バイオ技術の発達、ナノテクノロジーの進展、半導体、
ワタシ以外のすごい技術者、科学者が開発した人間の技術は
この世の自然界をまさに支配するかごとき錯覚を覚えさせる。
他方、土器についていた縄文時代の種を現代によみがえらせたり、
古代の蓮を現代の科学技術で発芽させ、咲かせた話題などが
取り上げられる。そんなことができる現代技術はたいしたものだとは思うが、
それ以上に感嘆してしまうのは、その「種」の生命力である。
人間がどんな技術を手に入れようが、遺伝子組み換えができるように
なろうが、乗り越えることのできない「神の領域」が、種である。
種自体は硬い殻に覆われた「中身を守る」というたった一つの
役割だけのために形成され、機能させられている。台風が来ようが
大津波、大地震、溶岩流が来ようが、生き続けて来た「種」の強さ。
人間は現代文明の優れた機械や技術、ソフトを、戦争で、
あるいは自然災害で、一瞬にして消失してしまうかもしれないが、
そんな事態が起きてこの地球上から人類と機械が絶滅したとしても
植物の種だけは地球が他の星に衝突されたり、自滅し爆縮するまで
死なずに生き続けることが、きっとできる強さを持っているのだろう。
そう考えると、神の創造の究極の作品は「種」なのである。
1mにもなる美しい花になるのも、元々はほんの数ミリの一粒の「種」だし、
1m70~80cmにもなる我ら人間も、元は0.0何ミリの精子である。
こんなこの世の根本的な生命科学の「種」の一粒を、
現代科学技術の粋を集めても人間は決して作り出すことができていない。
人間は自然をネジ伏せて、制覇して、支配できてるわけでもなんでもない。
自然界のほんの一部を解剖し、仕組みを突き止め、モホウしているだけだ。
神の領域の無限大分の1くらいのテクノロジーを手にしたに過ぎない。
だから現代文明のTopRunnerたる
ブッシュも、プーチンも、オンカホーも、サルコジも、フクダも
この世を人間の力技で支配したり、一人勝ちしようだなんて
バカな市場主義経済のゲームにいつまでも酔っぱらってないで
地上に落ちた一粒の雑草の種の何たるカかを、もっと考えてほしい。
~現代琵琶法師~
辿りついたら、、人は、、、
2007-09-24 00:43:49 oyazの投稿
ワタシというジガは
3~4歳で目覚め、同じ肉体に張り付いて
その肉体の変化に、抗えるはずもなく、ここまで来た。
「三つ子の魂百までも」というのは
「三つ子のしつけや教育が大事なのじゃ」
という世間一般で用いられる意味ではなく、本来は
「三歳で目覚めたジガは変わることなく、変わり続ける肉体が
百歳を迎え終わりを告げられるまでも、ずっとその様子を
見続けなければならない、人は定めにある」
という、精神と肉体の関係を意味することであったかと
今は思えるようになった。
「命~みーじーかーし~、恋せーよ~オトメ~♪」という
『ゴンドラの歌』という、そのフレーズをワタシは時々口ずさむ。
そして、乙女に限らず、振り返れば(きっと誰だって)
「我が人生は、実に長かったような、しかし
あっと言う間だったような、、、」と
えもいわれぬ感慨を持つのだろう、と想像された。。
まして、若くみずみずしい時代は矢のごとく一瞬にして過ぎ去る。
老いさらばえていくだけの肉体という「殻」から離脱することを
許されないジガは、
さて、はて、後半生をどんな風に生き生きと楽しんで
生き抜いて、ミショ-かっ!?
