、しげしげ読みはじめ、ビックリ仰天ッ!

思わず「苦笑」してしまった!、、、、一体、、、

誰が、何のために、こんな、、、、、今や新東京名物の一つ、、、

と言ってもいい位にまでなったこのお菓子の、、、こんな

ビニール袋に、、、よりによってこんな英文を掲載したのか??


コレを考案したシャチョーが地方出の苦労人だったのか?

はたまた、その息子の若シャチョーが、地方人の集まりである

「花の東京」をやんわりと揶揄したヒューモアなのか?

いずれにしてもコレは、東京っ子の粋な遊び心でありシャレ

なんだ、と思えた。


まだ読んだことのない皆様はゼヒ次回、

東京ばな奈を、パッケージとともに、楽しく美味しくご賞味ください。


デルフィニュウムの難解さ

2007-08-11 05:06:47 oyazの投稿 
実は連日ハボタンの植え込み作業でブログなんぞを叩いている暇はなく

盆休みなどは我が家では遠くでまたたく銀河のようでございます(ジョータクヤ)


ところでハボタンと並行して

ウチのハウスでは目下デルフィニュウムとダイアンサスを育苗中

というか

実験中、、、、実験とか言って、、、ごまかすしかないのは

見るも聞くも、、、とにかく、、、デルもダイアンも「初挑戦」なもんで

芽出しから播種、育苗の初期段階自体が、どうしたらいいか

未知の世界で暗中模索の日々をかたわきで送っているからである。


それで分かったことは

デルフィニュウムの育苗の難しさである。


第一、「根が1本」という危うさで苗となる、、、、、

ということは、、、ホースでハボタンよろしくジャバジャバ

水なんてかけようもんなら、苗が土からすっ飛んでなくなってしまう

あるいは、土をかぶって埋もれ死んだり、水枯れしたりしてしまう。

イソトマの苗も全滅させたこの冬の大失敗を髣髴とさせる

今回のデルの育苗。成長し70~80cmの見事な花を咲かせるのは

4000粒の内の2割、残れるのかどうだか、、、

、、、、それほど、今のワタシの知識と、ない経験の中ではデルは難しい。



必要は「気づき&発明」の革命児

2007-08-10 03:09:39 oyazの投稿 
三日前にホテルのナイトフロント徹夜勤務

二日目が仮眠ありの老人ホーム宿直バイト

昨晩より本日にかけて再びホテル徹夜勤務

その間、日中は畑でハボタンの植え込み作業。

ここ3泊4日の84時間中、寝たのは6時間。


こんなのは

一般人からみればきっと「尋常な沙汰ではない」

「人間業ではない」「いや、むしろ異常だ」「バケモノだ」

「エバンゲリオン」「睡眠失調症」「クモも真っ赤」「霊能者もビックリ」、、、


はてさて、当の本人自身、頭がボーっとしたり足元がもたついて

転びそうになったり、運転中に瞼を開いているのが困難に

なり「気合だーっ!」と活を入れる連続だったりするので

なんとか日中のハボタン植え込み作業を革命的にスピード

アップできる方法はないものか、と

エジソンやライト兄弟やTOYOTAベルトコンベア方式や

ビルゲイツや鉄鋼富豪ミッテルみたいな何か今までと違う

発想で、革命できないか、「夜も寝ないで考えた」。


考えたことは「即、明日してみる」。

きっと各分野の革命家とはきっとそんな思考と試行の積み重ね

と繰り返しなのだと、想像できた。


以前のように、「もう少し寝れるよう」

「休肝日」をもっと短くできるよう

