お金は貯めずに「使う」
2007-08-31 05:10:05 oyazの投稿
前回、お金は「楽しく」稼ぐべし、って考えた。
そう考えたら、ふっと、別のことが分かった。
「お金は貯めてはいけない」
「お金は使ってこそ意味がある」っていうこと。
「金は天下の回りもの」とは昔から言われてきたが
ワタシはそれをずーっと「いつか自分にも回ってくるもの」と
都合よく思っていたが、実はそういう意味の言葉ではなかった。
工業製品を例にとれば
松下やTOYOTAが1兆円儲けたとしよう。
そのうちの8000億円はそこで働く従業員に月給として回っていく。
その月給で、イトーヨーカ堂やイオングループで人々は買い物をして
金を回している。その金が今度は原材料の仕入先の中国や諸国へも回っていく。
こうしてグローバルな規模でも個人の規模でも流通の決済の手形として
「お金は回る」のである。それが一箇所に貯め込まれていたとしたら
それはただの「死に金」であって、まったく「持っている意味がない」
それがお金なんだ、と最近やっと気がついた。
だからあそこのうちは大金持ちだとか、あの会社には大金があるとか
うらやむ必要はないのだ。貯め込んでいる金ならただの紙切れであり
無意味なのだから、使わないで札束数える人がいるとすれば
オタクっぽい変な趣味の人だ、ってことである。
「回してなんぼ」なのである、お金は。
儲かってる企業やお金持ちは「その回し役」を担って日々苦役をしている
金の番人、あるいは金の交通整理人、位に考えたらいい。ご苦労様、なのだ。
どんなに稼いでも、物を買いこんでも、貴金属で身を固めても
「あの世には持ってはいけません」って、最後の最期は言い渡される。
貯める意味は、お金そのものにはないのである。
徒手空拳であの世に戻る時、
「我が人生、幸せだった」
「悔いはない」
って思える生き方を日々したいものである。
ただそれもあくまで自己満足の「心」の内のことであるが。
突き詰めればお金だけでなく
「人生は無意味」だ。
ただ、そういう無意味なこの世にカミサマはこさえたのだ、
楽あれば苦あり、
働かざるもの食うべからず、
遊びをせんとや生まれけん、
平凡こそ幸せ、
、、、、、、、一回こっきりの人生という本番の渦中
、、、リセットは効かない、、、この進むだけの時間の中で
「おまえさんはどう生きる?」ってカミサマは
修行と悟り道場であるこの世に、なぜか我々を試すように放った。
それをどう受け止め、どう生き、満足するのかは
、、、個々人の、、、極めて個人的な、、、、
最終的にはみんな
「心」の内の問題ではある。
価値観。
そう考えたら、ふっと、別のことが分かった。
「お金は貯めてはいけない」
「お金は使ってこそ意味がある」っていうこと。
「金は天下の回りもの」とは昔から言われてきたが
ワタシはそれをずーっと「いつか自分にも回ってくるもの」と
都合よく思っていたが、実はそういう意味の言葉ではなかった。
工業製品を例にとれば
松下やTOYOTAが1兆円儲けたとしよう。
そのうちの8000億円はそこで働く従業員に月給として回っていく。
その月給で、イトーヨーカ堂やイオングループで人々は買い物をして
金を回している。その金が今度は原材料の仕入先の中国や諸国へも回っていく。
こうしてグローバルな規模でも個人の規模でも流通の決済の手形として
「お金は回る」のである。それが一箇所に貯め込まれていたとしたら
それはただの「死に金」であって、まったく「持っている意味がない」
それがお金なんだ、と最近やっと気がついた。
だからあそこのうちは大金持ちだとか、あの会社には大金があるとか
うらやむ必要はないのだ。貯め込んでいる金ならただの紙切れであり
無意味なのだから、使わないで札束数える人がいるとすれば
オタクっぽい変な趣味の人だ、ってことである。
「回してなんぼ」なのである、お金は。
儲かってる企業やお金持ちは「その回し役」を担って日々苦役をしている
金の番人、あるいは金の交通整理人、位に考えたらいい。ご苦労様、なのだ。
どんなに稼いでも、物を買いこんでも、貴金属で身を固めても
「あの世には持ってはいけません」って、最後の最期は言い渡される。
貯める意味は、お金そのものにはないのである。
徒手空拳であの世に戻る時、
「我が人生、幸せだった」
「悔いはない」
って思える生き方を日々したいものである。
ただそれもあくまで自己満足の「心」の内のことであるが。
突き詰めればお金だけでなく
「人生は無意味」だ。
ただ、そういう無意味なこの世にカミサマはこさえたのだ、
楽あれば苦あり、
働かざるもの食うべからず、
遊びをせんとや生まれけん、
平凡こそ幸せ、
、、、、、、、一回こっきりの人生という本番の渦中
、、、リセットは効かない、、、この進むだけの時間の中で
「おまえさんはどう生きる?」ってカミサマは
修行と悟り道場であるこの世に、なぜか我々を試すように放った。
それをどう受け止め、どう生き、満足するのかは
、、、個々人の、、、極めて個人的な、、、、
最終的にはみんな
「心」の内の問題ではある。
価値観。