葉花栽培は金儲けじゃなくアートだ‘@>>
2007-09-21 02:28:40 oyazの投稿
ワタシは指が不器用である。
だから、ピアノがひけないし、借りたギターも長続きしなかった、、
、、ということに、全ては指のせいにしておこう。
さて、そんなワタシだが、何故か図画工作は小さい時から得意だった。
というか、小刀で何度指を切ろうが、お前の絵の具の色使いはヘタだ
と言われようが、唯一無二の自分だけの独楽や、絵やオブジェを
生み出す面白さ、満足感、喜びを知ってしまったのである。
コレこそが、ワタシたちが皆カミサマから与えられた能力、
創造する才能、なのだと確信するようになる。勿論
百人が百様であり、分野もそれぞれ得意分野に分かれていい。
いつの頃からか、ワタシは「画家になる」ことが天職なんだと
ひそかに思うようにまでなった。いまだに画家にはなっていないが
けれど最近気が付いた、ワタシがハボタンなりの園芸をするように
なったのも、「形と色のコーディネート」が面白いからであって、
決して金儲けの手段とだけ考えているわけではないんだ、ってことを。
ワタシはハボタンや花という画材ではない素材で絵やオブジェを
作成しているんだってことにハタと気づいて、笑ってしまった。
そういうふうに自分が百姓であることの意味を認識した時
「百姓芸術だってバクハツでェ~っ!」って思えてきて
実に面白い素材を扱う芸術分野にワタシは分け入ってきているんだ
と思えた。
巡り遇う人、そうならない人
2007-09-19 12:59:48 oyazの投稿
20のムスメは2度、彼氏と別れた。他方、
24のムスメは17で出逢った彼とずっと一緒にきょうまで生きている。
16のムスメは社会に出れなくなり、彼なんて、とんでもない、いない。
50の男は、19で初めて結ばれた女と暮らし始めきょうまで生きてきた。
ポッポ屋、旅行屋を経て、今、百姓。妻も花栽培の手伝いをしてくれる。
今は16の赤ちゃんがえりした大きいムスメ一人が我々と暮らしているが
20のムスメも、24のムスメも、ワタシの妻が産んだ。
産み育てた妻は、母になり、親になり、女性の病をも去年乗り越え逞しい。
その逞しい母から産まれた3人ムスメたちもそれぞれの自分の人生を
「Make drama」し始め、笑ったり、泣き叫んだり、人生の荒海に
漕ぎ出した。平穏ではないんだよ、大海原は。嵐だってある。
だからこそ「平凡が1番」「普通が幸せ」なのだ。
けれどそれが実感としてわかるまであと、何回別れ、傷つき、挫折し
時の癒しを受けながら、立ち上がっていくのだろう。
ワタシも19の時、カミさんに出逢っていなかったら、、、、、
、、、、、、、今の真っ黒に日焼けした百姓の姿はなかっただろう。
「人生に カンパイしよう カンパイしよぉカンパイしよOh~♪」
Coffee colorの『人生に乾杯を』のさびを時々
ふと
口ずさみたくなるのは、
「いい出逢い」と「自分なりに精一杯」の人生に
悔いはないと思うから。
脳は天才
2007-09-16 00:41:18 oyazの投稿
歌を聞き流しながら何かをやっていても
いつの間にか歌詞もメロディも覚えてしまう。
それがドラマや映画のせりふであれ、CMであれ、
選挙カーからの連呼であれ、はたまた英会話であれ、
スペイン語やロシア語、中国語でさえ、リズム感やおぼろげな
特徴だけかもしれないが、我々の脳は「履歴」として記憶してしまう。
ある人はそれを一度聞いただけで、オウム返しに口に出すことさえできる。
うちの娘にもそんなTalentが顕著に見える。
中学にもいかず、だから今、高校にも行っていないが
人の脳というのは、学校にいこうがいくまいが関係なく、
本来の能力を発揮しようとする。
人の頭というバレーボール位の大きさの中に
高性能なパソコンがおさまっており、しかも
それは、使い手がキーボードをいじらなくても自動で
しかも瞬時に、適時に検索したり、しゃべったり、体を動かす
指令を出したり、泣いたり、笑ったり、怒ったりするのである。
「人間」それは
すごいし、おもしろいし、無限の可能性を「秘めた」ではなく
現に「持っている」すばらしい存在なんだな、って
あらためてしみじみと思う、このごろ。
記憶
2007-09-14 10:38:49 oyazの投稿
「次の誕生日が来ると98歳だじゃー」
ワタシの勤めるパート先の老人ホームのあるおばーさん。
耳が少々遠いが、それでも補聴器もかけないで会話する。
膝がこの頃しびれるというが、毎朝部屋の掃除をし、ゴミ出しに来る。
(いったい長生きは、誰が良いなどと決めたのだろう。)
一方、
同じホームの97の同い歳のジーサンは、この頃ボケがひどくなり、
事務室の横にあるオープンスペースの椅子に腰掛け
「ジュゲムジュゲムゴボーノスリキレ~」みた独り言を、
延々と口ずさみ過ごすように変わってしまった。
「こんにちわ」と声をかけても「ジュゲム」を止めない。
ついこの間まで「おっシャジョー、泊まりか?たいへんだな~」と
若僧をねぎらう声をかけ、掛け合い漫才じみた会話ができていたのに、、、
(そろそろお迎えが近いことを、本人が一番わかっているかもしれない)
おばーさんも、ジーサンも、この宿直員のワタシも
アベさんやフクダさんと違って、まったく無名の一日本国民でしかないが
1世紀を生きようが、半世紀を生きようが、誰からも注目もされずに
人知れずやがて逝ってしまうのである。
いろんな時代を、好き嫌いに関係なく生き、歳を重ね、知恵と知識と
知略の限りを尽くして、それぞれが精一杯に生きているわけだが、
100人100様のドラマがあったわけだが、クランクインされるはずもなく
99.99人は、「名もなく、貧しく」されど野の花のように「美しく」生き
去っていくのである。日本の大勢には何の石ころ一個の波紋も投げずに。
誰からも、勿論歴史からも、記憶されることもなく。