ワタシは何か、とてつもない、

ハボタン栽培の革命的方式を編み出し

後世の人々から絶賛されるかも、、シレナイ、、革新を

成功させようと、きょうも酒も「飲めず」に考えている。

我が肉体をあやつる

2007-08-08 02:01:05 oyazの投稿 
若さとは、無茶であり、無謀である。


ワタシは小学生の頃からの野球少年であり

また鉄棒や床運動も体操部に進むほど得意だったし

泳ぎもほどほど何でもこなせ

スキーやスケートは飯を食わずにやるほど好きだった。


ジブンは万能なんだと半ば本気で信じていた。

中学では最初友達に誘われて体操部に入ったが

日の当たらぬ屋内でのあまりの暗く地道すぎる練習に

辟易し、物足りずに、体育館の窓越しに見える野球部の

元気ハツラツさに手招きされるように早々に転部した。

ところが体の大きさがまだ伸び盛りに至らなず、補欠。

たまの試合のチャンスでは「ここ一番で」打てなかった。

ワタシは中学生にして「挫折」した。


かといって勉強とて「中の中」

マンガ作家人気の時代、絵は得意なほうだったが

ジブンより数段上手いウエの人間がこの分野にもいた。

知、芸、体、どの分野においてもワタシは

「万能」でも「天才」でも「ここ一番に強」くもない

取るに足りない平凡な人間だと悶々と自覚させられた。

中学三年ではついに「家出」まで決行する。


あれから30数年、ようやくワタシも己が長も短も心得

「ここ一番の」度胸や運もつき、

やっと一人前の人間に近づきつつあるように思える。


今はホテルの徹夜勤務のバイトをこなしながら

日中は本業のハボタン栽培に引き続き突入し、水かけ、

土詰め、植え付け、防虫、スペースとりなどに追われ、

3日に一度の老人ホームの宿直勤務でやっと休息をとる日々。

「強固な意志で」「己が肉体をあやつる」とはこういうことだったか、

高橋尚子や野口みずきなどと比較するのも滑稽だが、

意志と肉体の葛藤の中の調整の仕方や

ギリギリの状況でもいかに精神を安定に保つか

など、彼女たちの限界を垣間見るようになぞらえながら、

ワタシ自身の後半ランに挑んでいる。




んまくなんか行かないんだよ世の中

2007-08-05 04:10:26 oyazの投稿 
久々に、20年前にどっちを買おうか迷った

東証一部上場の2つの現在の株価を見て、

思わず苦笑いしてしまった。


仮にAとBという銘柄にして言えば、

20年前はどちらも1株が750円前後で

80万円以内で1000株を買える水準の代物だった。

Bは、ワタシが営業マンとして出入りしている会社でもあり

あんなレベルの社員がいる会社よりは、Aという三菱系の

化学株のほうがきっと将来株はあがるだろうと、いい加減な

決め付けで結局ワタシはAの三菱系の株を買った。

しかしバブルがはじけ、A株を半値ほどで処分する羽目になる。


近年、小泉純一郎が「ぶっこわす」改革を断行し、ようやく日本の

停滞を続けた沈黙の10年にも終焉が訪れ、ここ最近の株高にまで

回復するに至った。


直近のA株は1130円になっていた。750円で買った株を20年間

持ち続けていれば、今頃、40万円ほどの儲けが出た勘定だ。

さて、バカにしていたB社の株はと見ると、、、、、、、

、、、、、「4760円」、、、、なんと

絶句するほどの、モノスゴイ驚異的な高値に跳ね上がっていた!!!

あの時、ワタシが、従業員を見下さずにB株を買っていたら、、、、

大手の三菱を買いかぶっていなければ、、、、

Aの10倍もの400万円ものウハウハする儲けを

この手に握っていた。

しかしどっこい、、、、A社の40万円さえ握っていない、、、


そーして思った」、、、、たとえ400万儲けていたとしても

きっと調子に乗ってその十倍も、百倍もの損を出して

ニッチモサッチモ行かず、線路にと飛び込むとか

わが人生は終わっていたことだろーと。


所詮、あくまでも、金なんぞというものは天下の回り物である、、、

ゆめゆめ、金を、おのが才覚であやつれるだとか

多ければ多いほどいい、などとは決して思わぬことだ。

金と量は、生きていられほどの、中庸が1番いいのである。







8月2日は猛暑の端境期

2007-08-05 00:39:00 oyazの投稿

7月中旬から播き始めた葉牡丹の苗が

今年はことのほか順調に元気に粒ぞろいに生育している。

と思ってホクホクして、月山まで湧き水を汲みにドライブ

何ぞしている間に、気温がみるみる30℃を超えたらしく

夕方ハウスに戻ると、若苗たちの1割以上が猛暑熱波に

やられて、日焼けし、枯死ししかっかていた。

「すわっ!」とか驚いてもはや、後の祭り。

人も含め、生物は、熱波で死んだら生き返れない。

いそいでたくさんの水を注ぎかけながら

「ゴメンンッ!」と涙ぐみながら謝ってみても、もう遅い。

生きかえれないのだ、いったん枯れたものたちは。

昨年の農業日誌を紐解けば、やはり、それまで涼しくさえ

あった気温が8月2日を境に真夏日に一変していることが

記録してあった。なんのための観察記録だったかと悔やまれた。

取り返しのつかない失敗、植物とはいえ、途中で

ワタシの注意や配慮の行き届かないことが原因で

この世から意に反して葬り去ってしまった事実の前に

誰にも話せない暗澹とした気持ちが尾を引く。

猛暑ノ夏ハオロオロ歩キ

2007-08-02 05:27:41 oyazの投稿 
ワタシの好きな番組NHKプロフェッショナルの流儀で

またまた、たまたま見たのだが

古野隆雄というアイガモ農法を日本で確立した男の

生き様が紹介されていた。

そのなかで古野がポツリと言う

「人間は本来自然の中で生かされている、、、

人間が自然をコントロールできるわけではない、、、」

日本でアイガモ農法を確立した男として取り上げられているのに

あるいは、世界的にも注目され、外国人の研修や視察が

頻繁に訪れるというのに

なんと謙虚で、本質の分かった人なんだろう、と思えた。


水の少ない今年、古野は、米の直播に挑むが

番組は、結局、この直播が失敗に終わる結末で終了する。

決して「成功談」ではなかった古野隆雄という人の話。


「なるようになる」そう彼は言う。

人のできることは人事を尽くしてやるだけやるが

あとは天命を待つしかない、そういう哲学が根底にあった。

おんなじ農業人として共感できる。


2年目の本格的百姓生活を迎えている今年

やっぱり、古野氏同様、ワタシも雑草には辟易している。

農作物の成長を上回る繁殖スピード、

二重三重に生き残り策や種バラマキの術を身に着けて

決してタダでは起きない(枯れない)脅威の雑草たち。

加えて、ナメクジたち、蛾と蝶とバッタたちと30度の炎天下で格闘、、、、


それらに「勝とう」と立ち向かい、人は根負けし、疲弊し、ついに

農薬を撒き散らし、自然をコントロールしたように一瞬錯覚する。

ほんとうは、ドラゴンボールの主人公たちが一段と強いスーパー某同様

雑草と昆虫たちもスーパー某に「進化」して生まれ変わる、その薬剤を

知らず知らずにまいているのも知らないで。


、、、「盛岡さんさ」祭が始まったことが全国ニュースで流れる。

6月の「チャグチャグ馬っこ」そして8月の「さんさ」、もうすぐ秋が来れば

盛岡の「秋祭り」行列、、、農業の節目節目には、祭が昔からあった。

そういう形式が、四季を通じてしっかり、そして本格的に

まとまって残っているのは東北では岩手県だけである。

別に、東北何大夏祭とか、地域振興や観光客誘致のために

企画された祭として人に媚びる類でやってきたワケではないから

岩手県の祭はあまり知られていない。、だから、実は

岩手県ほど祭の多い、宝庫、まほろばだと知る人は、そう多くない。


宮沢賢治と石川啄木と盛岡冷麺と中尊寺だけが名をはせたが

ほんとうに本格的にいい祭がいまだに老若男女に染みついており

代々、自治会と学校で、子どもたちに自然に受け継がれている、

これほど県民的スケールで行われ、自慢もPRもせず

淡々として、凛としている県を、ワタシはほかには知らない。

月燗『やさい通信』

2007-09-30 06:48:35 oyazの投稿
テーマ:ブログ

先日の中秋の名月は、久しぶりに日本中で見れたようで、よかったね~

「月」を愛でつつ「燗酒」でいっぱいやりながら「やさい」をアレコレ

論じてキョーじる集い、な~んてのがあっても面白いな、と考えながら

糸井重里氏の月に一回の『やさい通信』(毎月の最終日曜6:15~)を

けさもたまたまTVをつけたらやっていたので、楽しく見た。


ワタシは花栽培農家として去年から独立して今年で2年目、

ハボタン出荷の2回目の年になるわけだが、ホントーにワタシが

やりたいのは、自給自足のための「家庭菜園」ならぬ、米作りもモチロン、

エゴマなどの食用油まで自家製でかまなえるような「家庭農業」である。


2年前に農業研修先に選んだ農家は「米作りもしている花栽培農家」であり

チャリンコで家から通える近さにあったので選んだのであって

ハナから「花」栽培などにはまったく興味がなかった。

それが今、ワタシまで何故花栽培農家になったのかと言えば

米が安すぎて食っていけないこと、葡萄なんかも安くてだめなこと、

キューリにいたっては朝から晩まで収穫に追われ追われそのうえ安いこと

などがわかってきたからであって、最後に残ったのがワタシにも

できそうで、1鉢100円位で売れる、というハボタン栽培だった。

しかし、そのハボタン栽培も今時の原油高/灯油高の影響で

全国中で加温の必要ないハボタン栽培が急増し、価格は半値以下

前後で推移するようになり、米以上に食っていけない作物になろうと

している。では、ほかに何がいいかって、農家はみんな考えている、、、

、、、健康志向ブームだし「ブルーベリー」がいいらしい、、、となる

、、、するとあと5年もするとどこもかしこもブルーベリーだらけで

結局、価格暴落で、とどのつまりがブルーベリーでも食っていけなくなる。


こういう思考そのものが「食っていける」農業という、いわゆる

市場主義経済の考え方が日本中に蔓延している。

そんな中で『やさい通信』をみると、家庭菜園を楽しんでいた頃の

自分を取り戻せる気がする。「食っていける農業」なんて考えないで

「おいしい野菜を食べたい農業」にもどろう、と思う。

パワー至上主義ではない「オランダ人の発想」

2007-09-29 14:33:04 oyazの投稿
テーマ:ブログ
機械は「ドイツ製」がいいものだと思い込んで

若い時は、ブラウンの髭剃りが1等上等だと信じていた。

ブラウン社は1921年マックスブラウンがフランクフルトで電気器具の

製造・修理の会社を始めたのがそもそも、だそうな。

とにかく、電気髭剃りは、パワーが強く、

ひげに当たる金属プレートの良し悪しが全てだと思っていたので、

ワタシにとってブラウンはスイゼンの髭剃りメーカーに思えていた。


ところが、ある時、ワタシは「変な形だし、相性ワルソー」と数十年間

敬遠していたフィリップス社のあのまーるい形が3つついた電気髭剃りを

買ったのである。これは大枚、はたいて、か~なり期待して買った。

家に持ち帰り、初のフィリップス社の髭剃りに電源を入れた瞬間、

ワタシは「大枚が飛んでいく」気がするほど愕然とした、、、、

、、、、、、なんというか細く、弱弱しい音と振動であることか!!?

コンなんだったら2~3千円の国産の安いのにしとけばよかったと

「バイクにも負けない音とパワー」を期待していたワタシには

蚊の鳴くような音のフィリップス社製を「返品」するか、でなけりゃ

叩き壊したいような気さえしていた。それほど、、、裏切られた。


しかし悄然として、弱弱しい電気髭剃りをほおに当て、剃りだし

子どものおもちゃのようだと思っていたそのシュルシュルシュルの

音のする3つの丸い金属プレートが、か細い音とは関係なく

決して「勢いよく」ではないが「確実に、ジワジワと」剃り上げていくのに

ワタシは一転して、目を見張った。さっきまでの落胆が剃りあがって

いくにつれ、しだい次第に「第九、喜びの歌」に変わっていった。


以来、ワタシはブラウンやひいては、バイクのハーレーダビットソンの

ような「欧米型パワー主義」には疑問こそ覚え、決して憧れなくなった。

小さいパワーでも、いかに深剃りや、産毛そりさえできるかを探求する

オランダ人の目に、何か、「本当の現実主義者」を見る思いがした。

人まねではないのである。

そういえば「オランダサッカー」もそうであったと思い出す。

他の国々のチームが全て役割分担制で試合をするのに、オランダ

チームだけが、ここぞという攻めの局面になるとゴールキーパー以外

10人全員がフォワードになって、総攻撃を仕掛けていた。

そういう考えに考えたオリジナルなモノづくりの姿勢、戦術のこさえ方

発想をワタシは大いに自分の姿勢にも取り入れていこうと、感心している。



(フィリップス社の創業:抜粋)
1891年創業者ヘラルド・フィリップスが従業員20名の電球工場を設立したのがルーツである。以後、電球を欧州各地に販売して成功し、その後はラジオ受信機、蓄音機、電気通信装置などに拡大し、総合エレクトロニクスメーカーとなった。第二次世界大戦中、ドイツ軍に工場を接収され、また連合軍の爆撃で大被害を蒙った。

月燗『やさい通信』

2007-09-30 06:48:35 oyazの投稿

先日の中秋の名月は、久しぶりに日本中で見れたようで、よかったね~

「月」を愛でつつ「燗酒」でいっぱいやりながら「やさい」をアレコレ

論じてキョーじる集い、な~んてのがあっても面白いな、と考えながら

糸井重里氏の月に一回の『やさい通信』(毎月の最終日曜6:15~)を

けさもたまたまTVをつけたらやっていたので、楽しく見た。


ワタシは花栽培農家として去年から独立して今年で2年目、

ハボタン出荷の2回目の年になるわけだが、ホントーにワタシが

やりたいのは、自給自足のための「家庭菜園」ならぬ、米作りもモチロン、

エゴマなどの食用油まで自家製でかまなえるような「家庭農業」である。


2年前に農業研修先に選んだ農家は「米作りもしている花栽培農家」であり

チャリンコで家から通える近さにあったので選んだのであって

ハナから「花」栽培などにはまったく興味がなかった。

それが今、ワタシまで何故花栽培農家になったのかと言えば

米が安すぎて食っていけないこと、葡萄なんかも安くてだめなこと、

キューリにいたっては朝から晩まで収穫に追われ追われそのうえ安いこと

などがわかってきたからであって、最後に残ったのがワタシにも

できそうで、1鉢100円位で売れる、というハボタン栽培だった。

しかし、そのハボタン栽培も今時の原油高/灯油高の影響で

全国中で加温の必要ないハボタン栽培が急増し、価格は半値以下

前後で推移するようになり、米以上に食っていけない作物になろうと

している。では、ほかに何がいいかって、農家はみんな考えている、、、

、、、健康志向ブームだし「ブルーベリー」がいいらしい、、、となる

、、、するとあと5年もするとどこもかしこもブルーベリーだらけで

結局、価格暴落で、とどのつまりがブルーベリーでも食っていけなくなる。


こういう思考そのものが「食っていける」農業という、いわゆる

市場主義経済の考え方が日本中に蔓延している。

そんな中で『やさい通信』をみると、家庭菜園を楽しんでいた頃の

自分を取り戻せる気がする。「食っていける農業」なんて考えないで

「おいしい野菜を食べたい農業」にもどろう、と思う。


パワー至上主義ではない「オランダ人の発想」

2007-09-29 14:33:04 oyazの投稿 
機械は「ドイツ製」がいいものだと思い込んで

若い時は、ブラウンの髭剃りが1等上等だと信じていた。

ブラウン社は1921年マックスブラウンがフランクフルトで電気器具の

製造・修理の会社を始めたのがそもそも、だそうな。

とにかく、電気髭剃りは、パワーが強く、

ひげに当たる金属プレートの良し悪しが全てだと思っていたので、

ワタシにとってブラウンはスイゼンの髭剃りメーカーに思えていた。


ところが、ある時、ワタシは「変な形だし、相性ワルソー」と数十年間

敬遠していたフィリップス社のあのまーるい形が3つついた電気髭剃りを

買ったのである。これは大枚、はたいて、か~なり期待して買った。

家に持ち帰り、初のフィリップス社の髭剃りに電源を入れた瞬間、

ワタシは「大枚が飛んでいく」気がするほど愕然とした、、、、

、、、、、、なんというか細く、弱弱しい音と振動であることか!!?

コンなんだったら2~3千円の国産の安いのにしとけばよかったと

「バイクにも負けない音とパワー」を期待していたワタシには

蚊の鳴くような音のフィリップス社製を「返品」するか、でなけりゃ

叩き壊したいような気さえしていた。それほど、、、裏切られた。


しかし悄然として、弱弱しい電気髭剃りをほおに当て、剃りだし

子どものおもちゃのようだと思っていたそのシュルシュルシュルの

音のする3つの丸い金属プレートが、か細い音とは関係なく

決して「勢いよく」ではないが「確実に、ジワジワと」剃り上げていくのに

ワタシは一転して、目を見張った。さっきまでの落胆が剃りあがって

いくにつれ、しだい次第に「第九、喜びの歌」に変わっていった。


以来、ワタシはブラウンやひいては、バイクのハーレーダビットソンの

ような「欧米型パワー主義」には疑問こそ覚え、決して憧れなくなった。

小さいパワーでも、いかに深剃りや、産毛そりさえできるかを探求する

オランダ人の目に、何か、「本当の現実主義者」を見る思いがした。

人まねではないのである。

そういえば「オランダサッカー」もそうであったと思い出す。

他の国々のチームが全て役割分担制で試合をするのに、オランダ

チームだけが、ここぞという攻めの局面になるとゴールキーパー以外

10人全員がフォワードになって、総攻撃を仕掛けていた。

そういう考えに考えたオリジナルなモノづくりの姿勢、戦術のこさえ方

発想をワタシは大いに自分の姿勢にも取り入れていこうと、感心している。



(フィリップス社の創業:抜粋)
1891年創業者ヘラルド・フィリップスが従業員20名の電球工場を設立したのがルーツである。以後、電球を欧州各地に販売して成功し、その後はラジオ受信機、蓄音機、電気通信装置などに拡大し、総合エレクトロニクスメーカーとなった。第二次世界大戦中、ドイツ軍に工場を接収され、また連合軍の爆撃で大被害を蒙った。


繊細で、優美な指をもつ百姓

2007-09-28 04:23:13 oyazの投稿 
繊細で、優美な、、、モチロン、ワタシのことではない。

そんな指があったらいいな~、というお話。


10年放置された藪に覆われたブドウ畑の開墾から始まった

ワタシの百姓生活は、あそこから数えれば3年になる。

それまでホワイトカラー1色だった人が、いきなり肉体労働者に

ある時突然変わった。日々の重労働、大鎌と鍬をふるい続けた反動で

今も、左腕がしびれ、両の手の指先に、感覚がない。

こまい、繊細なシゴトはできなくなった。

物を受け取ったり、紙パックのジュースにストローを差すのさえ

おぼつかないこの頃。まして、天才ピアニスト:ホロビッツ氏の

ごとくにピアノを弾くことは、まったくできなくなった

(注/最初からできない)


百姓に「向き不向き」があったとして、論じれば

ワタシは実に百姓に不向きだ。何故なれば、その麻痺した腕や指

の問題以前に、繊細さや計画性、丹精さが少ない。そういうものが

にじみ出ない。無骨で粗暴な基本的人格のヤカラであるからである。


でもいい、

ワタシはそんな百姓不向き人間でも、

痛い腰をかばいながら、こうして畑の中でコグンフントーし続け

土と水と太陽とナメクジとバッタとチョーチョと思うようにままならない

3万鉢の作物に翻弄されながら、雑なB級品を作り続けるのである。

それは天才百姓でも天才画家でも、天才ピアニストでもなかった

凡人の『それでも生きた格闘の日々』なのであるから。

いつ旅立ってもいい身ぎれいさ

2007-09-27 00:49:14 oyazの投稿 
夕べ老人ホームの夜勤に出たら、

「○○さんが昨日病院でお亡くなりになり、で、本日の在籍数は、、」

と、淡々と事務引継ぎがなされた。


『あぁ1週間前は元気にお風呂に入りにこの前を通っていった○○さん

元気そうだったのに、、、、亡くなったんだぁ~』

そう、心の中で呟いていた。

ここは80、90のお歳の方々が多数住んでいる「家」なので

いつ、誰が逝ってもおかしくないし、職員たちにとっても

極端に言えば「死はめずらしいことではなく、日常茶飯事」なのだ。


こういう類のことは、10代、20代はもとより30代いや40代でも

ピンッとこない感覚のお話だろう。50、60代となり親戚、知人の

逝去に接する場数を踏まざるを得なくなって、死は他人事では

なくなってくる。そしていつかワタシにも訪れる死を意識しだす。

若いモンなら「訪れる」ことさえ信じまいが。


そこで、先日考えたような「ジガと肉体」の思索に入っていく。

「ワタシは誰?」「生きるとは何?」「死とは何?」という疑問。


ワタシは

「ワタシを3~4歳頃に目覚めたジガ」

肉体は「服」である、

と思っている。

「生きる」とは、ジガが服と格闘し、なじんでいく過程。

「死」とは着こんでボロボロになったその服をジガが

「ご苦労様、もう十分楽しませてもらったよ、ありがと」と

ねぎらいながら、看取って、共に消えることである、と。

タネと、現代テクノロジーと

2007-09-25 03:39:58 oyazの投稿 
バイオ技術の発達、ナノテクノロジーの進展、半導体、

ワタシ以外のすごい技術者、科学者が開発した人間の技術は

この世の自然界をまさに支配するかごとき錯覚を覚えさせる。


他方、土器についていた縄文時代の種を現代によみがえらせたり、

古代の蓮を現代の科学技術で発芽させ、咲かせた話題などが

取り上げられる。そんなことができる現代技術はたいしたものだとは思うが、

それ以上に感嘆してしまうのは、その「種」の生命力である。

人間がどんな技術を手に入れようが、遺伝子組み換えができるように

なろうが、乗り越えることのできない「神の領域」が、種である。


種自体は硬い殻に覆われた「中身を守る」というたった一つの

役割だけのために形成され、機能させられている。台風が来ようが

大津波、大地震、溶岩流が来ようが、生き続けて来た「種」の強さ。

人間は現代文明の優れた機械や技術、ソフトを、戦争で、

あるいは自然災害で、一瞬にして消失してしまうかもしれないが、

そんな事態が起きてこの地球上から人類と機械が絶滅したとしても

植物の種だけは地球が他の星に衝突されたり、自滅し爆縮するまで

死なずに生き続けることが、きっとできる強さを持っているのだろう。


そう考えると、神の創造の究極の作品は「種」なのである。

1mにもなる美しい花になるのも、元々はほんの数ミリの一粒の「種」だし、

1m70~80cmにもなる我ら人間も、元は0.0何ミリの精子である。

こんなこの世の根本的な生命科学の「種」の一粒を、

現代科学技術の粋を集めても人間は決して作り出すことができていない。

人間は自然をネジ伏せて、制覇して、支配できてるわけでもなんでもない。

自然界のほんの一部を解剖し、仕組みを突き止め、モホウしているだけだ。

神の領域の無限大分の1くらいのテクノロジーを手にしたに過ぎない。


だから現代文明のTopRunnerたる

ブッシュも、プーチンも、オンカホーも、サルコジも、フクダも

この世を人間の力技で支配したり、一人勝ちしようだなんて

バカな市場主義経済のゲームにいつまでも酔っぱらってないで

地上に落ちた一粒の雑草の種の何たるカかを、もっと考えてほしい。

                             ~現代琵琶法師~



辿りついたら、、人は、、、

2007-09-24 00:43:49 oyazの投稿 
ワタシというジガは

3~4歳で目覚め、同じ肉体に張り付いて

その肉体の変化に、抗えるはずもなく、ここまで来た。


「三つ子の魂百までも」というのは

「三つ子のしつけや教育が大事なのじゃ」

という世間一般で用いられる意味ではなく、本来は

「三歳で目覚めたジガは変わることなく、変わり続ける肉体が

百歳を迎え終わりを告げられるまでも、ずっとその様子を

見続けなければならない、人は定めにある」

という、精神と肉体の関係を意味することであったかと

今は思えるようになった。


「命~みーじーかーし~、恋せーよ~オトメ~♪」という

『ゴンドラの歌』という、そのフレーズをワタシは時々口ずさむ。

そして、乙女に限らず、振り返れば(きっと誰だって)

「我が人生は、実に長かったような、しかし

あっと言う間だったような、、、」と

えもいわれぬ感慨を持つのだろう、と想像された。。

まして、若くみずみずしい時代は矢のごとく一瞬にして過ぎ去る。


老いさらばえていくだけの肉体という「殻」から離脱することを

許されないジガは、

さて、はて、後半生をどんな風に生き生きと楽しんで

生き抜いて、ミショ-かっ!?

葉花栽培は金儲けじゃなくアートだ‘@>>

2007-09-21 02:28:40 oyazの投稿 
ワタシは指が不器用である。

だから、ピアノがひけないし、借りたギターも長続きしなかった、、

、、ということに、全ては指のせいにしておこう。

さて、そんなワタシだが、何故か図画工作は小さい時から得意だった。

というか、小刀で何度指を切ろうが、お前の絵の具の色使いはヘタだ

と言われようが、唯一無二の自分だけの独楽や、絵やオブジェを

生み出す面白さ、満足感、喜びを知ってしまったのである。

コレこそが、ワタシたちが皆カミサマから与えられた能力、

創造する才能、なのだと確信するようになる。勿論

百人が百様であり、分野もそれぞれ得意分野に分かれていい。


いつの頃からか、ワタシは「画家になる」ことが天職なんだと

ひそかに思うようにまでなった。いまだに画家にはなっていないが


けれど最近気が付いた、ワタシがハボタンなりの園芸をするように

なったのも、「形と色のコーディネート」が面白いからであって、

決して金儲けの手段とだけ考えているわけではないんだ、ってことを。

ワタシはハボタンや花という画材ではない素材で絵やオブジェを

作成しているんだってことにハタと気づいて、笑ってしまった。

そういうふうに自分が百姓であることの意味を認識した時

「百姓芸術だってバクハツでェ~っ!」って思えてきて

実に面白い素材を扱う芸術分野にワタシは分け入ってきているんだ

と思えた。

巡り遇う人、そうならない人

2007-09-19 12:59:48 oyazの投稿 
20のムスメは2度、彼氏と別れた。他方、

24のムスメは17で出逢った彼とずっと一緒にきょうまで生きている。

16のムスメは社会に出れなくなり、彼なんて、とんでもない、いない。

50の男は、19で初めて結ばれた女と暮らし始めきょうまで生きてきた。

ポッポ屋、旅行屋を経て、今、百姓。妻も花栽培の手伝いをしてくれる。

今は16の赤ちゃんがえりした大きいムスメ一人が我々と暮らしているが

20のムスメも、24のムスメも、ワタシの妻が産んだ。

産み育てた妻は、母になり、親になり、女性の病をも去年乗り越え逞しい。

その逞しい母から産まれた3人ムスメたちもそれぞれの自分の人生を

「Make drama」し始め、笑ったり、泣き叫んだり、人生の荒海に

漕ぎ出した。平穏ではないんだよ、大海原は。嵐だってある。

だからこそ「平凡が1番」「普通が幸せ」なのだ。

けれどそれが実感としてわかるまであと、何回別れ、傷つき、挫折し

時の癒しを受けながら、立ち上がっていくのだろう。

ワタシも19の時、カミさんに出逢っていなかったら、、、、、

、、、、、、、今の真っ黒に日焼けした百姓の姿はなかっただろう。

「人生に カンパイしよう カンパイしよぉカンパイしよOh~♪」

Coffee colorの『人生に乾杯を』のさびを時々

ふと

口ずさみたくなるのは、

「いい出逢い」と「自分なりに精一杯」の人生に

悔いはないと思うから。

脳は天才

2007-09-16 00:41:18 oyazの投稿 
歌を聞き流しながら何かをやっていても

いつの間にか歌詞もメロディも覚えてしまう。

それがドラマや映画のせりふであれ、CMであれ、

選挙カーからの連呼であれ、はたまた英会話であれ、

スペイン語やロシア語、中国語でさえ、リズム感やおぼろげな

特徴だけかもしれないが、我々の脳は「履歴」として記憶してしまう。

ある人はそれを一度聞いただけで、オウム返しに口に出すことさえできる。


うちの娘にもそんなTalentが顕著に見える。

中学にもいかず、だから今、高校にも行っていないが

人の脳というのは、学校にいこうがいくまいが関係なく、

本来の能力を発揮しようとする。

人の頭というバレーボール位の大きさの中に

高性能なパソコンがおさまっており、しかも

それは、使い手がキーボードをいじらなくても自動で

しかも瞬時に、適時に検索したり、しゃべったり、体を動かす

指令を出したり、泣いたり、笑ったり、怒ったりするのである。

「人間」それは

すごいし、おもしろいし、無限の可能性を「秘めた」ではなく

現に「持っている」すばらしい存在なんだな、って

あらためてしみじみと思う、このごろ。

記憶

2007-09-14 10:38:49 oyazの投稿

「次の誕生日が来ると98歳だじゃー」

ワタシの勤めるパート先の老人ホームのあるおばーさん。

耳が少々遠いが、それでも補聴器もかけないで会話する。

膝がこの頃しびれるというが、毎朝部屋の掃除をし、ゴミ出しに来る。


(いったい長生きは、誰が良いなどと決めたのだろう。)

一方、

同じホームの97の同い歳のジーサンは、この頃ボケがひどくなり、

事務室の横にあるオープンスペースの椅子に腰掛け

「ジュゲムジュゲムゴボーノスリキレ~」みた独り言を、

延々と口ずさみ過ごすように変わってしまった。

「こんにちわ」と声をかけても「ジュゲム」を止めない。

ついこの間まで「おっシャジョー、泊まりか?たいへんだな~」と

若僧をねぎらう声をかけ、掛け合い漫才じみた会話ができていたのに、、、

(そろそろお迎えが近いことを、本人が一番わかっているかもしれない)


おばーさんも、ジーサンも、この宿直員のワタシも

アベさんやフクダさんと違って、まったく無名の一日本国民でしかないが

1世紀を生きようが、半世紀を生きようが、誰からも注目もされずに

人知れずやがて逝ってしまうのである。

いろんな時代を、好き嫌いに関係なく生き、歳を重ね、知恵と知識と

知略の限りを尽くして、それぞれが精一杯に生きているわけだが、

100人100様のドラマがあったわけだが、クランクインされるはずもなく

99.99人は、「名もなく、貧しく」されど野の花のように「美しく」生き

去っていくのである。日本の大勢には何の石ころ一個の波紋も投げずに。

誰からも、勿論歴史からも、記憶されることもなく。



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